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第十六章 誰もいない街 ― 在宅の春

実家に戻った春、

外の空気はやけに静かだった。


人の気配が薄い。

車の音も少ない。


街そのものが、息をひそめているみたいだった。


オイラには理由はわからん。

でも、いつもと違うのははっきり感じた。


あの人は家にいる時間が増えた。


黒い箱の前に座って、

じっと画面を見ている。


カチカチと音がする。


その黒い箱は、

オイラにはようわからん存在だ。


でも、ときどきあの人の顔が止まる。

考え込んでる顔だ。


そういうとき、オイラはそばに行く。


鼻で軽くつつく。


するとあの人は、

少しだけ笑って頭を撫でてくる。


「寅、ちょっと休憩やな。」


その言葉はわかる。


休憩は好きや。


家の中は、ずっと静かだった。

外の世界だけが、別の時間で動いているみたいだった。


ある日、あの人がテレビを見ていた。


オイラは横で丸くなっていたけど、

空気が少し変わったのがわかった。


あの人の動きが止まる。


「志村けんさんが亡くなった」


そんな声が流れていた。


あの人はしばらく何も言わなかった。

ただ画面を見ていた。


オイラも、その横でじっとしていた。


理由はわからんけど、

部屋の空気が少し重くなった気がした。


そのあと、あの人は静かに立ち上がって、

オイラの頭を長く撫でた。


いつもより、ちょっとだけ長く。


「寅、おるだけでええな。」


その声はやさしかった。


昼間になると、

あの人はまた黒い箱の前に座る。


話したり、黙ったりしている。


オイラはその横で寝転がっている。


ときどきボールが転がってくる。


鼻で押し返すと、あの人が笑う。


「今度は寅の番やな。」


いや、最初からオイラの番やと思うけどな。


この部屋は、

外の世界とつながってるのに、

どこか別の場所みたいだった。


でも、それでええ。


あの人がおる。

友ちゃんの匂いもある。


それで十分やった。


夜、黒い箱の電源が落ちる音がすると、

オイラは起き上がる。


足元へ行く。


頭を撫でられる。


「今日もありがとうな、寅。」


その言葉が、

この静かな春のいちばん確かな音やった。

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