第十五章 春の帰還 ― コロナの春に
名古屋での暮らしは、
なんや穏やかで、ええ時間やった。
朝の散歩道。
やわらかい風。
帰ってくると聞こえる友ちゃんの声。
オイラは、
この毎日がずっと続くんやないかと思っとった。
けど、
あるころから街の匂いが変わり始めた。
人が減った。
みんな急ぎ足で、
顔を隠して歩いてる。
店もしまっとるし、
笑い声も少なくなった。
コロナ。
人間たちはそう呼んでいた。
オイラには難しいことは分からへん。
でも、
世界が静かになっていく感じは分かった。
そんな春。
また引っ越しらしい。
本社復帰。
あの人はそう言っとった。
名古屋での暮らしが終わる。
友ちゃんは少し寂しそうやった。
オイラもなんとなく分かっとった。
この家とも、
この街とも、
もうすぐお別れなんやなって。
三月。
あの人が、
「最後に見に行こう」って言った。
連れて行かれたんは、
大きな川の鉄橋やった。
風が冷たかった。
たくさんの人が、
大きなカメラを構えて待っとる。
みんな黙っとる。
空気だけが、
なんや張りつめとった。
しばらくすると、
遠くから低い音が聞こえてきた。
鉄の匂い。
振動。
そして現れた。
白くて長い新幹線。
先っぽがカモノハシみたいな顔しとる。
あの人は、
子どもみたいな顔で見とった。
嬉しそうやけど、
ちょっと寂しそうでもあった。
列車は春の光を浴びながら、
風みたいに走り抜けていった。
気づけば、
周りのみんなも息を止めとった。
オイラはその姿をじっと見とった。
長いものが、
遠くへ消えていく。
なんやろな。
胸の奥が、
少し静かになる感じやった。
列車が見えへんようになると、
オイラは小さく鼻を鳴らした。
終わったな。
たぶん、
そんな気持ちやった。
帰りの車の中で、
友ちゃんとあの人が笑っとった。
「寅って何弁なんやろな。」
「関西弁でもないし、名古屋弁でもないね。」
すると友ちゃんが笑いながら言った。
「この子は“寅次郎弁”やね。」
オイラは窓の外を見ながら、
尻尾をふわっと揺らした。
たしかにそうかもしれへん。
関東で生まれて、
関西を歩いて、
名古屋で暮らした。
気づいたら、
オイラの言葉はどこのもんか分からへんようになっとった。
でも、
友ちゃんとあの人にはちゃんと伝わる。
それでええ。
引っ越しの日。
部屋には段ボールが並んどる。
いつもの匂いが、
少しずつ薄なっていく。
窓から春の光が差し込んどった。
この部屋、
よう笑ったなぁ。
そんな空気が残っとった。
大家さんが最後に頭を撫でてくれた。
「寅ちゃん、ほんまええ子やったね。」
オイラは静かに尻尾を振った。
この街の人たちは、
みんなやさしかった。
そして四月。
世界は静かなまんまやった。
みんな顔を隠して、
声を小さくしとる。
それでも春は来る。
車に荷物を積んで、
オイラたちは名古屋を離れた。
信号待ち。
オイラは窓の外を見る。
歩いた道。
笑った場所。
風の匂い。
全部、
ちゃんと覚えとる。
「さあ、帰ろう。」
あの人がそう言った。
オイラは小さく尻尾を振った。
春の空気が流れていく。
別れの匂い。
始まりの匂い。
春っていうんは、
たぶんそういう季節なんやろな。




