第十二章 めぐりあい ― 大阪の空から名古屋へ
気がつけば、
関西での暮らしも長くなっていた。
最初は知らん匂いばかりで、
どこ歩いても落ち着かへんかった街。
でも今は違う。
いつもの公園。
いつもの散歩道。
いつもの声。
「寅ちゃん!」
そう呼んでくれる人が、
気づけばたくさんできていた。
オイラは犬やから難しいことは分からへん。
でも、
匂いで分かる。
この街で、
オイラたちはちゃんと生きていた。
モモちゃん。
小助。
柴友会のみんな。
一緒に歩いて、
匂いをかいで、
並んで写真を撮った。
その中には、
もう会えへん子もいる。
でも、不思議や。
思い出すと、
ちゃんと匂いまで浮かんでくる。
きっと、
そういうもんなんやろな。
もちろん、
毎日がおとなしいだけやなかった。
オイラにも、
若いころは若いころの勢いがあった。
ある日のことや。
あの人の帰りが遅かった。
友ちゃんも心配そうで、
家の中が少し静かやった。
オイラはなんや落ち着かへんかった。
ひとりで待ってるうちに、
だんだん腹が立ってきた。
遅い。
なんで帰ってこんのや。
気づいたら、
壁をガジガジやっていた。
ソファの脚も噛んだ。
クッションの中身も飛び出した。
部屋の中はえらいことになった。
しばらくして玄関が開く。
あの人が立ち止まった。
「……おい、寅。」
低い声。
しまった。
オイラはテーブルの下から顔を出した。
ちょっと怒られる気もした。
でも、
なんやろ。
少し誇らしかった。
オイラ、
ちゃんとこの家で生きてた。
そんな感じがした。
友ちゃんは笑っていた。
「やったね、大工さん。」
大工ってなんか分からへんけど、
悪い意味やない気がした。
せやから、
ちょっと胸を張った。
引っ越しの日。
部屋から荷物が消えて、
リビングは広くなっていた。
オイラは部屋の中を歩き回る。
匂いが薄くなっていく。
なんか、
寂しい。
ふと見ると、
あの日かじった壁の跡が残っていた。
あの人と友ちゃんがそれを見て笑っている。
大家さんも笑っていた。
「寅ちゃん元気やった証拠やな。」
その言葉を聞いたとき、
友ちゃんの匂いが少しやわらかくなった。
怒られへんかった。
それどころか、
ありがとうって言われていた。
オイラには難しいことは分からへん。
でも、
オイラが残した跡が、
この家の思い出になったんやってことは分かった。
そして春。
また、新しい場所へ行くらしい。
名古屋。
オイラはまだ知らん街。
でも、不思議と不安はなかった。
きっとまた、
新しい匂いがあって、
新しい出会いがある。
車に荷物が積まれていく。
オイラは一度だけ後ろを振り返った。
大阪の風。
川の匂い。
みんなの声。
ちゃんと覚えてる。
楽しかった。
ほんまに。
そして車は走り出す。
窓の外の景色が、
少しずつ遠ざかっていく。
出会いも、
別れも、
かじった壁も。
全部、
オイラがここで生きた証なんやろな。
そんなことを考えながら、
オイラは静かに前を向いた。
名古屋の風が、
少しずつ近づいていた。




