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第十一章 止まった景色

あの夏は、

空気そのものが熱かった。


外へ出るだけで、

地面からむわっと熱が上がってくる。


それでも、

あの人は毎日忙しそうにしていた。


朝早く出ていって、

夜になると少し疲れた匂いを連れて帰ってくる。


オイラは玄関まで迎えに行って、

足元に鼻を押しつける。


するとあの人は、

「ただいま、寅。」

って笑う。


でも、その笑い方が、

少し無理してるように見える日もあった。


ある日のことや。


帰ってきたあの人の匂いが、

いつもと違った。


汗の匂いでもない。

怒ってる匂いでもない。


もっと深い、

身体の奥から出るような匂いやった。


苦しそうな匂い。


あの人は座り込むみたいにソファへ腰を下ろして、

しばらく動かへんかった。


友ちゃんが心配そうに話しかけている。


オイラはその横へ行って、

静かに顔を見上げた。


胸の音が、

なんか変やった。


速い。


落ち着かへん。


オイラには難しいことは分からへん。


でも――


あの人の身体の中で、

何かが暴れてる。


そんな感じがした。


その日から、

あの人は車を運転せえへんようになった。


前は、

ハンドルを握ると少し楽しそうやったのに。


エンジンの音が好きやったのに。


それがなくなった。


代わりに、

友ちゃんが運転するようになった。


オイラは後ろの席。


クレートの中から、

前にいるふたりを見る。


信号で止まるたびに、

あの人はぼんやり外を見ていた。


オイラはときどき、

その横顔を見る。


なんやろ。


前より少し静かや。


でも、

どこか優しくなった気もした。


窓の外には、

小さい木。

歩いてる人。

赤信号で待つ自転車。


前のあの人は、

たぶんそんな景色を見てへんかった。


ずっと前だけ見て、

急いでいた。


でも今は違う。


オイラと一緒に、

ゆっくり外を見ている。


風の匂いも、

季節の変わり目も、

ちゃんと感じながら。


「もう闘わんでええんちゃう。」


オイラは、

そんなふうに思っていた。


もちろん言葉にはできへん。


でも、

あの人の隣に座ってるだけで、

少し伝わる気がした。


アクセルを踏めなくなっても、

道はちゃんと続いていた。


その道を、

オイラたちはゆっくり進んでいた。


そしてその先には、

いつも友ちゃんと、

オイラの居場所があった

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