帰ってきた夏
東京での暮らしが始まって、数か月が過ぎた。
浩二は、大学の講義にも少しずつ慣れてきた。初めて見るもの、初めて会う人。岡山にいた頃には想像もしなかった毎日だった。
けれど、慣れないことも多かった。
朝の満員電車。自炊。洗濯。慣れないアルバイト。
母のありがたみは、離れて暮らして初めて身に染みた。
電話で春江にそう話すと、決まって返ってくるのは同じ言葉だった。
「ちゃんと食べとるん?」
「食べとるよ」
「何を?」
「……いろいろ」
「いろいろじゃ分からんが。野菜も食べとるん?」
浩二は苦笑した。
「食べとるって」
「ほんまかいな。東京の大学に行ったからいうて、身体まで東京人にならんでええんよ」
何を言っているのかよく分からなかったが、母らしい言い方だった。
そして、初めての夏休み。
浩二は、お盆に帰省することにした。
電話でそのことを伝えると、春江は少し黙った。
「ほんまに帰ってくるん?」
「帰るよ。お盆じゃし」
「そうか。そうか。ほんなら、何時に着くん?」
「岡山駅には昼過ぎに着くよ。そこから吉備駅まで行くから、吉備駅で迎えてくれる?」
「分かった。夕方じゃな。迎えに行くわ」
電話を切った後、春江は台所に立ったまま、しばらく動かなかった。
それから、仏壇に向かって声をかけた。
「お父ちゃん、浩二が帰ってくるんよ」
返事はない。
それでも春江は、もう一度言った。
「お盆に帰ってくるんよ」
居間にいたイネが顔を上げた。
「何を二回も言うとるん」
「嬉しいんよ」
春江は笑った。
その笑顔を見て、イネも口元を緩めた。
「そうか。帰ってくるんか」
「そうよ」
「いつ?」
「お盆よ」
「何時?」
「夕方」
イネはうなずいた。
「ほんなら、待っとらにゃあ」
その日から、イネの落ち着かない日々が始まった。
お盆当日の朝。
イネは、玄関先に椅子を出して座っていた。
まだ朝の八時だった。
「おばあちゃん、浩二が帰ってくるんは夕方よ」
春江が言う。
「分かっとる」
「そんな早うから待たんでもええよ」
「ええんよ。ここにおるんが」
イネは、そう言って道路の方を眺めた。
春江は台所へ戻った。
浩二の好きだった煮物を作り、魚を焼く準備をする。食卓に並べる皿を出しては、また別の皿に替えた。
「これじゃ、ちょっと多いかねえ」
独り言を言いながら、結局、もう一品作ることにした。
「お母ちゃん、そんなに作らんでもええよ」
イネが言う。
「浩二が帰ってくるんじゃけえ、いろいろ食べさせたいんよ」
「そりゃそうじゃ」
イネはうなずいた。
「東京じゃ、ろくなもん食べとらんじゃろう」
「本人は食べとる言うとるけどな」
「嘘じゃ」
即答だった。
春江は笑った。
「お母ちゃん、浩二が帰ってきたら、ちゃんと話を聞いてやってな」
「分かっとる」
「東京の大学のことも、友達のことも」
「分かっとる」
そう言いながら、イネはまた玄関先の椅子に座った。
昼を過ぎても、イネはそこにいた。
春江が昼ご飯を持っていくと、イネは箸をつけながら言った。
「浩二は、何時に帰るん?」
「夕方よ」
「さっきも聞いたな」
「そうよ」
「忘れとった」
春江は、思わず吹き出した。
「お母ちゃん、しっかりしてえな」
「しっかりしとるわ。浩二が帰ってくるんじゃけえ」
その言葉に、春江は何も言わなかった。
ただ、イネの背中にそっと手を添えた。
午後になると、春江もそわそわし始めた。
時計を見ては、台所を片づけ、また時計を見る。
「そろそろ行かにゃあ」
春江は軽トラックの鍵を手に取った。
「お母ちゃん、浩二を迎えに行ってくるよ」
イネは、椅子に座ったまま顔を上げた。
「うちも行く」
「ええよ。ここで待っとき」
「なんでじゃ」
「浩二が帰ってきたら、すぐ分かるじゃろ」
イネは少し不満そうだったが、やがてうなずいた。
「ほんなら、早う帰ってきてな」
「分かった」
春江は軽トラックに乗り込んだ。
出発しかけて、ふと思い出したように窓を開けた。
「お母ちゃん、お茶は飲んどきんさいよ」
「分かっとる」
「ちゃんとよ」
「しつこいなあ」
春江は笑って、車を走らせた。
吉備駅に着くと、まだ少し時間があった。
春江は車を停め、窓を開けた。
夕方の風が、車内に入ってくる。
駅の時計を見た。
まだ、少し早い。
「もう着いとる頃かねえ」
独り言を言って、また時計を見た。
やがて、改札から人が出てきた。
その中に、浩二の姿があった。
少し日に焼けた顔。肩には大きなバッグ。
春江は、思わず声を上げた。
「浩二!」
浩二が振り向いた。
「母ちゃん!」
二人は、しばらく笑っていた。
「元気そうじゃな」
「母ちゃんも」
「荷物、貸してみい」
「自分で持てるよ」
「ええから。ほら、こっちに入れ」
春江は、浩二のバッグを受け取ろうとした。
「母ちゃん、重いって」
「何が重いん。こんくらい」
そう言って持ち上げたものの、思ったより重かった。
「……あんた、何を入れとるん?」
「本とか、服とか」
「本ばっかりじゃな。大学生らしいわ」
春江は笑いながら、荷物を軽トラックに積んだ。
「ほんなら、帰ろうか」
「うん」
車が走り出すと、春江はすぐに聞いた。
「大学はどうなん?」
「楽しいよ」
「友達はできたん?」
「できた」
「ちゃんと食べとるん?」
「またそれかよ」
浩二は笑った。
「食べとるって」
「何を食べとるん?」
「ご飯とか」
「ご飯だけじゃ分からんが」
「母ちゃん、質問が多いって」
「久しぶりに帰ってきたんじゃけえ、聞きたいことがいっぱいあるんよ」
浩二は窓の外を見た。
岡山の夕暮れ。
東京では見慣れない、ゆっくりとした景色が流れていく。
「……帰ってきたなあ」
思わず、そうつぶやいた。
春江は、ちらりと浩二を見た。
「そうじゃろ」
その声が、少しだけ弾んでいた。
家に着くと、玄関先にイネが座っていた。
春江の車の音が聞こえたのだろう。
「浩二!」
イネは、浩二の姿を見つめた。
「ばあちゃん!」
浩二は、荷物を置いて駆け寄った。
「帰ってきたんか」
「帰ってきたよ」
イネは、浩二の顔をじっと見た。
「痩せたなあ」
「そんなことないよ」
「ほんまかいな。東京で、ちゃんと食べとるんか」
浩二は、母親の方を見た。
「ばあちゃんまで、それかよ」
春江は笑った。
「ほら、やっぱり食べとらんのじゃ」
イネは、浩二の腕をつかんだ。
「まあ、ええ。帰ってきたんじゃけえ。いっぱい食べりゃあええ」
「うん」
浩二は、ばあちゃんの手を握った。
その手は、以前よりも少し細くなっていた。
「ばあちゃん、ずっと待っとったん?」
「待っとらん」
春江が横から言った。
「朝からずっと玄関で待っとったんよ」
「春江!」
イネが声を上げた。
「余計なことを言うな」
浩二は笑った。
「そうなん? ばあちゃん」
「……まあ、ちょっとだけな」
「朝から?」
「ちょっとだけじゃ」
浩二は、ばあちゃんの肩にそっと手を置いた。
「ありがとう」
イネは、何も言わなかった。
ただ、浩二の背中を何度もなでた。
その後が、また大騒ぎだった。
「浩二、手を洗いんさい」
「うん」
「その前に、荷物を部屋に置きんさい」
「分かった」
「いや、先にご飯じゃ」
春江が言った。
「母ちゃん、どっちなんよ」
「どっちでもええ。早うせんと、冷めるが」
浩二は笑いながら、荷物を持って部屋へ向かった。
部屋に入ると、布団が敷かれていた。
机の上には、昔使っていた鉛筆立てが置いてある。
浩二は、しばらく部屋を見回した。
東京へ出る前と、ほとんど変わっていない。
その時、春江が部屋の入口から顔を出した。
「浩二、早う着替えんさい。ご飯が冷めるよ」
「分かったって」
「それと、洗濯物があったら出しときんさい」
「母ちゃん、俺、大学生なんじゃけど」
「大学生でも洗濯はするじゃろ」
「自分でしとるよ」
「そうか。偉いなあ」
春江は、少し嬉しそうに笑った。
浩二は、照れくさくなって顔をそらした。
「……もうええから、あっち行って」
「はいはい」
春江は笑いながら、部屋を出ていった。
食卓には、煮物、焼き魚、野菜の天ぷら、漬物。
浩二が東京で食べていたものとは、まるで違う食事だった。
「いただきます」
浩二が箸をつけると、イネがすぐに言った。
「どうじゃ?」
「うまいよ」
「ほんまか?」
「ほんま」
春江も、少し安心したように笑った。
「ほら、やっぱり家のご飯がええんよ」
「母ちゃんのご飯、久しぶりじゃな」
その言葉に、春江の手が止まった。
「……そうじゃな」
浩二は、気づかないふりをして魚を食べた。
「これ、うまいわ」
「もっと食べんさい」
イネが言った。
「まだあるけえ」
「ばあちゃん、もう腹いっぱい」
「若いんじゃけえ、食べんと」
「大学生は、そんなに食べんよ」
春江が笑った。
「東京で小さくなっとるんじゃけえ、今日はいっぱい食べさせにゃあ」
浩二は、もう一度箸を伸ばした。
「ほら、これも食べ」
春江が、皿に煮物を追加した。
「母ちゃん、もうええって」
「遠慮せんでええ」
「遠慮じゃないんよ」
イネが口を挟んだ。
「ほんなら、わたしが食べるわ」
春江が言った。
「お母ちゃんは、さっき食べたじゃろ」
「浩二の分を食べるんじゃ」
「いや、ばあちゃん、俺の分じゃけえ」
浩二が慌てて皿を引き寄せた。
その様子を見て、春江とイネは笑った。
食事が終わる頃、玄関から声がした。
「春江さん、おる?」
ふみだった。
近所の人から浩二が帰ってきたと聞き、顔を見に来たのだった。
「おるよ。どうしたん?」
「浩二が帰ってきたいうて聞いたけえ」
ふみは、居間に入るなり浩二を見た。
「まあ、浩二。帰ってきたんじゃな」
「ふみさん、ただいま」
「東京の大学はどうなん?」
「楽しいよ」
ふみは、イネの方を見た。
「イネさん、嬉しいじゃろう」
イネは、少し胸を張った。
「東京の大学に行っとるんよ。うちの自慢の孫じゃけえ」
浩二は、照れくさそうに笑った。
「ばあちゃん、そんなこと言わんでええって」
「なんでじゃ。ほんまのことじゃろ」
ふみも笑った。
「ええなあ。東京の大学じゃもんなあ」
春江は、台所から顔を出した。
「お母ちゃん、朝からずっと待っとったんよ」
「春江!」
イネがまた声を上げた。
ふみは、目を丸くした。
「まあ、朝から?」
「ちょっとだけじゃ」
「ちょっとだけ、朝から夕方までな」
春江が言うと、居間に笑い声が広がった。
イネは、少しむっとした顔をしたが、すぐに浩二を見た。
「まあ、ええんよ。帰ってきたんじゃけえ」
その言葉に、浩二は笑った。
夜。
浩二は、自分の部屋にいた。
窓の外から、虫の声が聞こえる。
東京では、こんな静かな夜はなかった。
夕飯を食べ過ぎたせいで、少し苦しかった。
けれど、それが嬉しかった。
母ちゃんが何度も食べろと言ったこと。
ばあちゃんが朝から待っていたこと。
ふみさんが顔を見に来てくれたこと。
どれも、東京では味わえないものだった。
浩二は、机の上に置いた鉛筆立てを見た。
ここで受験勉強をしていた頃のことが、ふと浮かんだ。
朝早く起きて、夜遅くまで机に向かった日々。
母ちゃんが夜食に持ってきてくれた、塩むすび。
あの頃は、早く東京へ行きたいと思っていた。
今は、帰ってきたことが嬉しかった。
浩二は、布団に横になった。
明日も、きっと騒がしいだろう。
母ちゃんは、また何か食べさせようとする。
ばあちゃんは、帰る日を何度も聞く。
それでも、帰ってきてよかった。
浩二は、そう思った。
家の外では、夏の虫が鳴いていた。
岡山の夜は、ゆっくりと更けていった。




