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遠くにいても

浩二が五十歳になった。


東京で暮らすようになって、三十年近くが過ぎていた。


仕事では部下を持ち、任されることも増えた。家では家族との暮らしがあり、休日も何かと用事が入る。


若い頃は、東京で暮らすことに精いっぱいだった。


今では、東京での暮らしがすっかり当たり前になっている。


その一方で、岡山へ帰る機会は少しずつ減っていた。


学生の頃は、夏休みや年末年始になると、当たり前のように帰省していた。


岡山駅から吉備駅へ向かい、駅に着けば、母の春江が軽トラックで迎えに来ていた。


家に帰れば、祖母のイネが玄関先で待っている。


「おかえり」


その一言を聞くと、東京での暮らしの疲れが、少しずつほどけていくようだった。


けれど、仕事を始め、結婚し、家庭を持つと、帰省の予定を立てることも簡単ではなくなった。


年末年始は家族の予定がある。夏は仕事が忙しい。休みが取れても、東京で済ませなければならない用事がある。


「今年は、いつ帰ろうか」


そう思いながら、気がつけば一年が過ぎていた。


母から電話がかかってくるのは、夕方が多かった。


「もしもし、浩二か」


「うん、母さん。どうした?」


「いや、どうもしとらんよ。元気にしとるかな思うて」


「元気だよ。母さんは?」


「こっちも元気よ。畑もぼちぼちやっとる」


「そうか。無理したらいかんよ」


「分かっとる。あんたこそ、ちゃんと食べとるん?」


「食べてるよ」


「外でばっかり食べたらいかんよ。野菜も食べんと」


「分かってるって」


「そうか。仕事は忙しいん?」


「まあ、忙しいけど、何とかやってるよ」


「そう。体には気をつけんといけんよ」


そして、いつも最後は同じ話になる。


「今度、いつ帰ってくるん?」


「そうだな。仕事の予定を見て、また連絡するよ」


「そうか。無理せんでええよ。帰れるときに帰ってきたらええ」


「うん。今度帰るよ」


「待っとるけえな」


電話は、だいたいそれで終わった。


特別な話があるわけではない。


母の畑のことを聞いても、返ってくる答えはいつも同じだった。


「ぼちぼちよ」


それでも、春江は電話を切る前に、必ず浩二の体を気遣った。


浩二もまた、同じように母の体を気遣った。


何度も繰り返される、いつもの会話だった。


ある晩、帰宅した浩二は、食卓に置かれた夕飯を見ながら、母からの電話を思い出した。


「野菜も食べんと」


そう言われたばかりだった。


「今日、野菜食べたっけな」


独り言のようにつぶやくと、家族に笑われた。


「お母さんに言われたの?」


「ああ。いつも同じことを言うんだよ」


浩二も笑った。


「でも、ありがたいよね」


家族の言葉に、浩二はうなずいた。


そうなのだ。


ちゃんと食べているか。仕事は忙しくないか。体は大丈夫か。そして、いつ帰ってくるのか。


若い頃は、少しうるさいと思ったこともあった。


けれど、五十歳になった今は、その言葉がありがたかった。


母にとって、浩二はいつまでも子どもなのだろう。


そんなある日の夜、仕事を終えて帰宅した浩二のスマートフォンが鳴った。


画面には「母さん」と表示されていた。


「もしもし」


「浩二か。今、大丈夫か」


「うん、大丈夫だよ。どうした?」


「いや、どうもしとらん。元気にしとるかな思うて」


いつもの電話だった。


「元気だよ。母さんは?」


「元気よ。今日はな、畑の方へ行ってきたんよ」


「そうか。まだ畑に出てるんだね。あんまり無理しないでよ」


「大丈夫よ。ちょっとだけじゃけえ」


春江の声は、以前より少し小さくなったように聞こえた。


話し方も、どこかゆっくりしている。


「今日は何をしとったん?」


「今日は……何をしとったかな」


春江は少し考えた。


「まあ、家のことをぼちぼちよ」


「そうか」


「浩二は、ちゃんと食べとるん?」


「食べてるよ。今日は家で食べた」


「そう。野菜も食べんといけんよ」


「分かってるよ」


春江は、いつものように笑った。


けれど、そのあと、少し長い間があった。


以前なら、その間に畑の話や近所の人の話が続いていた。誰それが野菜を持ってきてくれたとか、近所の人がまた何か失敗したとか、そんな他愛のない話だった。


その日は、なかなか次の言葉が出てこなかった。


「母さん、疲れとるんじゃない?」


「そんなことないよ」


「声がちょっと元気ないように聞こえるけど」


「そうかな。年を取ったけえかもしれんな」


春江は、照れ隠しのように笑った。


「まあ、無理せんようにしとるよ」


「そうだね。何かあったら、すぐ電話してよ」


「分かった、分かった。あんたも心配ばっかりせんでええよ」


また、少し間が空いた。


「今度、いつ帰ってくるん?」


いつもの問いかけだった。


「そうだな。仕事の予定を見て……」


そこまで言って、浩二は口をつぐんだ。


また同じ答えをしようとしていた。


仕事の予定を見て。都合がついたら。落ち着いたら。


そう言い続けて、どれだけの時間が過ぎただろう。


「母さん」


「ん?」


「今度、帰るよ。ちゃんと日にちを決めて帰るから」


「そうか。無理せんでええんよ」


「うん。でも、帰るから」


「待っとるけえな」


その声は、いつもの母の声だった。


電話を切ったあと、浩二はしばらくスマートフォンを手にしたまま座っていた。


母の声が耳に残っていた。


少し小さくなった声。

言葉を探すような間。

以前よりゆっくりになった話し方。


電話だけで、母の暮らしのすべてが分かるわけではない。


それでも、確かに何かが変わっている。


母も年を取ったのだ。


当たり前のことなのに、浩二はそのことを、どこか遠い話のように考えていた。


若い頃、東京へ出てきたとき、母はまだ元気だった。


駅まで迎えに来てくれた。家に帰れば食事を用意してくれた。帰る日には、何度も「忘れ物はないか」と聞いた。


自分が帰ることを、いつも喜んでくれた。


その母が、今も岡山で暮らしている。


電話をすれば、いつものように「元気よ」と答えてくれる。


けれど、その「元気よ」の中にも、少しずつ年齢が重なっていることに、浩二は気づき始めていた。


「今度こそ帰ろう」


浩二はカレンダーを開いた。


仕事の予定を確認し、家族にも声をかけた。


来月の連休に、岡山へ帰ることにした。


今度は、予定が空いたら帰るのではない。


帰る日を先に決めようと思った。


母に会って、ゆっくり話をしよう。


畑のことも聞こう。昔の話も聞こう。


何か特別なことをする必要はない。


ただ、母のそばに座って、一緒にご飯を食べればいい。


電話をすれば、いつもの声が聞こえる。


けれど、電話では伝わらないこともある。


浩二は、帰る日をカレンダーに書き込んだ。


東京の夜は、いつもと変わらず明るかった。


その明かりの向こうに、岡山の家がある。


そして、帰りを待っている母がいる。


今度こそ、帰ろう。


浩二は、そう心に決めた。

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