東京へ
高校三年の春。
浩二の成績は、中の下あたりだった。
中学の頃は、もう少し勉強ができた。けれど、高校に入ってからは、何を目指すでもなく、授業を聞いているだけの日が増えていた。
大学へ行くことも、就職することも、どこか他人事だった。
そんな浩二に、兄の健一が声をかけた。
「お前、大学はどうするんじゃ」
「別に。よう分からん」
健一は地元の大学に通っていた。自分自身、明確な目標があって進学したわけではない。だからこそ、浩二の気持ちも分かるところがあった。
「目標がないからって、何もせんのはもったいないで。まだ時間はあるんじゃけえ、勉強してみたらええ」
健一は、少し考えてから続けた。
「東京の大学も考えてみい。岡山におったら、就職先も限られる。東京に出たら、仕事の幅も広がるんじゃ。お前、岡山には残るなよ」
兄の言葉は、浩二の胸に残った。
健一は地元に進学した。けれど、自分にはもっと広い世界があるかもしれない。そう思わせてくれた。
それから、浩二は少しずつ勉強を始めた。
春の三者面談で、春江は担任から思いがけない話を聞いた。
「浩二くんは、大学進学を迷っているようです。本人は、今の成績では難しいかもしれないと言っていました」
帰宅した春江は、浩二に向かって言った。
「大学へ行きなさい」
思っていたよりも、強い口調だった。
「でも、うちにはそんな金……」
「お金のことは心配せんでええ。お父さんが残してくれたものがあるんじゃから」
浩二は、その言葉を素直には信じられなかった。
父が亡くなってから、母がどれだけ働いてきたか知っている。家計に余裕があるようには見えなかった。
それでも、春江は引かなかった。
「勉強して、行けるところを目指しなさい」
母の言葉に、浩二はうなずいた。
塾へ通う余裕はなかった。
学校のない日は、朝五時に起きて机に向かった。夜十時まで勉強する日もあった。分からない問題に何度もつまずき、参考書をめくり直した。
夜、春江が部屋に入ってくることがあった。
手には、小さなおにぎりが二つ。
具はない。塩だけだった。
「食べんさい。腹が減ったら、頭も働かんじゃろ」
浩二は受け取った。
ひと口かじると、塩が強かった。しょっぱいな、と思った。
けれど、何も言わずに食べた。
母は、いつも忙しかった。田んぼや畑の仕事を終え、家のことを済ませてから、こうして自分の勉強を気にかけてくれる。
そのことが、少しずつ分かってきた。
模試の成績は、ゆっくりと上がっていった。
東京の国立大学も、手が届くかもしれない。そう思えるところまで来た。
けれど、結果は不合格だった。
合格したのは、東京の私立大学だった。
合格通知を手にしたとき、浩二は嬉しかった。
それでも、学費のことが頭から離れなかった。
入学金に、授業料。東京で暮らすための費用もいる。自分が進学すれば、母にどれだけ負担がかかるのか。考えるほど、合格を喜ぶ気持ちにブレーキがかかった。
夕食のあと、浩二は春江に言った。
「私立じゃし、やっぱり無理かもしれん」
春江は、すぐには答えなかった。
食器を片づけながら、少し考えていた。
「国立に落ちたんは、残念じゃったな」
「うん」
「でも、せっかく受かったんじゃろ」
浩二はうつむいた。
「学費が……」
「そりゃあ、安いもんじゃない。東京で暮らすんじゃから、いろいろ要るじゃろう」
春江は、台所の手を止めた。
「わしも、何でもできるわけじゃない。でも、お前が大学へ行きたいんなら、できることはする」
浩二は、母の顔を見た。
春江は、少しだけ笑った。
「ご縁があったんじゃろ。せっかく受かったんじゃけえ、行きなさい」
その言葉は、単なる励ましではなかった。
ここまで勉強してきたこと。合格を手にしたこと。そして、これから先に広がるかもしれない道。
春江は、それらを無駄にしたくなかったのだ。
浩二は、もう一度合格通知を見た。
母に負担をかけることは、やはり心苦しかった。それでも、母が自分の進学を望んでいることは分かった。
「……うん。行くわ」
春江は、何も言わずにうなずいた。
浩二は、奨学金を借り、アルバイトもするつもりだった。少しでも自分で稼いで、母の負担を減らしたかった。
社会人になったら、必ず恩を返そう。
そう思った。
東京へ出る日が近づいた。
荷物をまとめていると、祖母のイネがぽつりと言った。
「家を捨てるんか」
浩二は、すぐには返事ができなかった。
イネは、いつも通りの顔をしていた。けれど、その声には寂しさが滲んでいた。
健一は地元の大学へ進み、家から通っていた。和也もまだ家にいる。浩二だけが、遠くへ出ていく。
イネにとっては、孫が一人、家からいなくなることだった。
「捨てるんじゃねえよ。大学へ行くだけじゃ」
浩二はそう答えた。
イネは、それ以上何も言わなかった。
しばらくして、荷物をまとめる浩二のそばへ来た。
「向こうで、ちゃんと食べるんで」
「うん」
「風邪ひかんようにな」
浩二は、またうなずいた。
イネは、何か言いたそうにしていたが、結局、何も言わずに部屋を出ていった。
その背中が、いつもより小さく見えた。
東京へ向かう朝。
玄関先で、春江は浩二の荷物を確認した。
「忘れ物はないか」
「大丈夫じゃ」
「着いたら電話しんさいよ」
「分かった」
イネは、少し離れたところに立っていた。
浩二が挨拶をすると、イネは短く「気をつけて行きんさい」と言った。
それだけだった。
浩二が家を出ていくと、イネはしばらく玄関に立っていた。
家の中に戻っても、いつものように浩二の声が聞こえてくる気がした。
数日後、近所のふみが顔を出した。
「浩二くん、東京の大学に行ったんじゃなあ」
「そうなんよ。東京の大学に受かったんじゃ。よう頑張ったわ」
イネは、少し得意そうに話した。
「東京じゃったら、いろんなことができるじゃろうなあ」
「そうじゃろ。うちの自慢の孫じゃけえ」
そう言って、イネは笑った。
浩二の前では、あんなに寂しそうにしていたのに。
近所の人に話すときは、まるで自分のことのように嬉しそうだった。
浩二は、そのことを知らなかった。
東京へ行くことを楽しみにしていた。知らない街で暮らすこと、これまでとは違う世界に触れること。
その一方で、家を離れる寂しさもあった。
母が握ってくれた、塩だけのおにぎり。
しょっぱかった味を、浩二は忘れなかった。
いつか、社会人になったら。
母に、恩を返そう。
そう心に決めた。




