見てほしかった試合
浩二も剣道を習っていた。
兄の健一は、剣道の資質に恵まれていた。背が高く、運動神経もよかった。試合に出ればいつも上位に入り、優勝することも珍しくなかった。弟の和也も、兄ほどではないにしても、それなりの成績を残していた。二人とも体を動かすことが得意だった。
家の床の間には、健一が大会で獲得したメダルや盾を並べる棚があった。
母ちゃんは、健一のために無理をして剣道の道具を買いそろえた。家計に余裕があるわけではなかった。それでも、兄が頑張っている姿を見ると、できるだけのことをしてやりたかったのだろう。
大会で優勝すると、母ちゃんは嬉しそうだった。新しい盾が増えると、棚の空いたところを探して並べていた。ときには、少し離れて眺めていることもあった。
浩二も、その棚を見ていた。
兄ちゃんはすごい。自分にはなかなかできないことだと思う。
でも、自分だって剣道を頑張っている。いつか自分の賞状やメダルも、あの棚に並べてもらいたいと思っていた。
大会の日は、兄弟の試合が重なることがあった。
そんなとき、母ちゃんはいつも健一の応援に行った。浩二は高松小学校まで母ちゃんに送ってもらい、そこから同じ道場の友達のお父さんが運転する車に乗せてもらって会場へ向かった。
ただ、健一の試合と重ならない日も、母ちゃんが応援に来ることはなかった。仕事や畑のことがあった。家のこともある。毎日の暮らしを回すだけで精いっぱいだったのだと思う。
源蔵とイネも、一度も浩二の試合を見に来たことはなかった。
誰かが浩二のために、試合会場まで足を運んでくれることはなかった。
道場には、兄弟で剣道をしている友達がいた。そういう家では、父親と母親がそれぞれの試合会場に応援に来ていた。父親が兄の試合を見て、母親が弟の試合を見る。試合が終わると、親が子どものところへ行き、竹刀を持つ手を見たり、試合の話を聞いたりしていた。
「惜しかったな。あと少しだったのに」
「次は勝てるよ」
そんな声が聞こえてくる。
友達は、親のところへ駆け寄っていく。勝ったことを嬉しそうに話す子もいれば、負けて悔しそうにしている子もいた。親はそれぞれの子どもに声をかけていた。
浩二は、そんな様子を何となく眺めていた。
自分も、あんなふうに試合の話をしてみたかった。
友達のお父さんが運転する車に乗せてもらうとき、申し訳ないと思うこともあった。お礼を言って車に乗り込む。会場に着けば、友達は父親に何か話しかけている。浩二は自分の防具を抱え、少し離れて歩いた。
父ちゃんが生きていたら、どうだっただろう。
母ちゃんが仕事で来られない日でも、父ちゃんなら来てくれたかもしれない。友達のお父さんのように、試合会場まで連れて行ってくれたかもしれない。
試合が終われば、「どうだった?」と聞いてくれたかもしれない。勝ったら一緒に喜んで、負けたら悔しがってくれたかもしれない。
父ちゃんがいないことは、家に帰ったときだけ寂しいわけではなかった。
友達の家族を見たときにも、こうして自分だけ誰も応援に来ていないときにも、ふと思い出す。
ある日、健一は県大会、浩二は市の大会に出場した。
健一は個人戦で優勝した。
浩二も頑張った。試合を勝ち上がり、個人戦で三位に入った。
表彰のとき、自分の名前が呼ばれた。賞状を受け取ると、やっぱり嬉しかった。三位という結果は、浩二にとって誇らしいものだった。
母ちゃんに見せたい。
帰ったら喜んでくれるだろうか。
「よく頑張ったね」と言ってくれるだろうか。
そんなことを考えながら、友達のお父さんの車で家に帰った。
家に着くと、母ちゃんと健一、源蔵、イネが、兄の優勝の話をしていた。
「県大会で優勝したんか。そりゃあ、すごいなあ」
源蔵が嬉しそうに言った。
「よう頑張ったねえ。たいしたもんじゃ」
イネも健一の顔を見ながら、何度も褒めていた。
母ちゃんも、健一の試合の様子を聞いている。
「決勝はどうじゃったん?」
「相手は強かったんか?」
健一は少し照れくさそうにしながら、試合のことを話していた。母ちゃんも、源蔵も、イネも、話に加わっている。
「やっぱり健一は強いなあ」
誰かがそう言うと、みんなが笑った。
母ちゃんは、健一の顔を見て嬉しそうにしていた。普段は忙しくて、ゆっくり話す時間もなかったのかもしれない。こういうときくらい、母ちゃんも兄の話を聞いていたかったのだろう。
浩二は、玄関から入ってきた。
「ただいま」
声をかけたが、みんなの話が続いていて、すぐには気づいてもらえなかった。
しばらくして、母ちゃんが振り返った。
「おかえり」
浩二は、手に持っていた賞状を見た。
今日、市の大会で三位になった。
本当は、すぐにでも話したかった。
「ぼくも三位だったよ」
そう言えばいいだけだった。
でも、みんなが健一の優勝を喜んでいるところに、自分の話を持ち出すのは何だか嫌だった。褒めてもらいたくて言うようで、恥ずかしい気もした。
少し待っていれば、誰かが聞いてくれるかもしれない。
「浩二はどうだった?」
母ちゃんがそう聞いてくれるのを待っていた。
源蔵かイネが、浩二の顔を見てくれるのを待っていた。
けれど、話題はまた健一に戻っていった。
浩二は、賞状を持ったまま立っていた。
兄ちゃんばっかり。
そんな気持ちが浮かんだ。
健一が悪いわけではない。兄は本当に強いし、県大会で優勝したのだから、みんなが喜ぶのも当然だ。浩二だって、兄が勝ったことはすごいと思っている。
それでも、面白くなかった。
自分だって頑張った。
市の大会で三位になった。
今日くらい、自分の話も聞いてほしかった。
「ぼくも三位だったよ」
もう一度、心の中で言ってみた。
でも、口には出せなかった。
母ちゃんは、仕事も畑も家のことも、一人で抱えている。浩二もそれを知っていた。母ちゃんが自分の試合に来られないのは、仕方がないことなのだと思っていた。
けれど、本当は来てほしかった。
試合が重ならない日でも、仕事を優先する母ちゃんを責めたいわけではない。源蔵やイネにだって、それぞれの暮らしがある。誰も悪いことをしているわけではない。
それでも、どうして自分の試合には誰も来てくれないのだろう。
父ちゃんがいたら、違ったのかもしれない。
母ちゃんが仕事に出ている日でも、父ちゃんなら試合を見に来てくれたかもしれない。友達のお父さんのように、試合が終わるまでそばにいてくれたかもしれない。
帰りの車の中で、今日の試合の話を聞いてくれたかもしれない。
「三位か。よくやったな」
そう言ってくれたかもしれない。
そんなことを考えると、父ちゃんがいないことが、いつもより寂しくなった。
浩二は、賞状を見せるのをやめた。
その日の夜、床の間には健一のメダルや盾が並んでいた。
浩二の賞状は、どこかにしまわれた。
母ちゃんは、明日も仕事に出る。朝になれば、また畑のことや家のことに追われる。今日、健一の優勝を喜んでいたことも、浩二の三位に気づかなかったことも、母ちゃんにとっては特別なことではなかったのだろう。
浩二も、母ちゃんが頑張っていることは分かっていた。
だから、何も言わなかった。
ただ、あの日のことは覚えている。
自分も頑張ったこと。
三位になって嬉しかったこと。
母ちゃんに見てほしかったこと。
そして、父ちゃんがいたら、自分の試合にも来てくれたかもしれないと思ったこと。
剣道を続けていたのは、強くなりたかったからだけではなかった。
いつか、母ちゃんに自分の試合を見てほしかった。
父ちゃんにも、見てほしかった。




