分かるのは、君だけだ
婚約が解かれたのは、宴の翌日の昼だった。
侯爵閣下が自ら屋敷へいらして、父の書斎で、父と並んで署名をした。違約の金は、契約のとおり侯爵家が持つ。ペンを置いた後、閣下は書斎を出て、廊下で待っていた私の前に立った。
「ノーラ嬢。一年、息子が無礼をした」
「いいえ」
「あれは、次の花嫁の方に着けていただく」
閣下は、上着の胸に手を当てた。昨夜しまったブローチが、まだそこにあるのだろう。
「はい。それがよいと思います」
閣下は少しだけ眉を上げ、それから宴の夜より柔らかい顔になって、父に一礼して帰っていった。私が欲しいと言うと、思っていたのかもしれない。
宴が済んだら二人で一杯やろう、という手紙の約束は、こうして流れた。父は玄関で閣下の馬車を見送り、その晩、書斎の酒棚の扉を一度も開けなかった。花嫁の品は、花嫁のものだ。茶会で、マーヤ様もそう言っていた。
* * *
その翌日、ソフィ様から手紙が届いた。
ソフィ様の手紙は、噂の出どころまで書いてあるのが常で、今日のも何枚にもわたっていた。エリアス様が秋から公使館の書記になること。跡継ぎであることは変わらないこと。社交界ではもう「妹が先の侯爵令息」と呼ばれていて、言い出したのは、宴にいた老伯爵の奥方らしいこと。ミルテ様が今朝、ヘドヴィグ夫人の馬車で領地へ発ったこと。
最後の一枚の終わりに、別の字で一行、書き足してあった。大きくて、右へ傾いた字だった。
お兄様が、毎日うろうろしています。
招待状の追伸と、同じ字だった。
* * *
宴から数日たった朝、母が私の部屋の扉を叩いた。
「ノーラ。お父様の書斎に、お客様よ」
母の声が、少しだけ弾んでいた。
階段の上の窓から、門の外が見えた。門の脇の木に、黒い大きな馬がつないである。鞍には、リンドホルム公爵家の紋があった。
書斎の扉は閉まっていた。しばらくして扉が開き、閣下が先に出てきて、階段の上の私に一礼すると、そのまま玄関から外へ出ていった。続いて父が出てきた。父は私の顔を見て何か言いかけ、やめた。何を話したのかは、父の顔を見れば分かった。
「玄関へ、行ってきなさい」
父はそれだけ言った。
玄関の石段の下に、リンドホルム公爵閣下が立っていた。
そして門の前には、さっき窓から見たときにはなかった馬車が一台、停まっていた。見覚えのない紋の馬車だ。その窓から、頭が五つ、重なり合うように身を乗り出していた。
「お兄様、早く!」
ヨンナ様の声だった。
前にも、同じ石段の上で、同じように馬車の窓から身を乗り出す顔を見た。あの朝は、帽子のリボンを結び終えたところだった。あれから、まだひと月もたっていない。
「すまない」
閣下は、門のほうを振り返りもせずに言った。
「五人とも、置いてきた。来るなと言って、来ないと約束させた。……エッバの家の馬車で来ないとは、約束していなかったらしい。着いてしまったものは仕方がないので、今、馬車から出るなとだけ言ってきた」
見覚えのない紋は、ダールベリ伯爵家のものだった。馬車の奥で、エッバ様が申し訳なさそうに会釈をした。
私の後ろで、父が帽子掛けの帽子を意味もなく掛け直してから、奥へ引っ込んでいった。母は引っ込まずに、柱の陰に残った。
「婚約を解いたばかりなのは分かっている。人に知らせるのは、秋になってからでいい」
「……まだ、何も伺っていませんけれど」
「これから聞く」
閣下は大真面目にそう言ってから、言いにくそうに、もう一言足した。
「その前に、一つ。来年の温室の公開日は、空いているか」
「来年のことは、まだ分かりません」
「では、空けておいてほしい。妹たちは置いていく」
「いいえ」
私は首を横に振った。月光蘭の前で、両側から首を伸ばしていた五つの顔が浮かんでいた。
「皆様もご一緒に。一人で見るより、ずっと楽しかったので」
閣下が門の馬車へ目をやると、窓の五つの頭が一度に引っ込んだ。
「君は、分からないことは、分かる人に聞くのだったな」
「はい」
「私にも、分からないことがある。妹が五人いる男のところへ、来てくれる人がいるのかどうか」
閣下が石段を一段上がった。それだけで、閣下の目と私の目が、同じ高さに並んだ。
「妹たちにも分からない。叔母にも、陛下にも分からない。分かるのは、君だけだ。……だから、君に聞く」
琥珀色の目が、逸らされずにそこにあった。
「ノーラ。私の妻になってくれないか」
返事は、すぐには出てこなかった。
これまで、分からないことがあれば、いつも誰かに聞いてきた。薔薇は庭師に、馬は厩番に、兄というものは、妹が五人いる方に。けれど、この問いの答えを知っているのは、王都のどこを探しても、私しかいなかった。
(聞く相手が、いないわ)
だから、自分で答えた。
「はい」
閣下が、ゆっくりと息を吐いた。それから私の手を取って、手袋の上から、指先に短く唇を当てた。
門のほうで、悲鳴なのか歓声なのか分からない声がはじけた。
馬車の扉が勢いよく開いて、妹様たちが次から次へと飛び出してきた。最後のエッバ様だけは、地面に降りてから裾をきちんと直し、困ったように微笑んだ。
「……馬車から出るなと言ったはずだ」
「出ないでいられるわけないでしょう!」
一番に石段を駆け上がってきたのはヨンナ様で、私の腕にしがみつくと、兄君のほうへ顔を向けて胸を張った。
「お兄様。今日からは、お義姉様が先よ!」
カーリン様とソフィ様が、石段の下でうんうんと頷いている。
閣下の顔には、困った色は少しもなかった。
「言われなくても、そうする」
一人っ子の私に、妹が五人できることになった。
柱の陰で、母が目元を押さえていた。
妹様たちが口々にお祝いを言うあいだ、マーヤ様だけが少し遅れて石段を上がってきた。私の隣に立ち、ほかの誰にも聞こえない声で言った。
「お義姉様。……一人っ子のことで、いつか一つ、聞いてもいい?」




