僕の妹が、行ってしまう(エリアス視点)
ミルテが泣き止んだのは、明け方だった。
僕はミルテの部屋の扉の外に椅子を運んで、そこで夜を明かした。母上が亡くなった晩も、そうした。あの晩、ミルテはまだ小さくて、泣きながら僕の袖を離さなかった。僕は、これからは全部僕が先にしてやる、と言った。それから三年、僕はその約束を守ってきた。
昨夜のことは、悪い夢のようだった。
父上も叔母上も、ずっと王都にいなかったのだ。ミルテがどんなに寂しかったか、知らない。リンドホルム公爵のところは、妹が五人もいるのだから、一人一人に構っていられないだけだ。
ノーラは、少し驚いただけだろう。一人っ子だから兄と妹のことが分からなくて、人に聞いて回ったのだ。落ち着いて話せば、分かってくれる。ノーラは、いつも分かってくれた。
* * *
朝食の後、父上の書斎に呼ばれた。
父上は机の向こうに座り、叔母上は窓辺に立っていた。二人とも、昨夜と同じ顔をしていた。
「父上。昨夜は、僕の言い方が悪かったと思います。ノーラには、僕から話します。あの子は一人っ子だから、少し驚いただけで――」
父上は答えずに、机の上に手を出した。掌を上にして。
「宝石箱の鍵を」
何を言われたのか、僕にはすぐに飲み込めなかった。
「お前に預けた王都の屋敷の差配を、今日で解く。鍵を出しなさい」
鍵は、いつも上着の内側に入れている。父上が赴任するときに、僕に渡したものだ。出すと、父上はそれを引き出しにしまって、鍵をかけた。
「秋に私が赴任先へ戻るとき、お前を連れて行く。公使館の書記としてだ。私の目の届くところで働け」
「書記、ですか。僕は嫡男で――」
「嫡男の座はそのままだ。家を継ぐ者が、家の品を勝手に人に渡し、婚約者の務めを一年怠った。家を潰すほどの罪ではない。だから、継ぐ前に働くことを覚えろと言っている」
父上は、机の上の紙を一枚、僕のほうへ向けた。婚約の契約書の写しだった。
「婚約は、今日の昼、私がヴェスティン家へ行って、伯爵と並んで署名して解く。違約の金は、契約のとおり当家が払う」
「待ってください。ノーラと話をさせてください。ノーラなら――」
「ヴェスティン家の門をくぐることは、許さない」
父上の声は、昨夜の広間と同じ高さだった。
「ミルテは、どうなるんです」
僕は叔母上を見た。叔母上は窓から振り返った。
「わたくしの屋敷へ連れて行きます。明日の朝、発ちます。社交界に出る前の一年、わたくしのところで暮らしてもらいます」
「一年も。あの子は、僕がいなかったら」
「兄に頼らずに、自分の髪を自分で結うところから、始めてもらいます」
「ミルテは、自分で髪を結ったことなんて、一度もないんです」
言ってから叔母上の顔を見て、僕は口を閉じた。叔母上は何も言わなかった。言わずに、ただ僕を見ていた。その顔の意味は、僕には分からなかった。
父上が、低い声で言った。
「エリアス。お前の言う『兄とはそういうもの』を、私は知らない。私の父も、私も、そういう兄ではなかった」
父上は、少しだけ間を置いた。
「お前は、誰からそれを教わった」
僕は、答えられなかった。
思い出したのは、母上が亡くなった晩の、ミルテの部屋の扉だった。全部僕が先にしてやる、と言ったのは、僕だった。誰にも教わっていない。
* * *
昼前、父上はヴェスティン家へ出かけていった。
門まで見送ろうとすると、家令が僕の前に立った。
「若様。旦那様のお言いつけで、今日はお屋敷の中にいていただくようにと」
昨日まで、この男は僕の言いつけで動いていた。今日は父上の言いつけで、僕の前に立っている。
部屋に戻って、ノーラに手紙を書いた。昨夜は驚かせてすまなかった、ミルテのことは君にも分かってほしい、落ち着いたら会って話そう。封をして呼び鈴を鳴らすと、来た侍従は手紙を受け取ったまま、困った顔で言った。ヴェスティン家宛ての手紙は、旦那様がお目通しになってからお出しするように、と。
手紙は、侍従と一緒に父上の書斎のほうへ行ったきり、戻ってこなかった。
午後、家令が手紙の束を持ってきた。今月の夜会と晩餐の招待のうち、三通が「都合により」取り消されていた。差出人は、昨夜の広間にいた家ばかりだった。
家令は手紙を置いた後も、少しのあいだ部屋を出ていかなかった。
「何だ」
「……街で、若様のことを、妙な呼び方をする者がおります」
「何と」
家令は目を伏せた。
「妹が先の侯爵令息、と」
* * *
翌朝、叔母上の馬車が玄関に着いた。
ミルテは、侍女に手を引かれて石段を下りてきた。髪は、侍女が結ったのだろう。いつもと同じ形をしていた。
「お兄様」
ミルテは、馬車に乗る前に僕を振り返った。目が腫れていた。
「お兄様、一緒に来て」
僕は、石段を一段下りた。
肩に、父上の手が置かれた。重くはなかった。けれど、それ以上は下りられなかった。
叔母上が先に乗り込み、ミルテが続いた。扉が閉まる前に、ミルテが窓から手を伸ばした。僕は、その手を取りに行けなかった。
馬車が、門を出ていった。
妹が先だ。僕はずっと、そう言ってきた。その妹が今、僕に何一つ先にしてもらえないところへ行く。
それでも、ノーラなら分かってくれるはずだと、僕はまだ思っていた。




