婚約披露の控えの間
ストランド侯爵閣下が隣国から戻られたのは、茶会からしばらくしてのことだった。
久しぶりの王都だという。宴のために陛下からお許しをいただいた帰国で、秋にはまた赴任先へ戻られる。戻られたその日のうちに、父のところへ短い手紙が届いた。宴が済んだら、二人で一杯やろう。若い頃のように、と。
父は手紙を読んで、口の端だけで少し笑った。父がそういう顔をするのを、私は久しぶりに見た。
父は、あのブローチが今ミルテ様の胸にあることを知らない。私が話していないからだ。聞くべき方には、温室と茶会で聞いた。父には話さないまま、宴の日になった。
* * *
宴の日の夕方、母が私の髪を結った。
侍女に任せればいいのに、と言ったら、母は「こういう日は自分でやりたいの」と言って、櫛を離さなかった。黒い髪をうなじの上でまとめて、真珠のピンを挿す。鏡の中で、母の手が私の胸元で止まった。
「ブローチは、宴の前にいただくものだったわね」
「はい」
私は、それだけ答えた。母はしばらく鏡の中の私を見ていたが、ほかには何も聞かなかった。
宴の場所は、侯爵家の王都の屋敷の大広間だった。招かれた客は王都の古い家ばかりで、大勢だった。婚約した二人は主役なので、客が全員入ったあとに、最後に並んで入る。花嫁の父は、その前に控えの間で、娘を花婿の手に渡してから広間へ入る。花婿の家の娘は、当主の横で客を迎える側に立つ。まだ社交界に出ていないミルテ様も、自分の家で開く兄の婚約の宴なので、そこにだけは立てることになっていた。母は客として、先に広間へ入った。
侯爵家の玄関で私と父を迎えたのは、家令だった。若様は控えの間にいらっしゃいます、と家令は言い、私たちを奥の廊下へ案内した。
長い廊下を歩きながら、私は侯爵閣下のお手紙の一行を思い出していた。宴の前に、エリアスから手渡させる。
宴の前、というのは、もう、この廊下を歩いている今しか残っていなかった。
控えの間に入ると、エリアス様がミルテ様の手を握っていた。
ミルテ様の胸元には、あの青い石のブローチがあった。
「ノーラ、すまない」
エリアス様は、温室の朝と同じ困り顔で笑った。
「ミルテが、一人で入るのは寂しいと言うんだ。妹が先だ。君は伯爵と入ってくれ」
「今夜の主役は、婚約した二人だと伺っています」
「一人っ子の君には、分からないよ」
ミルテ様は兄君の腕に頬を寄せたまま、私のほうを見た。
「ノーラ様は一人っ子だから、一人には慣れていらっしゃるでしょう?」
(慣れてはいるわ)
一人で食べる誕生日のデザートにも、一人で座る音楽会の席にも、一人で入る温室にも。温室は、途中から一人ではなくなったけれど。
慣れていることと、好きなことは違う。それくらいは、一人っ子にも分かる。
本当なら私をエリアス様に渡すはずだった父が、すぐ後ろで、喉の奥で咳払いをした。私は、父の腕に手を添えた。父の腕は、思っていたより固く張っていた。
広間へ続く扉が開いて、家令の声が響いた。
「ストランド侯爵家、エリアス様。ミルテ様」
二人が扉の向こうへ入ると、広間の手前から奥へ、ざわめきが順に移っていくのが、控えの間まで聞こえてきた。
「ミルテ嬢?」
「婚約披露で、妹御の手を……」
「あのブローチ、ストランド家の花嫁の……」
父の腕が、もう一段固くなった。父は広間の扉を見たまま、声を落とした。
「ノーラ。あれは、いつからだ」
「ブローチを見たのは、このあいだの訪問の日です。妹が先、は、一年前からです」
父は何か言いかけて、家令の声に遮られた。
「ヴェスティン伯爵。ノーラ様」
私は父の腕に手を預けて、広間へ入った。広間じゅうの目が、先を行く兄妹と、父と並んで歩く私とのあいだを、何度も往復した。
広間の一番奥に、侯爵閣下が立っていた。髪に白いものが混じった、背の高い方だった。その隣に、閣下とよく似た目元の夫人がいる。閣下の妹君の、ヘドヴィグ夫人だろう。
客の中に、葡萄酒色の上着が見えた。その周りに五人の妹様たちと、温室で見た大柄な旦那様と、眼鏡の先生。マーヤ様の隣には、紺の上着の、髪をきちんと撫でつけた青年が立っていた。ヨンナ様が、エッバ様の陰から小さく手を振りかけて、エッバ様に手首を押さえられた。
侯爵閣下は、入ってきた息子と娘を見ていた。それから、娘の胸元を見た。遠くからでも、目が一度だけ細くなったのが分かった。
閣下が、手にしていた杯を給仕の盆に置いた。
楽師の弓が、一つ、また一つと止まった。客が左右に分かれて、広間の奥から入口まで、まっすぐな通り道ができた。閣下は客を迎える場所を離れ、その道を、ためらわずに歩いてきた。ヘドヴィグ夫人が、一歩遅れてついてくる。閣下の足は、ミルテ様の前で止まった。
「エリアス。なぜ、ノーラ嬢ではなくミルテの手を取って入った。それに、ミルテの胸にあるものは何だ」
「父上」
エリアス様の声には、悪びれたところが少しもなかった。
「母上が亡くなってから、ミルテには僕しかいないんです。兄とはそういうものでしょう。ノーラは一人っ子だから、分からないだけで」
侯爵閣下は息子の顔を長いあいだ見つめ、それから私に向き直った。
「ノーラ嬢。……あなたは、このことを知っていたのか」
「はい」
私は、膝を折って礼をした。
それから、一つだけ、尋ねることにした。




