弟子にするのは、この子です
王立図書館の閲覧室は、冬になっても、夏と同じ匂いがした。
古い紙と、革の表紙と、窓辺の暖炉の薪の匂いだ。冬のある午後、閲覧室の一番奥の大きな机に、南の国の蘭の図譜が開いて置かれていた。その横に、まだ綴じられていない新しい絵が、何枚も並んでいる。
机の向こうに、一人の女の方が立っていた。
白い髪を、耳の下で短く切っていた。日に焼けた手で、絵の端を一枚ずつ揃えている。指先に、緑と茶の絵の具の染みが残っていた。
「ローヴ先生。お連れしました」
サンデル先生が、閲覧室の入口で礼をした。
イングリッド・ローヴという方は、顔を上げて、こちらを見た。サンデル先生、閣下、ヨンナ様、私、マリット。一人ずつ見て、ヨンナ様のところで目が止まった。
閣下が、一歩前へ出た。
「リンドホルムです。妹が、お世話になるかもしれないと聞きました。春から一年、妹を預けることについて、いくつか伺いたい――」
「弟子にするのは、この子です」
ローヴ先生は、閣下の言葉の途中で言った。
「兄上ではありません。話は、この子とします」
閲覧室が、しんとした。
閣下が、口を閉じた。
私は、閣下の横顔を見ていた。王の従兄で、温室で私の質問に一瞬で答えた方が、言葉の途中で止められて、黙っていた。怒った顔ではなかった。何かを確かめているような顔だった。
(妹のことは、妹に聞け)
夏に、閣下がオスカル様におっしゃったらしい言葉だった。今日は、閣下が、それを言われる側に立っていた。
ローヴ先生は、ヨンナ様に手招きをした。
「絵を、持ってきましたか」
「は、はい」
ヨンナ様は、胸に抱えていた紙挟みを机の上に置いた。勉強部屋の壁から、自分で選んで外してきた根の絵だった。
ローヴ先生は、紙挟みを開いて、一枚ずつ机に並べていった。
「王都の娘さんの絵は、たいてい花しか描きません」
先生は、並べながら言った。
「花びらの数と、色と、形。根は、土の中にあるので、描かなくていいと思っている。絵の先生も、たいていそう教えます」
一枚目は、月光蘭の根だった。二枚目は、庭の薔薇。三枚目は、厨房の裏の香草。
その先も、根だった。最後の一枚を並べ終えても、花の絵は一枚もなかった。
先生は、何も言わずに並んだ絵を見下ろしていた。
サンデル先生が、私の隣で、そっと息を吐いた。三か月、話しかけてもらえなかった方の顔だった。
ローヴ先生の指が、一枚の絵の上で止まった。
窓の横に、一番大きく貼ってあった絵だ。公爵家の庭の、小さな温室の花の根。
先生は、その一枚を手に取って、窓の光にかざした。暖炉の薪が二度はぜるあいだ、先生は動かなかった。
「これは、誰の花ですか」
ヨンナ様は、少しだけ迷ってから答えた。
「お母様の。……お母様が好きだった花です。お母様は、九年前に亡くなりました。それから、庭師がずっと育ててるの。秋に土を替えたとき、根を描かせてもらったの」
先生は、絵を机に戻した。
「根が、鉢の形に巻いています。何年も、同じ鉢で、植え替えずに育てた根です。ですが、腐った根が一本もない。水も土も、毎年同じように、誰かが気をつけて替えている」
先生は、根の先の細いところを、指で一本たどった。
「この根は、長いあいだ、誰かに大事にされています。……あなたは、それを描きました。花を描いても、それは分かりません」
ヨンナ様の手が、紙挟みの端を握りしめた。
閣下は、閲覧室の窓のほうを見ていた。小さな温室の花を、九年間、庭師に任せて育てさせてきたのは、閣下だった。
それから、ヨンナ様に向き直った。
「春に、来ますか」
「行きます」
ヨンナ様は、すぐに答えた。迷いのない声だった。
それから、ヨンナ様は、少しだけ息を吸って、続けた。
「先生。わたしの部屋は、窓がありますか」
「南に二つ。庭が見えます」
「侍女を、連れていってもいいですか」
「一人なら。家庭教師も、一人なら」
「冬に、雪は降りますか」
「十年に一度」
「手紙は、何日で王都に着きますか」
「四日か、五日」
ヨンナ様が聞いたのは、サンデル家の客間で、閣下がサンデル先生に聞いたことと、ほとんど同じだった。閣下は、黙ってそれを聞いていた。自分が聞こうとしていたことを、妹が、自分の口で、行き先の人に聞いていた。
「では、春に」
それで、話は済んだらしかった。先生は新しい絵を揃え直し始め、サンデル先生が図書館の方を呼びに行った。
帰り支度をする私たちのほうへ、ローヴ先生が、一度だけ顔を上げた。
閣下を見ていた。
「兄上」
「……はい」
「手紙は、この子が書きたいときに書きます。私は、書かせません。止めもしません」
先生は、短く言った。
「兄上が待つのは、ご勝手に」
閣下の返事は、少し遅れた。そして、深く頭を下げた。
「待ちます」
* * *
帰りの馬車で、閣下は窓の外を見たまま、一度も口を開かなかった。
ヨンナ様は、私の隣で、紙挟みを膝に抱えていた。ときどき、紙挟みの端を指で撫でて、それから窓の外を見て、また紙挟みを撫でた。
リンドホルム家の門をくぐる前に、閣下が一言だけ言った。
「今夜、書斎で、数えることがある」




