子が家を出るとき、親はどうするものでしょうか
その日の午後、リンドホルム公爵閣下が、ヴェスティン家の書斎の椅子に座っていた。
父の書斎の、客のための椅子だ。父の若い頃からの友人だったストランド侯爵閣下が、秋に流れた一杯を飲んだ椅子でもある。閣下が座ると、その椅子は少し小さく見えた。
父は、机の向こうにいた。
私は、窓際の椅子に座ることを許された。母は、書斎の扉の外の廊下に椅子を出して、刺繍をしている。扉は、少しだけ開いていた。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
閣下は、父に頭を下げた。
「末の妹のことで、伺いたいことがあります」
父は、黙って頷いた。
閣下は、ヨンナ様のことを話した。王立図書館の図譜の絵を描いた画家。ローセヴィークの分園。春から一年。夏から根の絵を描いていたこと。弟子にすると返事が来たこと。分園には侍女と家庭教師を連れていけて、冬は暖かく、医者もいること。サンデル先生から聞いたことを、閣下は一つずつ、数を添えて話した。
父は、一度も口を挟まなかった。
話し終えて、閣下は膝の上で手を組んだ。
「反対はしません。行かせるつもりです。ですが、何と言って送り出せばいいのかが、分かりません」
閣下は、まっすぐ父を見た。
「両親を亡くしてから、妹たちの兄で、親の代わりでした。けれど、親として子を家から送り出したことは、一度もありません」
それから、閣下は聞いた。
「伯爵。子が家を出るとき、親はどうするものでしょうか」
書斎が、静かになった。
父は、黙っていた。
私は、時計を見なかった。ベルティル様の四半時を知っているので、見たら数えてしまう気がした。
父は、机の上の、何も置いていないところを見ていた。それから窓の外を見て、最後に、窓際の私のほうを一度だけ見た。
長い沈黙だった。
やがて、父は口を開いた。
「……止めない」
それだけ言って、父はまた少し黙った。
「先に、行き先を見に行く」
閣下が、小さく頷いた。
「それから」
父は、ゆっくりと言った。
「部屋は、そのままにしておく。いつ帰ってきてもいいように」
三つだった。
父が一度にこんなに長く話すのを、私は久しぶりに聞いた。
閣下は、父の言葉が一つ終わるたびに、小さく頷いていた。三つ目が終わって、閣下は聞いた。
「行き先を、見に行かれたのですか」
父の眉の端が、わずかに上がった。
しばらく黙ってから、父は言った。
「……門の前までだ」
私は、窓際の椅子で、背筋を伸ばした。
(門の前まで)
父は、机の上で指を組み直した。私のほうは見なかった。
「求婚の後の、夏だ。一度、馬で行った。リンドホルム家の門の前まで」
「中には」
「入らなかった」
父は、短く言った。
「庭のほうから、笑い声が聞こえた。大勢の。……それで、帰った」
扉の外で、母の声がした。
「まあ」
刺繍の針の音が、止まっていた。
父が、扉のほうを見ずに言った。
「……言わなくていい」
「何も言っていませんわ。まあ、と言っただけよ」
母の声は、少し震えていた。笑っているのか泣いているのか、扉越しには聞き分けられなかった。
喉の奥で、言葉が止まっていた。
夏のあいだ、私は毎週、リンドホルム家の夕食に通っていた。その屋敷の門の前まで、父が一人で馬で来て、笑い声を聞いて、中に入らずに帰っていった。私は、そんなことを少しも知らなかった。
庭のほうから笑い声が聞こえた晩なら、いくつも心当たりがあった。ベルティル様の笑い声が天井に跳ね返った晩。オッレが「こわい!」と叫んだ晩。九時の鐘に、ヨンナ様が「まだいる!」と叫んだ晩。夏の食堂の窓は、いつも庭へ開け放してあった。
あの笑い声の中に、私の声もあったのだろうか。父は、それを聞いて帰ったのだろうか。
知らないことは、分かる人に聞けばいい。けれど、知らないことがあると知らなければ、聞くこともできない。
閣下は、父の顔から目を離さなかった。やがて、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
父は、何も言わなかった。
閣下が顔を上げると、父は、もう一つだけ言った。
「泣くのは、後にする」
閣下は、もう一度、頭を下げた。今度は、さっきより長く。
私は、婚約披露の晩の控えの間を思い出していた。私の手を閣下に渡したあと、父は広間へ続く扉の前で、上着の袖で目元を拭った。私には見えないと思ったのだろう。
後にする、というのは、ああいうことだったのだ。
* * *
閣下が帰った後、廊下で母に会った。
母は、刺繍の枠を胸に抱えたまま、まだ少し目元を赤くしていた。
「お母様。一つ、お聞きしたいことがあるのです」
「なあに」
「今年は、私の部屋のカーテンを、冬のものに替える話をなさいませんね」
母は、少し驚いた顔をした。それから、書斎の扉のほうを見て、微笑んだ。
「お父様がね、今年から、あの部屋は何も替えなくていいって言ったの。夏の終わりに。理由は言わなかったけれど」
母は、書斎の扉のほうを気にしながら、声をひそめた。
「いつ帰ってきてもいいように、だったのね」
* * *
玄関で見送ったとき、閣下は馬車の扉の前で振り返った。
「ローセヴィークへは、春まで行けない」
閣下は言った。
「だが、行き先の人が、冬に王都へ来る。エーミルから知らせが来た。冬のうちだ」
閣下は、少しだけ笑った。
「そのときに、行き先を見る」




