末の妹は、家を出るものでしょうか
ヨンナ様は、手紙を胸に抱えたまま、玄関の広間で立ち尽くしていた。
それから、私の袖を引いた。
「お義姉様。……今、言う」
声が、少しだけ震えていた。
「書斎で。隣にいて」
閣下は、手紙の盆を家令に渡して、私たちのほうを見た。ヨンナ様の顔を見て、それから私の顔を見た。何も聞かずに、二階へ上がっていった。書斎の扉を、開けたままにして。
階段を上がる途中で、ヨンナ様が、前を向いたまま囁いた。
「お兄様がね、すぐに、行けって言ったら」
「はい」
「わたし、この家にいなくてもいいのかなって、思っちゃう」
私は、足を止めずに聞いていた。
(だから、言えなかったのね)
閣下は、妹を一人で抱えない方だ。妹のことは、妹に聞け、と言う方だ。だから、ヨンナ様が行きたいと言えば、きっとすぐに許す。その速さが、ヨンナ様には怖かったのだ。
その夜、私は、閣下の書斎に初めて入った。
ベルティル様が四半時見つめられ、ニクラス様が名乗る前に座らされ、オスカル様が帳面を出した書斎だ。想像していたより、ずっと狭い部屋だった。机と、椅子と、壁一面の棚。窓の外は、もう真っ暗だった。
閣下は、机の向こうに座っていた。
「座れ」
ヨンナ様は、座らなかった。机の前に立って、手紙を二通、机の上に置いた。一通は秋に来た手紙で、もう一通は、さっき受け取ったばかりの手紙だった。こちらの封は、階段の途中で、ヨンナ様が自分で切っていた。
「お兄様。わたし、春から、ローセヴィークに行きたい」
閣下は、手紙に目を落とさなかった。ヨンナ様の顔を見ていた。
「王立図書館の、蘭の図譜の絵を描いた人がいるの。イングリッド・ローヴっていう人。ローセヴィークの、王立植物園の分園にいるの。わたし、夏から根の絵を描いてて、エーミル義兄様に頼んで、その人に送ってもらったの」
ヨンナ様は、一息で言った。走るときと同じだった。
「そうしたら、春から一年、弟子として教えるって。今日の手紙には、冬に、図譜の新しい版の絵を王都の図書館に届けに来るから、返事はそのときに、わたしの口から聞く、って書いてあった」
そこまで言って、ヨンナ様は、やっと息を吸った。
「だから、行きたい。一年」
書斎が、静かになった。
閣下は、何も言わなかった。
ヨンナ様の肩が、少しずつ上がっていった。私は、ヨンナ様の隣に立ったまま、時計を見ないようにした。ベルティル様の四半時を、私は聞いて知っている。けれど、今夜のこの沈黙は、そういうものとは違って見えた。
閣下は、机の上の二通の手紙を見て、ヨンナ様の顔を見て、窓の暗さを見た。
それから、言った。
「……考える」
それだけだった。
ヨンナ様が、目を丸くした。
温室で、閣下は、私の質問に一瞬で答えた。取り消さない。先に交わした約束が先だ。茶会でも、宴の晩でも、閣下はいつも、答えを先に持っている方だった。
その閣下が、答えなかった。
「……考えて、くれるの」
ヨンナ様の声は、半分笑っていて、半分泣きそうだった。
「行けって、すぐ言うと思ってた」
「言わない」
「行くなって、言うの?」
「言わない」
閣下は、手紙を二通揃えて、ヨンナ様のほうへ押し戻した。
「考える、と言った」
ヨンナ様は、手紙をつかんで胸に抱えた。それから、くるりと向きを変えて、書斎を走って出ていった。その足音は、角を曲がるまで廊下に響いていた。泣き声のような、笑い声のような声が、一度だけ聞こえた。
* * *
書斎には、閣下と私が残った。
開けたままの扉の外の廊下で、マリットが控えている気配がした。
閣下は、しばらく机の上の何もないところを見ていた。
「反対は、しない」
閣下は、低い声で言った。
「あの絵は、見ている。家庭教師の帳面で、絵の時間が増えたのも知っていた。理由を聞かなかったのは、私だ」
閣下は、指を一本ずつ折った。
「エッバは、嫁いでも王都にいる。カーリンも王都にいる。マーヤは春に嫁ぐが、オーベリ家は王都の屋敷だ。五人とも、馬車で半刻のところにいる。……一年、馬車で四日の町へ、末の妹を出すのは、初めてだ」
閣下は、少し間を置いて、言い足した。
「叔母上にも、聞けない。叔母上には、子がない。妹たちのことでは九年頼ってきたが、子を家から送り出したことは、叔母上もない」
閣下の手が、机の上で止まった。
「何と言って送り出せばいいのか、分からない」
私は、閣下の顔を見ていた。
閣下の口から、分からない、という言葉が出たのは、これが初めてだった。
妹が五人いる方なら、兄というものに一番詳しいと思って、私は温室でこの方に聞いた。この方は答えてくださった。茶会でも、宴の晩でも、妹のことなら、この方はいつも答えを持っていた。
けれど、これは、兄の問いではないのかもしれなかった。
(それは、誰に聞けば分かるのかしら)
閣下は、若いときから、この家の兄であり、親の代わりだった。妹が家を出るとき、兄は見送る。けれど、子が家を出るとき、送り出すのは親だ。閣下が今抱えているのは、親の問いだった。
子が家を出るとき、親はどうするものなのか。
そして、それを今まさに考えている親を、私は一人知っていた。来年、たった一人の娘を、この家へ送り出す人だ。夕食のときに何も言わずに、私の皿を見ている人だ。
「閣下」
私は、言った。
「父に、伺ってみてはいかがでしょうか」




