公爵家の差配と、最初の訪問
「冬のあいだに、この家の差配を覚えてもらいます」
宴から何日かたった午後、シャスティン夫人は、私が公爵家の家事室の椅子に座るより先にそう言った。
家事室は、一階の奥の、厨房と食料庫のあいだにあった。壁に棚が並び、帳面が年ごとに背を揃えて立っている。窓際の机に、夫人と侍女頭と家令が待っていた。
「婚礼は来年。それまでに、一度は全部見ておきなさい。見ておけば、聞く相手が分かるわ」
(聞く相手が分かる)
それなら、私にもできそうだった。
夫人は、帳面を一冊ずつ指さしていった。早口なので、私は指の動きについていくのがやっとだった。
「家の中のことは、侍女頭。屋敷の外のことと、お金の出し入れは、家令。ヨンナの勉強は、家庭教師。社交と、娘たちの付き添いは、わたくし。アクセルは、この四つの帳面を月に一度見るだけ。それ以上は触らせないの」
「触らせない、のですか」
「触らせないの」
夫人は、帳面の背を指で叩いた。
「あの子が家を継いだ年に、わたくしが言ったのよ。兄が全部を抱えると、妹は兄しか頼れなくなる。だから、手を離せるところは、最初から離しておきなさい、と」
茶会の日に、閣下が同じことを言っていた。妹には妹の分を選ばせる、うちは侍女頭にも、家庭教師にも、叔母にも任せた、と。あの言葉は、この方から渡されたものだったのだ。
「あの子は、言われたとおりにしたわ。言われたとおりにしすぎて、自分の縁談まで手を離しかけたけれど」
侍女頭が、帳面で口元を隠した。家令は、天井の一点を見ていた。
私は、侍女頭の帳面を一冊借りて、最初の頁から順にめくった。部屋ごとに、季節ごとの支度が書いてある。暖炉の薪の量、窓の目張り、寝具の替え時。
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「何なりと」
「冬のカーテンには、いつ替えるのですか」
侍女頭は、少しだけ目を丸くした。それから、帳面の別の頁を開いてくれた。
「もうすぐでございます。妹様方のお部屋は、毎年、それぞれご自分で布をお選びになります。ヨンナ様は、毎年一番先にお決めになるのですが」
侍女頭は、頁の上の空いた欄を指でなぞった。
「今年は、まだでございます」
私は、その空いた欄を、しばらく見ていた。
* * *
家事室の稽古は、途中で一度切り上げになった。
今日の午後は、オスカル様が初めてこの家を訪ねてくる日だったからだ。宴の翌朝、ソフィ様が自分で決めた日の、お茶の時間だ。
付き添いは、シャスティン夫人だった。夫人は客間へ入る前に、廊下の角を振り返った。
「マーヤ。ヨンナ」
角の陰から、マーヤ様とヨンナ様が出てきた。
「何もしてないわ」
「まだ何もしてない」
「まだ、ね」
夫人は、二人を見下ろした。
「入るか、去るか。どちらかになさい。扉の外に張りつくのは、この家では、昔から禁じてあるはずよ」
マーヤ様とヨンナ様は顔を見合わせ、そろって客間へ入った。去るほうは、選ばなかった。私も、夫人に手招きされて後に続いた。
客間では、窓辺の長椅子に、ソフィ様とオスカル様が向かい合って座っていた。
二人は、王都の家々の立ち位置の話をしていた。
「ハルステン家の秋の晩餐では、ベリエル家が暖炉の右だったわ」
「左です。典礼局の写しでは」
「右よ。わたし、見てたもの」
「……書き直します」
オスカル様は帳面を出して、何か書き直した。ソフィ様は、得意げに顎を上げた。
ヨンナ様が、私の耳元で囁いた。
「お義姉様、あれ、楽しいの?」
「お二人は、楽しそうです」
「ふうん」
ヨンナ様は、首をかしげたまま、二人を見ていた。それから、ふいに窓の外の庭へ目をやった。庭の奥に、先代の公爵夫人が好きだったという花を育てている、小さな温室の屋根が見えた。
ヨンナ様は、その屋根を、しばらく見ていた。
* * *
お茶が済んで、オスカル様が帰っていった後、家庭教師の先生が、家事室の稽古の続きに来てくださった。
先生は、ヨンナ様の時間割を、私の前に広げた。
「ヨンナ様のお勉強は、地理と、語学と、歴史と、音楽と、絵です。夏までは、絵は週に二刻でした」
先生は、夏から後の頁をめくった。
「今は、六刻です」
「そんなに」
「ご本人の頼みで、ほかの時間を少しずつ削りました。閣下のお許しは、わたくしが取りました。月に一度の帳面で、閣下はご覧になっています」
見てはいらっしゃるのだ。ただ、絵の時間が増えた理由までは、聞いていらっしゃらない。聞かないのが、この家の閣下のやり方だった。
先生は、私を二階の勉強部屋へ案内してくれた。
扉を開けると、壁一面に、紙が貼ってあった。
全部、根の絵だった。
花は、一つも描かれていなかった。土から掘り出したばかりのような根が、紙の真ん中から四方へ伸びている。細い根の先の、さらに細い毛まで描いてある。月光蘭の根。庭の薔薇の根。厨房の裏の香草の根。私が数えたところで、十四枚あった。
一番大きな紙が、窓の横に貼ってあった。庭の小さな温室の、先代の公爵夫人の花の根だった。
「お義姉様」
後ろから、ヨンナ様の声がした。いつの間にか、ついてきていたのだ。
「次の夕食で、言う。お兄様に」
ヨンナ様は、壁の根の絵を見たまま言った。
「……お義姉様、隣に座ってて」




