家を出る前の気持ちなら
「家を出るって、どういう気持ち?」
ヨンナ様は、廊下の角の壁に背中をつけたまま、私の顔を見上げていた。
いつもなら、この方は答えを待たない。聞いたそばから、次の質問をしている。今日は、待っていた。
(それは、誰に聞けば分かるのかしら)
家を出たことのある方なら、大勢いる。エッバ様もカーリン様も、嫁いで家を出た。閣下の叔母君のシャスティン夫人も、この家から嫁いでいった方だ。
けれど、家を出る前の気持ちを、今まさに抱えているのは、この廊下では私だけだった。
「まだ出ておりませんので、半分しか分かりません」
私は、正直に言った。
「出る前の気持ちなら、分かります」
「それでいい。それが聞きたいの」
ヨンナ様が、壁から背中を離した。マリットは、廊下の数歩先で立ち止まって、こちらに背を向けた。
私は、少し考えてから話し始めた。
「楽しみなことは、たくさんあります。この家の食卓は、話が四方から飛んできて、スープが冷める暇もありません。王立図書館が近いので、図譜を何度でも見に行けます。ヨンナ様に、毎朝、大きな声で呼んでいただけます」
ヨンナ様が、少しだけ笑った。
「それから」
私は、言葉を探した。
「ヴェスティン家の食卓は、父と母と私の三人です。私が家を出たら、二人になります」
ヨンナ様の笑いが、引っ込んだ。
「父は、夕食のときに何も言わずに、私の皿を見ていることがあります。前は、そういうことはありませんでした。母は、私の部屋のカーテンを冬のものに替える話を、今年はまだしていません。毎年、この季節にはしていたのに」
話しながら、私は自分で少し驚いていた。こういうことを、誰かに言ったのは初めてだった。言う相手が、いなかったのだ。
「楽しみなことと、二人になる食卓のことが、同じ日に、同じ胸の中にあります。……家を出る前の気持ちは、そういうものだと思います」
ヨンナ様は、私が話し終えるまで、壁の模様を見つめて聞いていた。
それから、上着の内側に手を入れて、折りたたんだ手紙を一通出した。
「お義姉様。これ、読んで」
封筒は、少し日に焼けた色をしていた。宛名は、ヨンナ様の名前。差出人のところに、知らない名前が書いてあった。
イングリッド・ローヴ。
その下に、町の名前があった。ローセヴィーク。王立植物園の分園、と添えてある。
「……どなたでしょうか」
「図譜の絵を描いた人」
ヨンナ様は、私の手元を覗き込んだ。
「夏に、二度目の夕食のとき、お義姉様が言ったでしょう。月光蘭の頁に、根の絵まで描いてあったって。根の張り方で、その年に花の開く時刻が分かるって」
「はい」
「わたし、それから根を描いてるの」
ヨンナ様は、少し早口になった。
「エーミル義兄様に図譜を見せてもらって、描いた人の名前を聞いたの。義兄様が、手紙を出してあげようかって。それで、夏の終わりに、わたしの描いた根の絵を、送ってもらったの。月光蘭の根と、庭の薔薇の根と、うちの小さな温室の花の根。月光蘭は、図譜の絵を写させてもらったの。温室の花は、秋に庭師が鉢の土を替えたとき、抜いたところを描いたの」
ヨンナ様は、手紙を指さした。
「秋に、返事が来たの。義兄様の家に。義兄様の名前で送ってもらったから、返事も義兄様のところに届いたの。読んで」
私は、手紙を開いた。字は大きく、短かった。
根を描く娘さんは、珍しい。春から一年、ローセヴィークの分園へ来るなら、弟子として教えます。分園には、南の国からの船が最初に着きます。花より先に、根が届きます。
それだけだった。挨拶も、季節の言葉もなかった。
私は、手紙を二度読んだ。
「弟子に、ということでしょうか。春から、一年」
ヨンナ様は、黙って二度頷いた。
「ローセヴィークは、王都からどれくらいでしょう」
「馬車で四日。走っても四日」
走ることまで考えていたらしい。
「分園で、何を教わるのですか」
「根の描き方。それから、船から降りたばかりの花の描き方。……船に揺られた花はね、王都に着くころには、もう形が変わってるんだって。だから、着いたその日に描くの。エーミル義兄様が言ってた」
ヨンナ様の声は、話しているうちに、いつもの大きさに戻っていった。地理の授業の帳面に、川の名前より先に港の名前を書いていたのだと、ヨンナ様は少し得意げに言った。それから、また声が小さくなった。
ヨンナ様は、私の手から手紙を取り戻して、大事そうに折りたたんだ。
「お兄様には、まだ言ってないの。誰にも。エーミル義兄様は知ってるけど、聞かれないと言わない人だから」
サンデル先生なら、そうだろう。
「お兄様には、まだ言わないで」
私は、少し考えた。
閣下に隠しごとをするのは、気が進まなかった。けれど、これは私の手紙ではない。ヨンナ様の手紙で、ヨンナ様の春のことだ。
「申し上げるのは、ヨンナ様です」
私は言った。
「私は、申し上げません。けれど、ヨンナ様が申し上げるときに、隣にいてほしいとおっしゃるなら、隣にいます」
ヨンナ様は、ほっとしたように息を吐いた。
それで、私は一つだけ聞いた。
「ヨンナ様。なぜ、閣下に言えないのですか」
閣下は、妹を一人で抱えずに、任せるところは任せる方だ。ヨンナ様が学びたいと言えば、反対なさるようには思えなかった。
ヨンナ様は、靴の先で廊下の絨毯の模様をなぞった。
しばらくして、顔を上げた。
「だって、お兄様は、行けって言うに決まってるもの」




