家を出るって、どういう気持ち?
宴の晩、帰りの馬車に乗る前に、ヨンナ様が私の袖を引いて囁いた。
「明日の朝、九時の前に来て。絶対よ」
それで翌朝、私はマリットを連れて、九時の鐘よりずっと前に、リンドホルム公爵家の玄関に立っていた。
出迎えた侍女は、私を客間ではなく、二階の廊下へ案内した。書斎の前の廊下だった。
廊下には、もう五人揃っていた。
ヨンナ様と、マーヤ様と、ソフィ様は、この屋敷に住んでいる。けれど、エッバ様とカーリン様までいた。
「エッバ様。カーリン様も」
「見逃すわけにはいかないでしょう」
エッバ様が、手袋を外しながら言った。
「オッレを乳母に預けて、朝一番の馬車で来たわ。ベルティルには、何も言わずに」
「エーミルは、植物園の朝の見回りよ。夕方、全部話すって約束したの」
カーリン様が、声を落として言った。
ソフィ様は、廊下の端の窓辺に立って、外を見ていた。見ているふりをしているのだと、私にも分かった。窓の外は、庭の楓だけで、ほかに見るものは何もない。
「ソフィ。こっちに来たら」
「いい。ここで」
マーヤ様の声に、ソフィ様は振り向かずに答えた。窓枠に置いた指が、落ち着きなく桟を叩いていた。
九時の鐘が鳴る少し前に、階段の下から、一段ずつ確かめるような足音が近づいてきた。
オスカル様だった。紺の上着で、胸のところが四角くふくらんでいる。廊下に五人の妹様と私が並んでいるのを見て、足が一瞬止まった。それから、一人ずつに礼をして、書斎の扉の前に立った。
窓辺のソフィ様の前を通るとき、オスカル様は礼をしただけで、何も言わなかった。ソフィ様も、何も言わなかった。
九時の鐘の、一つ目が鳴った。
扉が叩かれた。
「入れ」
扉が開いて、閉まった。
廊下が、しんとした。
ヨンナ様が、すぐに扉に耳を当てた。マーヤ様が、その襟首をつかんで引き剥がした。
「聞こえないわよ。あの扉、お父様の頃のままだもの」
「マーヤ姉様だって、ニクラス様のとき、耳を当ててたってエッバ姉様が言ってた」
「当ててない」
「当ててたわ」
エッバ様が、あっさり言った。マーヤ様は口を開けて、閉じた。
カーリン様が、懐中時計を出した。私は、ベルティル様の四半時のことを思い出していた。廊下の誰もが、同じことを考えているようだった。
時計の針は、ゆっくり進んだ。
四半時にはまだ届かないところで、扉が開いた。
オスカル様が先に出てきた。背筋は昨夜よりまっすぐで、帳面を持つ手だけが少し震えていた。後ろから、閣下が出てきた。
「訪問のお許しを、いただきました」
オスカル様が、廊下の全員に向かって言った。
「来週から、週に一度だ」
閣下が続けた。
「夕食には?」
ヨンナ様が、すかさず聞いた。
「婚約してからだ」
閣下が言うと、オスカル様は上着の内側から帳面を出して、何か書いた。たぶん、今の言葉を、そのまま。
窓辺で、ソフィ様がやっと振り向いた。
オスカル様は帳面をしまうと、廊下の端まで歩いていって、ソフィ様の前で止まった。今度は、礼だけではなかった。
「最初に伺う日を、ソフィ嬢に決めていただいてもよろしいでしょうか。閣下ではなく」
ソフィ様は、少しだけ笑った。
「七日後の午後。お茶の時間に」
「承知しました」
オスカル様は、それも帳面に書いた。それから廊下の全員にもう一度礼をして、階段を下りていった。
その足音が消えると、廊下じゅうの息が、いっせいに吐き出された。ヨンナ様がソフィ様に飛びつき、マーヤ様が「七日後ですって」と二度繰り返した。エッバ様は額に手を当てて天井を見上げ、カーリン様は懐中時計の蓋を閉じて、「四半時より短かったわ」とだけ言った。
閣下は、扉のところで、それを全部見ていた。それから、廊下の妹たちを順に見て、最後に私のところで目を止めた。
「君まで、来ていたのか」
「ヨンナ様に、呼ばれましたので」
閣下の目元が、少しだけやわらいだ。
「……聞いたか、と聞いた」
閣下は、声を落として続けた。
「妹に聞いたか、と。あの男は、二度伺いました、と答えた」
* * *
二度目の申し込みが来ない人は、誰に聞けばいいのかしら。
ソフィ様の手紙の一行を、私はあの日から考えていた。
私は、踊った殿方に聞いた。二度目を申し込んだ義兄に聞いた。典礼局の方に聞いた。閣下は、オスカル様に、妹に聞け、とおっしゃったらしい。
どなたの答えも、本当だった。殿方は書斎が怖かったし、噂は形を変えていたし、ソフィ様は広間を見ていた。けれど、一番よく分かっていたのは、春から毎晩一度ずつ申し込んでいた方と、昨夜その方の顔を見たソフィ様だった。
分からないことは、分かる人に聞けばいい。
ただ、分かる人は、ときどき、自分が分かっていることを知らない。
* * *
昼前に、帰り支度をして廊下を歩いていると、角のところで、ヨンナ様が待っていた。
いつもなら、遠くから「お義姉様!」と呼ぶ方だ。今日は、呼ばなかった。壁に背中をつけて、私が来るのを黙って待っていた。
「ヨンナ様」
「お義姉様」
ヨンナ様の声は、いつもの半分くらいの大きさだった。
「お義姉様は、いつか、ヴェスティン家を出て、うちに来るでしょう」
「はい」
「ヴェスティン家には、お父様とお母様しかいないのに」
「……はい」
ヨンナ様は、自分の靴の先を見た。それから、顔を上げた。
「家を出るって、どういう気持ち?」




