婚約した二人は、最後に並んで入る
宴の日の夕方、母が私の髪を結った。
夏の初めの宴の日と同じだった。侍女に任せればいいのに、と私が言う前に、母はもう櫛を手に取っていた。黒い髪をうなじの上でまとめて、真珠のピンを挿す。
鏡の中で、母の手が私の胸元で止まった。
あの日も、ここで止まった。ブローチは、宴の前にいただくものだったわね、と母は言い、私は、はい、とだけ答えた。
今日の胸元には、何もなかった。リンドホルム家には、花嫁が着ける家の品というものがない。代わりに、首に細い金の鎖を一本だけ掛けている。閣下とソフィ様が二人で選んでくださったものだ。
母は、鏡の中の私を見て、手を離した。
「今度は、聞くことが何もないわね」
「はい」
私は、同じように答えた。今度は、それで足りていた。
* * *
リンドホルム家の大広間には、大勢の客が招かれていた。
私と父は、玄関から家令に案内されて、奥の控えの間へ通された。母は客として、先に広間へ入っていった。
長い廊下を、父と並んで歩いた。ストランド家の廊下より短く、明るかった。壁に、先代の公爵ご夫妻の肖像が掛かっていた。赤銅色の髪の背の高い方と、五人の娘の誰かに少しずつ似た笑い方の奥方だった。
控えの間の扉を開けると、閣下が一人で立っていた。
濃い葡萄酒色の上着だった。温室で初めて見たときと、同じ色だ。腕には、子どもの帽子も、日傘も、焼き菓子の包みも抱えていなかった。
閣下は、私を見て、それから父を見て、深く礼をした。
父が、私の手を取った。
控えの間で、花嫁の父は娘の手を花婿に渡す。夏の初めの宴でも、父はそのつもりで、この役のために来ていた。あの晩、父の手は使われなかった。
今夜、父は私の手を取ったまま、閣下の前まで歩いた。
そこで、父は止まった。
毎晩、書斎で考えていたのだと、母が言っていた。灯りが夜中まで消えなかった、と。
父は何か言いかけて、やめて、また息を吸った。
「……よく聞く子だ」
いつもの父の声より、一段低い声だった。
「庭のことは庭師に、馬のことは厩番に聞く。分からないことは、何でも聞く。小さいころから、ずっとそうだった」
父は、私の手を閣下のほうへ差し出した。
「よく、聞いてやってくれ」
閣下は、両手で私の手を受け取った。
「はい。聞きます」
父は、私の手を離す前に、一度だけ、少し長く握った。それから手を離して、閣下に一礼し、広間へ続く扉のほうへ歩いていった。
父の背中は、まっすぐだった。扉の前で、父は一度だけ、上着の袖で目元を拭った。私には見えないと思ったのだろう。
* * *
広間へ続く扉が開いた。家令の声が響いた。
「ヴェスティン伯爵」
父が先に入っていった。客が揃ったのを、家令が確かめる間があった。
「リンドホルム公爵閣下。ヴェスティン伯爵家、ノーラ様」
私は、閣下と並んで、広間へ入った。
広間じゅうの目が、こちらへ向いた。今度は、往復しなかった。並んで歩く二人の上に、まっすぐ止まった。
広間の一番奥に、シャスティン夫人が立っていた。背中に一本、物差しでも入っているような立ち方で、扇を閉じて手に持っている。その横に、五人の妹様たちが並んでいた。エッバ様とベルティル様、その隣にヨンナ様。カーリン様とサンデル先生、マーヤ様とニクラス様、ソフィ様。客を迎える側に、一列に。
ヨンナ様が、私と目が合って、右手を少し上げかけた。それから、隣のエッバ様の手が動く前に、自分でその手を下ろした。
客の間から、囁きが聞こえた。
「並んで入るのが、本来なのよね」
「先の宴では、妹御の手を……」
「同じ年に、二度も見るとは思わなかったわ。入場の、間違えたほうと、正しいほうを」
白い髭の老伯爵が、隣の夫人に何か言いかけて、また袖を引かれていた。夏の宴で、わしには妹が三人おるがな、と言いかけていた方だ。
広間の奥まで歩いて、閣下と私は、シャスティン夫人の前で止まった。夫人は、私たちを見て一度だけ頷いた。前例どおりだ、という顔だった。
閣下と父が、客のほうへ向き直った。
両家の当主が婚約を告げ、杯を上げる。閣下は杯を手に、広間を見渡した。
「初夏に、王立植物園の温室で、見知らぬ令嬢に一つ質問をされた」
閣下の声は低く、広間の隅までよく届いた。
「兄というものは、妹に呼ばれたら、婚約者との約束を取り消すものか、と。私は、取り消さない、と答えた」
閣下は、隣の私を見た。
「今夜、その令嬢と、皆の前で約束を交わす。……先に交わした約束が、先だ」
父が、短く続けた。
「娘を、よろしく頼む」
杯が上がった。広間じゅうで、杯の触れ合う音が鳴った。
* * *
最初の曲は、婚約した二人で踊る。
楽師が弾き始め、閣下が私の手を取った。客が広間の端へ下がり、真ん中が空いた。私たちは、皆の目の前で一回りした。夏の終わりの王宮で踊ったときより、閣下の手は固くなかった。
曲が終わった。
閣下は私の手を離さずに、もう一度、差し出した。
「二度目だ」
私は、閣下の顔を見た。
「はい。秋になりましたので」
客の間から、笑い声が起こった。夏の終わりの舞踏会を見ていた方々だった。あの晩、公爵閣下は質問の令嬢と一曲だけ踊った、と王都で言われていたのだ。
二曲目が始まった。
回りながら、私は広間の端に目をやった。
二曲目が終わるころ、広間の隅で、ソフィ様の前に、栗色の髪の、痩せた方が立つのが見えた。




