当主が花婿のときは
打ち合わせの日の午後、リンドホルム公爵家の客間のテーブルには、紙が何種類も広げてあった。
客の名簿と、広間の図と、当日の順番の書き付けと、典礼局の帳面。真ん中に座っているのはシャスティン夫人で、その左にニクラス様、右に私と母がいた。閣下は、窓際の椅子に座っている。座っているだけで、ほとんど何も言わない。
ソフィ様は、窓辺に立っていた。ヨンナ様は、テーブルの角に顎を乗せて、広間の図を眺めている。マーヤ様は今日、婚礼衣装の仮縫いで来られないのだという。
ニクラス様の斜め後ろには、もう一人、紺の上着の方が座っていた。栗色の髪の、痩せた方だ。膝の上に帳面を開いて、ニクラス様が言うことを一つずつ書き留めている。
「では、入場の順から」
シャスティン夫人が言うと、ニクラス様が帳面を開いた。
「婚約披露の宴では、客が揃った後、婚約した二人が最後に、並んで入場します。花嫁の父君は、その前に控えの間で、花嫁の手を花婿に渡してから広間に入られます。花嫁の母君は、客として先に」
母が、小さく頷いた。
「ただし、今度の宴には、一つ、前例を確かめねばならないことがございます」
「花婿が当主だから、でしょう」
夫人が先に言った。本当に、口の早い方だった。
「はい。本来、広間の奥で客を迎えるのは、花婿の家の当主です。花婿の家の娘たちは、当主の横で客を迎える側に立ちます。ですが今度は、当主が花婿ご本人ですので、奥に立つ方がおられません」
ニクラス様は、帳面の頁を一枚めくった。
「典礼局の帳面に、前例が一つございました。先々代の公爵閣下が奥方を迎えられたときです。当主が花婿のときは、当主に一番近い年長のご親族が、当主に代わって広間の奥で客を迎えます。そのときは、先々代の閣下の叔母君でした」
「つまり、わたくしね」
「はい」
シャスティン夫人は、扇の先で広間の図の奥を叩いた。
「わたくしがここ。五人の娘と、その夫たちが、わたくしの横に並んで客を迎える。アクセルとノーラは、最後に二人で入ってくる。ヴェスティン伯爵は控えの間でノーラをアクセルに渡し、それから入る。伯爵夫人は、先に客として」
夫人は、私の母のほうを見た。
「よろしくて?」
「はい」
母は、穏やかに答えた。
私は、広間の図を見ていた。
夏の初めに、ストランド家の控えの間で見たものを、私は覚えている。婚約者が妹の手を握っていて、私は父と並んで入った。客の目が、先を行く兄妹と、後ろの私とのあいだを何度も往復した。
今度の図には、そういうところが一つもなかった。誰がどこに立ち、誰が誰の手を取るのかが、全部、正しい順に並んでいた。
「全部、前例どおり?」
テーブルの角から、ヨンナ様が聞いた。
「全部です」
ニクラス様が答えた。
「ヨンナ様は、エッバ様の隣に。手を振るのは、お控えください」
「振らないわよ。……たぶん」
ニクラス様の後ろで、帳面に書く音が続いていた。
私は、その音のほうを見た。オスカル様の字は小さく、行からはみ出さなかった。ニクラス様の言葉を、端から順に書き取っていく。
窓辺のソフィ様は、一度も振り向かなかった。オスカル様も、一度も窓のほうを見なかった。
ただ、オスカル様の字が、途中から少しだけ右へ曲がり始めた。窓辺でソフィ様が、カーテンの房を指に巻きつけたあたりからだった。
* * *
順番の話が済むと、シャスティン夫人は名簿を私のほうへ押した。
「花嫁の側のお客様で、足したい方があれば、今のうちに」
「一人、お願いしたい方がいます」
私は、名簿を手に取った。
今日、このことを言うつもりで来た。ソフィ様には、次の夜会は秋まで無い。秋の夜会で一番近いのは、この宴だ。それなら、この宴の名簿に、一人足していただけばいい。花嫁の側のお客様として。
名簿には、家ごとに大勢の名が並んでいた。私は最後の頁まで、指でたどった。
最後の行に、もう一つ、名があった。
エクルンド伯爵家、オスカル。
ほかの行の字は、夫人の字と、典礼局の方の字だった。その一行だけ、違う字だった。もっと角ばっていて、少しだけ右上がりの字。求婚のあとに届いた何通かの手紙が、この字で書かれていた。
私は顔を上げた。
閣下は、窓際の椅子で、窓の外を見ていた。庭の楓が、少し色づき始めていた。
ニクラス様の後ろで、オスカル様の書く音が止まっていた。ペン先が、帳面の一つの行の上で浮いていた。名簿を帳面に写していって、最後の行まで来たのだろう。
窓辺で、ソフィ様が、カーテンの房をもう一度きつく指に巻き直していた。
「ノーラ。お足しになりたい方は」
夫人が聞いた。
「……いえ。もう、ございました」
私は名簿を閉じて、夫人に返した。夫人は名簿を受け取ると、私の顔と、窓際の甥の横顔を見比べて、扇の陰で小さく息を吐いた。笑ったのだと思う。
* * *
打ち合わせが済んで、オスカル様はニクラス様と一緒に帰っていった。玄関で一度だけ振り返って、深く礼をした。誰に向けた礼だったのかは、分からない。
帰りの馬車で、母が膝の上で手袋を直しながら言った。
「お父様がね」
「はい」
「控えの間で何と言えばいいのか、毎晩、書斎で考えているのよ。灯りが、夜中まで消えないの」




