もう、伺いたいことはありません
秋になると、王都の通りから馬車が減った。
社交の季節が閉じて、多くの家が領地へ戻っていったからだ。ヴェスティン家も例年なら、そろそろ荷造りを始めるころだった。今年は、誰も荷造りの話をしなかった。秋に、この王都でしなければならないことがあるからだ。
秋のある午後、ストランド侯爵閣下が、ヴェスティン家を訪ねてこられた。
近く、隣国の赴任先へ戻られるのだという。別れの挨拶に、と取り次いだ執事に言い、玄関で帽子を取って父に頭を下げた。宴の晩と同じ、背の高い方だった。髪の白いところが、夏のあいだに少し増えたように見えた。
父は、侯爵閣下を書斎へ通した。
それから、自分の手で、書斎の酒棚の扉を開けた。父がそうするのを、私は数えるほどしか見たことがない。
宴が済んだら、二人で一杯やろう。若い頃のように。
初夏に侯爵閣下が父へ送った手紙の一行を、私は覚えていた。あの約束は、宴の晩に流れた。父はその晩、酒棚の扉を開けなかった。
その扉が、今日、開いた。
私と母は、居間にいた。書斎の扉は少しだけ開いていて、二人の声がときどき聞こえてきた。若い頃に二人で乗った馬が、川の手前で動かなくなった話。父が侯爵閣下の婚礼で、祝いの言葉を途中で忘れた話。ほとんどは、黙っていた。グラスが机に置かれる音と、暖炉の薪がはぜる音だけが、長いあいだ続いた。
母は刺繍の針を動かしながら、一度も書斎のほうを見なかった。それでも、母の口元は、ずっとゆるんでいた。
しばらくして、執事が私を呼びに来た。
「侯爵閣下が、お嬢様にお話があると」
* * *
書斎には、少しだけ酒の匂いがした。
父は窓際の椅子に座り、侯爵閣下は暖炉の前に立っていた。私が入って膝を折ると、侯爵閣下は上着の胸に手を入れて、封をした手紙を取り出された。
封がしてあった。宛名は、私だった。見覚えのある字だった。
「宴の翌朝に、エリアスがあなたに書いたものだ」
侯爵閣下は、手紙を手にしたまま言った。
「ヴェスティン家宛ての手紙は、私が目を通してから出すと決めていた。私は読んで、封をし直した。そして、出さなかった」
閣下は、封の上の字を見下ろした。
「捨てるべきか、あなたに渡すべきか。この秋まで考えたが、私には分からない。だから、決めるのは、あなただ」
手紙は、閣下の手の中にあった。
私は、その字を見ていた。温室の約束の前の晩にも、この字で、明日迎えに行く、と書いた手紙が届いた。翌朝、その約束は玄関の石段で消えた。
「何が書いてあるのか、伺ってもよろしいでしょうか」
「驚かせてすまなかった。ミルテのことは、君にも分かってほしい。落ち着いたら会って話そう」
閣下は、目を閉じたまま言った。中を覚えていらしたのだ。
「エリアスは、今もそう言っている。ノーラなら分かってくれる、と」
閣下は目を開けて、暖炉の火を見た。
「あれに要ったのは、分かってくれる人ではなかった。分かっていない、と言う人だった。それを言うはずの私は、ずっと王都を留守にしていた」
父が、窓際で、グラスを机に置いた。
私は少し考えた。
(この手紙を読めば、分かることがあるのかしら)
読んだら、何が分かるだろう。エリアス様が今も、妹が先だと思っていらっしゃること。私が、分かってくれると思われていること。
それなら、もう知っている。
知らないことは、分かる方に聞けばいい。生まれてから、そうしてきた。けれど、この手紙の中には、私の知らないことが一つもなかった。
「読みません」
私は、言った。
「お返しくださいませ。私には、もう、エリアス様に伺いたいことがありませんので」
侯爵閣下の目が、私の顔の上で止まった。
やがて、その目尻の皺が少しだけ深くなった。笑ったのだと、少し遅れて分かった。
「……そうか」
閣下は、手紙を上着の内側へ戻された。
「では、これはエリアスに返そう。封を切らずに」
閣下は、もう一つ付け加えた。
「あのブローチは、赴任先へ持っていく。次の花嫁が決まったら、エリアスではなく、私が自分の手で渡す。……あなたには、もう関わりのないことだが、知っておいてもらいたかった」
「はい」
私は、もう一度膝を折った。父は、窓際で黙って、空になったグラスを見ていた。
* * *
玄関で、侯爵閣下は帽子をかぶり直した。
見送りに出た父の手を、閣下は一度だけ強く握った。宴の後も何度か顔を合わせながら、杯を交わすのは今日が初めてで、明日からまた長く会えない友人の握り方だった。
馬車に乗る前に、閣下は振り返った。
「ヴェスティン」
「何だ」
「あの公爵は、良い人だな」
父は、少し間を置いた。
「……ああ」
侯爵閣下は、それで話を終えて、馬車に乗った。
私と父と母は、何も言わずに馬車を見送った。閣下は、私たちの婚約のことを知らないはずだ。まだ家族の内の話で、人に知らせるのは、ストランド家の方々が王都を発たれてからにする、と公爵閣下が決めていた。閣下が見たのは、宴の晩に進み出て、妹が五人いるが答えは同じだ、と言った方の姿だけだ。
それでも、閣下はそう言った。
父は、馬車の音が通りの角を曲がるまで、玄関に立っていた。
「……酒棚を、閉めてくる」
父はそう言って、書斎へ戻っていった。母が、私の腕に自分の腕を絡めた。
数日後の朝、ストランド家の馬車が、王都の東の門を出た。
私はそれを見送りに行かなかった。その朝、私が読んでいたのは、ソフィ様からの手紙だった。
お兄様がね、陛下のお許しが出しだい、知らせの手紙を出すって。もうすぐよ。
手紙には、それだけが大きな字で書いてあった。




