兄というものは、約束を取り消すものでしょうか
「ヴェスティン嬢?」
人だかりの手前で、声をかけられた。
五人のうちで一番年上の、既婚の装いの方だった。去年、慈善市の手伝いで隣の卓になった伯爵夫人だ。ダールベリ伯爵夫人の、エッバ様。嫁ぎ先の名でしか存じ上げなかったけれど、ご実家がリンドホルムだったらしい。
「やっぱり。お一人? 婚約者の方は?」
「妹様の乗馬の稽古に、付き添っていらっしゃいます」
見たままを言うと、エッバ様の眉がすっと上がった。花の前にいたほかの四人も、一人、また一人と、花から目を離してこちらを見た。
噴水のそばでは、大柄な男の人が、小さな男の子を肩車して笑っていた。男の子の頭に帽子はない。あれがオッレだろう。帽子は、公爵閣下の腕の中にある。
「エッバ様。不躾なお願いなのですが、お兄様にご紹介いただけませんか。一つ、教えていただきたいことがあるのです」
エッバ様は目を瞬かせ、それから兄君の袖をつまんで引いた。
「お兄様。ヴェスティン伯爵家のノーラ嬢よ。お兄様に聞きたいことがあるのですって」
公爵閣下がこちらを向いた。高いところから、琥珀色の目が私を見た。両腕には、帽子と日傘と焼き菓子の包みを抱えたままだ。
「アクセル・リンドホルムだ。何を」
「閣下には、妹様が五人おいでだと伺いました」
「……いるな。見てのとおり」
「では、教えてください。妹様に呼ばれたら、兄というものは、婚約者との約束を取り消すものでしょうか」
閣下の動きが、止まった。
答えは、閣下より先に、妹様たちの口から出た。
「取り消したら、私が兄を叱ります」と、深緑の帽子の方。
「五人で叱るわ!」と、髪を下ろした一番下の方。さっき、走っていると言われていた方だ。
「うちの婚約者が同じことをしたら、あたしは婚約者のほうを叱るけど」と、真ん中の方が肩をすくめた。
「静かに」
閣下は妹たちを目で制した。手はふさがっていた。それから少し考えて、真面目な顔で答えた。
「取り消さない。先に交わした約束が先だ。妹が熱を出したなら医者を呼ぶし、稽古なら先生がいる」
そこで、ほんの少しだけ口の端を下げた。
「それに、妹が五人いる。全員の呼び出しに応じていたら、私は一日に五回、約束を破ることになる」
「なるほど」
私は頷いた。厩番に、馬が機嫌を損ねる理由を教わったときと同じくらい、分かりやすかった。
「ありがとうございます。参考になりました」
「……なぜ、私に聞いた」
「分からないことは、分かる方に伺うことにしています。妹様が五人いらっしゃる方なら、兄というものに一番お詳しいと思いました」
閣下は黙ったまま、しばらく私を見下ろしていた。
それから、不意に笑い出した。
最初は肩だけが揺れていた。帽子と日傘を落とすまいと腕に力を入れたせいで、かえってこらえきれなくなったらしく、とうとう声が出た。周りの人が何事かと振り向き、妹様たちが、珍しい鳥でも見つけたような顔で兄君を見上げた。
「失礼」
閣下は、日傘を握ったままの手の甲で口元を押さえた。
「妹が五人いることを、役に立つと言われたのは初めてだ」
「縁談のお相手は、皆さん逃げてしまわれるそうですね」
口にしてから、扇の陰の噂をそっくり繰り返したと気づいた。閣下は怒るどころか、もう一度、短く笑った。
「そうだ。だから、五人の前にまっすぐ来て質問した令嬢も、君が初めてだ」
エッバ様が、私と兄君の顔を面白そうに交互に見た。
「ヴェスティン嬢。今度、妹たちのお茶会をうちで開くの。よかったらいらして。聞きたいことがあったら、五人分の答えが揃っていてよ」
「ありがとうございます。伺います」
「それで、ノーラ嬢は何を見にいらしたの?」
一番下の方――ヨンナ様が、いつの間にか私の隣に来ていた。
「月光蘭です。年に一度、この日の昼にだけ、白い花が開くと本で読みました」
「それなら奥よ! こっち!」
ヨンナ様は私の手を握って駆け出そうとし、後ろから兄君に襟首をつままれた。帽子は、いつの間にかエッバ様の手に移っていた。
「走るな。……ヴェスティン嬢、案内させてくれ。一人で来た客を、一人で帰すのは、うちの流儀ではない」
* * *
月光蘭は、温室の一番奥の、岩を組んだ水場の上にあった。
水場の前には綱が張られていて、その内側で、眼鏡をかけた細身の男の人が帳面に鉛筆を走らせていた。
「エーミル」
深緑の帽子の方が呼ぶと、その人は顔を上げ、黙って綱の端を外してくれた。深緑の帽子の方は、兄君の腕から焼き菓子の包みを取って、その人に渡した。
「カーリンよ。二番目。これは夫のエーミル・サンデル。ここの学者で、今日は一日、この花の番なの」
「今年は、昼の一時に開きました」
サンデル先生は、それだけ言うと、また帳面に戻った。
花は、本の挿絵より小さくて、挿絵よりずっと白かった。花びらの縁が、水の照り返しを受けて少し透けている。妹様たちが私の両側から首を伸ばして、「去年より大きい」「それ、去年も言ったわ」と言い合った。
一人で見るつもりだった花を、いつの間にか七人で囲んでいた。
綱の内側の先生と、噴水から追いついてきたエッバ様の旦那様と、その肩の上のオッレを入れ忘れていたことには、温室を出てから気づいた。
帰りの馬車の中で、マリットは「お嬢様、あれは不躾どころではございませんでした」と言った。言いながら、口の端が上がっていた。
兄というものが何なのかは、まだ分からない。けれど、一人の兄のことなら、少し分かった。
数日後は、エリアス様が訪ねてくる日だった。




