妹が先だ
この作品は、短編「「妹が先だ。一人っ子の君には分からない」と婚約者が言うので、妹が五人いる公爵閣下に聞いてみました」をもとに、公爵や妹たちの視点を加えて書き直した連載版です。第1〜9話は短編の内容に加筆したもので、第10話から短編の先へ進みます。短編を読んでくださった方も、はじめての方も、どうぞよろしくお願いします。
「すまない、ノーラ。妹が先だ」
玄関の石段の下で、婚約者のエリアス様はそう言った。
私はちょうど、帽子のリボンを顎の下で結び終えたところだった。今日は王立植物園の温室の公開日だ。一年に一日しか開かない硝子の温室を、二人で歩く。ずいぶん前にそう約束して、先週の訪問の日にも念を押した。淡い黄色のドレスは、温室の緑の中で映えるように、母と一緒に選んだものだ。
門の前に、ストランド侯爵家の紋の馬車が停まっていた。開いた窓から、金色の巻き毛がのぞいている。
「お兄様、早く! 先生が待ってるわ!」
声の主は、エリアス様の妹のミルテ様だ。まだ社交界に出る前の年頃で、今日は乗馬の稽古があるらしい。
「ミルテが、どうしても僕に見ていてほしいと言うんだ。母上が亡くなってから、あの子には僕しかいない」
エリアス様は困ったように笑い、それから、もう何度聞いたか分からない言葉を足した。
「一人っ子の君には分からないだろうけど、兄というのはそういうものなんだ」
「温室なんて、ノーラ様お一人でも見られるでしょう?」
窓の奥から、明るい声が重なった。
(なるほど)
私は手袋の指を一本ずつ引いて整えながら、考えた。
(私には兄も妹もいない。だから、分からない)
それは本当のことだった。
ヴェスティン伯爵家の子どもは、私一人だ。この国の爵位は男の血筋にしか継がれないので、父の跡は、父の弟の息子――従兄のステンが継ぐことに決まっている。娘の私が婿を取っても、婿は伯爵にはなれない。だから私は持参金を持ってよその家へ嫁ぐ側で、持ち込まれる縁談の相手は、どれも自分の家を継ぐ方ばかりだった。侯爵家の嫡男のエリアス様も、その一人だ。
兄弟のいない家で、物心ついたころから周りは大人ばかりだった。分からないことがあると、分かる人に聞いた。薔薇が枯れる理由は庭師に、馬が機嫌を損ねる理由は厩番に、父の機嫌が悪い理由は執事に。教えてくれる兄も姉もいないのだから、それが一番早かった。
兄というものが、婚約者との約束より、妹の乗馬の稽古を先にするものなのかどうか。
それも、分かる人に聞けばいい。
「分かりました。どうぞ、ミルテ様のところへ」
「ありがとう。君ならそう言ってくれると思った。温室は、来年また行けばいい」
エリアス様は肩の荷が下りたような顔で、門のほうへ歩いていった。
来年また、と言われるのは二度目だった。去年の公開日は、婚約が決まったばかりの初夏で、あのときはミルテ様が、知り合いの家で生まれた子犬を見に行きたいと言ったのだ。
この一年で、あの困ったような笑い顔を何度見たか分からない。先月の音楽会は、ミルテ様が「眠れないから本を読んで」と言ったので、行かないことになった。私の誕生日の晩餐には、ミルテ様が一人で留守番は寂しいと泣いている、という使いが来て、エリアス様はデザートを待たずに帰った。どちらの晩も、聞いた言葉は同じだった。妹が先だ。君には分からないだろうけど。
馬車の音が遠ざかると、後ろで侍女のマリットが、わざと聞こえるように息を吐いた。
玄関の奥では、母が柱の陰から顔をのぞかせていた。どこから聞いていたのだろう。
「ノーラ。行くのはやめにする?」
「いいえ、お母様。今日しか入れないもの」
母は少し黙ってから私の前まで来て、帽子のつばを、ほんの少しだけ右へ傾けた。
「このほうが、顔がよく見えるわ」
それだけ言って、母は奥へ戻っていった。
* * *
硝子の扉をくぐると、季節が一つ先へ進んだようだった。
硝子の天井の下で、南の国の大きな葉が幾重にも重なり、甘い花の匂いがこもっている。通路は人でいっぱいだった。腕を組んで歩く婚約者どうし、子どもの手を引く夫婦、杖をついた祖母の腕を取る孫。婚約者も家族も連れずに、侍女だけを後ろに歩いている令嬢は、見回したところ私だけだった。マリットは、人波で私を見失わないように、すぐ後ろをついてくる。
入口の案内板を読み終えて顔を上げると、通路の先に人だかりがあった。
その真ん中に、背の高い男の人がいる。
赤銅色の髪を短く刈って、濃い葡萄酒色の上着を着ている。片方の腕に子ども用の小さな帽子を、もう片方の腕に畳んだ日傘と焼き菓子の包みを抱えて、少しも困った顔をしていない。その周りに、五人の令嬢がいた。上は既婚の落ち着いた装いの方から、下はまだ髪を下ろした少女まで、五人が五人とも違う花の前に立っている。
「お兄様、その帽子、オッレのよ。落とさないでね」
「お兄様、ヨンナがまた走ってる」
「走ってないわ、早歩きよ!」
すぐそばで、年配の夫人が扇を広げ、連れの耳に口を寄せた。
「五人の妹の公爵よ。リンドホルム公爵。陛下の従兄でいらっしゃるのに、お若いうちにご両親を亡くされて、妹様方をお一人で育ててこられたんですって」
「また縁談が流れたそうね。先方のお嬢さんが、妹が五人と聞いて尻込みなさったとか」
「あの賑やかさですもの」
私は足を止めた。
(妹が、五人)
王都で、兄というものに一番詳しい人がいるとしたら、あの方ではないだろうか。
私は、人だかりのほうへ一歩踏み出した。
お読みいただきありがとうございます。短編版をもとに、公爵と妹たちの目も加えて書き直した連載版です。第10話から、短編の先へ進みます。ブックマークと、下の☆での評価で応援していただけると嬉しいです。




