二度目は、秋まで
夏の終わりの王宮の舞踏会には、父も来た。
父が夜会に出るのは、めったにない。今夜は社交の季節を閉じる晩で、明日から多くの家が領地へ戻る。王都の古い家の当主は、皆この晩だけは顔を出すのだと、母が馬車の中で教えてくれた。
その夜の王宮の広間は、ハルステン家の広間よりずっと広かった。天井から下がる灯りが多すぎて、どこを見ても明るい。楽師は二組いて、片方が休むと、もう片方が弾き始める。
広間の入口の近くに、典礼局の方々が並んでいた。紺の上着のニクラス様が、私に気づいて目礼をくださった。その隣に、栗色の髪の、痩せて背の高い方がいた。
今夜は、顔がよく見えた。緑がかった灰色の目で、何かを確かめるように、広間の端から端までを見ていた。上着の胸のところが、少しだけ四角くふくらんでいる。
(あの方が、オスカル様)
ソフィ様は、まだ来ていなかった。
「ヴェスティン嬢」
横から、早口の声がした。
振り向くと、背筋のまっすぐな年配の夫人が立っていた。白くなりかけた髪をきっちりと結い上げ、扇を閉じたまま手に持っている。
「シャスティンです。アクセルの叔母の。甥から聞いています。今夜は、知らない顔をしていてちょうだい。秋までは」
話すのも、話を切り上げるのも、とても早い方だった。私が礼を返す前に、夫人は母のほうへ向き直り、夏の庭の話を始めていた。母は、なぜかすぐに打ち解けていた。
ソフィ様の今夜の付き添いは、この方なのだという。少し遅れて入ってきたソフィ様は、叔母君の隣に立つと、私にだけ分かるように小さく頷いた。
頬が、少し硬かった。
* * *
閣下が広間に入ってきたのは、二組目の楽師が弾き始めたころだった。
陛下の従兄として、まず奥へご挨拶に行かれ、それから広間へ戻ってこられた。閣下が誰かに踊りを申し込むのは珍しいのだと、扇の陰の声が言っていた。去年の夏は一度も踊らなかったのだとか。
その閣下が、まっすぐ私の前に来た。
「ヴェスティン嬢。一曲、お願いできるか」
「喜んで」
囁きが、広間の手前から奥へ走っていった。
「公爵閣下が」
「質問の令嬢と」
「ストランド家の宴で、閣下も……」
父が、母の隣で、ほんの少しだけ目を細めた。
柱のそばでは、ハルステン家の夜会で一曲目にソフィ様と踊った子爵家のご嫡男が、私と閣下を見比べていた。目が合うと、その方は柱の陰へ半歩下がった。
広間の真ん中へ出ると、閣下の手は、夕食の晩に馬車まで送ってくださったときより、少しだけ固かった。一回りしたところで、閣下が声を落とした。
「もう一曲、どうだ」
私は、ソフィ様から教わったことを思い出した。
「閣下。二度目を申し込まれたら、閣下は明日の朝、父の書斎へいらっしゃることになります」
「もう行った」
「皆さまは、ご存じありませんので」
閣下の足が、ほんの少しだけ乱れた。すぐに戻った。
「……そうだったな」
「ですから」
私は、閣下の肩越しではなく、閣下の顔を見て言った。
「二度目は、秋まで取っておいてくださいませ」
閣下は、すぐには答えなかった。それから、笑いを喉の奥で押さえ込んだような声で言った。
「承知した」
曲が終わって、閣下は私を父と母のところまで送り、きちんと礼をして離れていった。父が、私の顔を見ずに言った。
「……一曲で、よかったのか」
「秋まで、取っておきました」
父は、それ以上何も言わなかった。母が、扇の陰で、とても嬉しそうな顔をしていた。
* * *
次の曲が始まる前に、オスカル様がソフィ様の前に立った。
私は壁際から、それを見ていた。ソフィ様はシャスティン夫人の隣で、一度だけ息を吸って、手を差し出した。
二人が、広間の真ん中へ出ていく。
ソフィ様は、広間を見ていなかった。
踊り始めてから曲の終わりまで、一度も、オスカル様の肩越しに目を逸らさなかった。誰がどの柱のそばにいても、誰が誰の隣に来ても。ソフィ様はただ、オスカル様の顔を見ていた。
オスカル様のほうも、同じだった。
踊るあいだじゅう、何かを確かめるように、ソフィ様の顔を見ていた。春からずっと、そうだったのかもしれない。ソフィ様のほうが、見ていなかっただけで。
二人は一度だけ、何か短い言葉を交わした。ソフィ様が少し笑い、オスカル様の目尻が下がった。
曲が終わった。
オスカル様は、深く礼をした。そして、それ以上は何も言わずに、ソフィ様の手を離した。
二度目は、来なかった。
叔母君の隣へ戻ったソフィ様の肩が、ほんの少しだけ落ちたのが、壁際からも分かった。
(どうして)
顔は見たのに。今夜は、肩越しではなかったのに。
私が、そう思ったときだった。
オスカル様は、玄関のほうへは行かなかった。広間を横切って、奥の、閣下の立っているところまで歩いていった。
そして、閣下の前で、深々と礼をした。
「リンドホルム公爵閣下。典礼局の、オスカル・エクルンドと申します」
声は小さいのに、言葉は一つずつはっきりしていた。
「明日の朝、お目通りをお願いできますでしょうか」
近くにいた殿方たちが、ざわめいた。
「二度目も申し込んでいないのに」
「書斎に、自分から」
「四半時だぞ」
閣下は、オスカル様を見下ろしていた。四半時ではなかった。三つ数えるほどの間だった。
「九時に」
「ありがとうございます」
オスカル様は、もう一度礼をして下がった。
ソフィ様は、叔母君の隣で、扇を開くのも忘れて、その背中を見ていた。
いつの間にか、シャスティン夫人が私の隣に来ていた。
「あの子、今夜は一度も広間を見なかったわね。春からずっと、柱ばかり見ていたのに」
夫人は、閉じた扇の先で、ソフィ様のほうを指した。
「誰の入れ知恵かしら」
そう言って、私の顔を見た。答える前に、夫人はもう母のところへ戻っていた。
オスカル様は、その晩、春から初めて、一曲踊ったあとも広間に残っていた。けれど、ほかの誰とも踊らなかった。




