玄関で、ニクラス様が言ったこと
ソフィ様から、短い手紙が届いた。
明後日の午後、ニクラス様がマーヤ姉様を訪ねてくるの。お義姉様も来て。典礼局の人なら、王都の殿方の名前は、だいたい分かるはずだから。
理由まで書いてあるのが、ソフィ様らしかった。
その日の午後、私はリンドホルム公爵家の客間にいた。窓辺の長椅子にマーヤ様とニクラス様が並び、私はその向かいに座った。マリットは壁際に、ソフィ様は、なぜか客間の入口の扉の陰にいた。入ってくればいいのに、と思ったが、言わなかった。
「先日は、演奏会に連れていってくれて、ありがとう」
マーヤ様が言うと、ニクラス様は、膝の上の書類の角を指で揃えながら答えた。
「席次を改めた、最初の晩でした」
「演奏会に席次があるの?」
「ございます。マーヤ嬢の隣は、私の席です」
マーヤ様の耳が、少し赤くなった。扉の陰から、ソフィ様の小さな笑い声が漏れた。
お茶が一巡したところで、私は背筋を伸ばした。
「ニクラス様。一つ、教えていただきたいことがあります」
「何でしょう」
「エクルンド様という方を、ご存じでしょうか。エクルンド伯爵家の、ご次男です」
ニクラス様の指が、書類の角の上で止まった。
「……オスカルですか」
「オスカル様、とおっしゃるのですね」
「はい。私の下で、書記をしております。典礼局の」
扉の陰で、何かが揺れる音がした。ソフィ様のドレスの裾だった。
「典礼局の朝は、七時です」
ニクラス様は、続けた。聞かれたことには、正直に答える方だ。
「ですから、オスカルは夜会に出ても、一曲踊ると帰ります。春からずっとそうしております。私も、マーヤ嬢と婚約するまでは、そうでした」
「……一曲踊ると」
「はい。それから、この春から三度、典礼局の帳面を調べに来ました。公爵家の当主に、訪問のお許しを願い出るときの前例です」
客間が、静かになった。マーヤ様が、扉のほうを振り返った。
「何のためかは、聞いておりません。人の調べものの理由を聞くのは、無作法ですので」
ニクラス様はそう言ってから、自分の言ったことを確かめるように、少し黙った。
「……今のは、申し上げるべきではなかったかもしれません」
「いいえ」
私は首を振った。
「ありがとうございます。とても、参考になりました」
扉の陰から、ソフィ様が半分だけ顔を出していた。扉の縁を握る指に、力が入っていた。
私は、もう一つ聞いた。
「ニクラス様は、マーヤ様に二度目をお申し込みになった翌朝、閣下の書斎へ伺われたのですよね」
「はい。前例では、九時と」
「九時の鐘の、一つ目で叩いたのよ」
マーヤ様が、横から言った。
「鐘が九つ鳴り終わるのも待てなかったの。あとで家令が、書斎の扉があんなに早く叩かれたのは初めてだって」
「前例では、九時と」
ニクラス様は、同じことをもう一度言った。耳が、マーヤ様と同じ色になっていた。
「閣下は、四半時、黙っておられましたか」
ニクラス様は、少し考えてから首を振った。
「いいえ。私が名乗る前に、座れ、と」
扉の陰で、ソフィ様が「えっ」と言った。ベルティル様の四半時から、閣下も何かを学ばれたらしい。
帰り際、ニクラス様は立ち上がってから、扉の陰のソフィ様に気づいて、丁寧に礼をした。ソフィ様は、もう隠れるのをやめていた。
「ニクラス様。夏の終わりの、王宮の舞踏会には」
ソフィ様は、そこで言葉を切った。
「典礼局の方も、いらっしゃるの?」
「参ります。王宮の舞踏会は、典礼局の仕事でもありますので。全員」
ニクラス様は、それだけ答えた。何のために聞かれたのかは、やはり聞かなかった。
* * *
玄関まで見送りに出たのは、マーヤ様と私だった。
ニクラス様の馬車が門を出ていくのを見届けてから、マーヤ様は、石段の上で私の袖を引いた。
「お義姉様。……あの晩のこと、聞きたい?」
「あの晩」
「二度目の夕食の晩。玄関で、ニクラスが言ったこと」
覚えている。石段を下りかけたニクラス様が振り返って、何か言った。私のところまでは届かなかった。マーヤ様の耳が、根元まで赤くなったのだけを見ていた。
「マーヤ様が、誰にもお話しにならないと伺いました」
「そうよ。ヨンナには枕を投げたわ」
マーヤ様は、門のほうを見たまま言った。
「でも、お義姉様には言うって決めてたの。お義姉様が聞いてくれなかったら、あたし、あの晩、言えなかったもの」
マーヤ様は、自分の言えなかった一言を言うときの顔をしていた。
「あの人ね。あなたに帰ってほしくないと言われたのは、生まれて初めてです、って」
夏の風が、石段の上を通っていった。
「あの人の家、大人ばっかりなの。お父様もお母様も、使用人も。誰も、あの人に帰ってほしくないなんて言わなかった。言わなくても、あの人は毎晩その家に帰ってきたもの。ほかに帰る家なんて、なかったんだから」
(一人っ子の家は、そうなのかもしれない)
私の家も、父と母と私の三人だった。誰かに、帰ってほしくないと言われたことがあったかしら、と考えた。思い出せなかった。言われる場所が、なかったのだ。
「……素敵なお言葉ですね」
「でしょう」
マーヤ様は、得意げに笑った。それから、慌てたように私の腕をつかんだ。
「ソフィには言わないで。あの子、自分の見立てが外れたって分かったら、しばらく寝込むから」
「楽しかった、ではなかったのですね」
「全然違うわ」
私たちは、石段の上で、少しだけ笑った。
客間へ戻ると、ソフィ様は窓辺に立って、一通の招待状を手にしていた。金の縁取りの、王宮の封筒だった。夏の終わりの舞踏会は、もうすぐだ。
ソフィ様は、振り向かずに言った。
「お義姉様。わたし、今度は、顔を見るわ」




