殿方というものは、なぜ二度目を申し込まないのでしょうか
ハルステン伯爵家の広間に入ると、扇の陰で、私の名が何度か通り過ぎていった。
「ストランド家の宴で、質問なさった方よ」
「ヴェスティン家の」
「あの晩、侯爵閣下に」
ストランド家の宴から、まだひと月も経っていなかった。王都の夏は、噂を忘れるには短いらしい。
若い殿方たちが、私の前に来ると、さりげなく道を空けた。右へ一歩、左へ一歩。おかげで私と母は、少しも人にぶつからずに壁際まで歩けた。
(皆さま、親切ね)
隣で母が、扇で口元を隠した。隠しても、肩が揺れていた。
「お母様?」
「何でもないわ。いい夜ね」
母は、私が何をするつもりかを、聞かなかった。止めもしなかった。久しぶりに付き添う夜会を、心から楽しんでいる顔だった。
広間の向こうに、ソフィ様がいた。付き添いのエッバ様が、壁際の椅子に座って妹を見ている。ソフィ様は、楽師が一曲目を弾き始める前に、もう申し込まれていた。
一曲目は、背の低い殿方と。二曲目は、別の殿方と。三曲目も、また別の方と。どの方とも楽しそうに笑って、きれいに踊り、きれいに礼をして別れる。そして、次の方が来る。
ソフィ様の言っていたとおりだった。一度目は、皆が申し込む。
私は、三曲のあいだ、壁際で努めた。
三曲目が終わったところで、一曲目にソフィ様と踊った背の低い殿方が、私と母の前を通りかかった。子爵家のご嫡男で、去年、一度だけ父の知り合いの家でご挨拶をしたことがある。
(努めたわ。三曲)
「失礼いたします。一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
殿方は、足を止めた。止めてから、止めなければよかったという顔をした。
「ヴェ、ヴェスティン嬢」
「ソフィ様と、一曲目に踊っていらっしゃいましたね」
「は、はい」
「ソフィ様に、二度目を申し込まれないのはなぜでしょうか」
殿方は、左右を見た。右には母がいて、扇の上から穏やかに微笑んでいた。左は壁だった。
私は、待った。答えが出るまで待つのは、慣れている。
「……二度目を申し込めば」
殿方は、とうとう、ひどく小さな声で言った。
「翌朝、リンドホルム公爵閣下の書斎へ、お許しを願いに伺わねばなりません。王の従兄の書斎です。それに、伺った者の話では、閣下は四半時、一言もおっしゃらないとか」
(ベルティル様のお話かしら)
あの方は、方々の夜会でこのお話をなさっているのかもしれない。あの声なら、どこで話しても広まるだろう。
「なるほど。ありがとうございます。参考になりました」
殿方は、深々と礼をして、逃げるように人の中へ消えていった。母が、私の背中を一度だけ、軽く叩いた。
一つ目は、この前の夕食で見当をつけたとおりだった。
二人目に声をかけたのは、二曲目のお相手だった。顎の細い、落ち着いた話し方の方で、私の質問を聞くと、眉の端を情けなく下げた。
「私は、ストランド家の宴の広間におりました」
「そうでしたか」
「あの晩、侯爵家のご嫡男が、リンドホルム家の五人の妹君に、口をそろえて退けられたのを見ました。……いえ、五人は頷かれただけだと、私は知っています。目の前で見ていましたので」
殿方は、声を落とした。
「ですが、今は、そういう話になっておりまして。リンドホルム家の娘に二度申し込むと、五人そろって品定めをされる。気に入られなければ、広間から叩き出される、と」
(叩き出されては、いらっしゃらなかったわ)
エリアス様は、ご自分の足で、黙って立っておいでだった。叩き出したのは誰でもない。けれど、噂というものは、人の口を渡るうちに形を変える。ソフィ様が、そう言っていた。
あの晩、侯爵閣下に質問したのは、私だ。
(それは、私のせいでは)
「……ありがとうございます。参考になりました」
二人目の方が礼をして離れていくあいだ、私はしばらく、手袋の指先を見ていた。
三人目は、私が声をかける前に、向こうから来た。四曲目のお相手で、金茶色の髪を後ろへ流した方だった。
「ヴェスティン嬢。次の曲を、お願いできますか」
思い切った顔だった。壁際で質問されるより、踊っているほうがましだと思ったのかもしれない。
「喜んで」
私は手を預けた。楽師が五曲目を弾き始め、私たちは広間の真ん中へ出た。
一回りしたところで、私は聞いた。
「ソフィ様に、二度目を申し込まれないのはなぜでしょうか」
殿方の足が、半拍遅れた。
「……踊りながら、お聞きになるのですか」
「はい。そのほうが、お時間を取らせませんので」
殿方は、天井を一度見た。それから、観念したように息を吐いた。
「ソフィ嬢は、踊っているあいだ、いつも私の肩越しに、広間のどなたかを見ておいでなのです」
「肩越しに」
「はい。私と踊っていても、私を見てはいらっしゃらない。私にはお心がないのだと、思っておりました。……二度目を申し込んで、また肩越しに見られたら、と」
曲の終わりまで、その方はもう何も言わなかった。最後の音で礼をすると、来たときよりずっと速い足で離れていった。
壁際に戻ると、近くにいた夫人たちが、そろって扇を広げていた。扇の端から、笑いをこらえる目がいくつも覗いていた。その中に、ハルステン伯爵夫人の目もあった。
エッバ様が、椅子から私を見ていた。目が合うと、エッバ様は、何も言わずに唇の前に指を一本立てた。黙っておく、という意味だと思う。たぶん。
私は、広間を見回した。
五曲目までで、ソフィ様のお相手は五人だった。三人には伺った。残りのうち、もう一人、顔を覚えている方がいた。三曲目の、栗色の髪の、痩せた方。踊るあいだ、ずっと何かを確かめるような顔をしていた。
けれど、その方の姿が、広間のどこにもなかった。
「栗色の髪の方でしたら」
給仕に尋ねると、給仕は玄関のほうを示した。
「先ほど、外套をお受け取りになりました。一曲踊られると、いつもお帰りになる方です」
いつも、と給仕は言った。
帰りの馬車で、母が膝の上で扇を畳んだ。
「それで、収穫は?」
「三つです」
母は、とうとう声を立てて笑った。
翌朝、伯爵家の玄関に、リンドホルム家の紋の付いた馬車が着いた。降りてきたのは、ソフィ様だった。




