閣下の書斎は、怖いものでしょうか
その週の家族の夕食は、テーブルの三か所に、白いナプキンだけが畳んで置かれていた。
マーヤ様と、ニクラス様と、エッバ様の席だ。皆、今ごろは夏の演奏会の客席にいる。
「今ごろ二曲目よ」
ヨンナ様が、窓の外の暮れかけた空を見て言った。
「演奏会の二曲目って、どれくらい長いの?」
「知らないわ。演奏会の客席には、座ったことがないもの」
ソフィ様が答えて、スープの皿を引き寄せた。
閣下の隣の席には、私の名の札が立っていた。料理番が手紙のとおりに整えてくれたのだと、閣下がそれだけ言った。向かいにはカーリン様とサンデル先生、その隣にベルティル様。オッレはエッバ様の代わりに、父君の膝の上に座っている。
先週より三人少ないだけで、食堂はずいぶん広く見えた。それでも、話は相変わらず四方から飛んだ。オッレがパンを父君の皿に一つずつ並べ、ベルティル様が「ありがとう」と言って一つずつ食べている。
スープの皿が下げられたところで、私はナプキンを膝の上で整えた。
ソフィ様が、こちらを見た。ヨンナ様も見た。二人とも、先に肩をすくめた。
「ベルティル様。一つ、教えていただきたいことがあります」
「おう、何でも」
「エッバ様に、二度目の踊りを申し込まれた晩のことを、伺ってもよろしいでしょうか」
ベルティル様の手が、オッレのパンを持ったまま止まった。
閣下が、グラスを置いた。カーリン様が、口元を押さえた。サンデル先生は、なぜか少しだけ椅子を引いた。
「……六年前の、王宮の舞踏会だな」
ベルティル様は、パンを口に入れて、ゆっくり噛んでから話し始めた。
「エッバとは、その晩、一曲目に踊った。で、五曲目にもう一度申し込んだ。断られたらどうしようかと思ったが、エッバは笑って受けてくれた。そこまでは良かった」
「そこまでは」
「次の朝、九時だ。二度目を申し込んだら、翌朝、相手の家の当主のところへ訪問のお許しを願いに行く。リンドホルム家の当主は、もう閣下だった」
ベルティル様は、閣下のほうを、ちらりと見た。
「閣下はまだ若くて、俺より年下だった。俺は書斎の扉を叩いて、名乗って、お許しを願った。閣下は机の向こうに座って、何も言わずに俺を見ていた」
ベルティル様は、大きな手で、自分の首の後ろをさすった。
「どれくらい黙っていたと思う」
「……分かりません」
「四半時だ。時計の針が進むのを、ずっと見ていた。あれほど長い四半時は、後にも先にもない」
ヨンナ様が、テーブルに突っ伏して肩を震わせた。ソフィ様は、扇がないので、手の甲で口を隠している。
「黙っていたのではない」
閣下が、低い声で言った。
「何を聞けばいいのか、分からなかった。妹に申し込みに来た人は、君が初めてだった」
「それで、四半時」
「考えていた」
「俺は、その四半時で、一生分の汗をかいた」
カーリン様が、隣の夫の腕に手を置いた。
「エーミルのときは、もっとひどかったのよ。エーミルは踊れないから、書斎に来るきっかけもなかったの。だからお兄様のほうが先に、自分から植物園まで行って、エーミルの温室の前に長いこと立ってたの。何も言わずに」
サンデル先生が、パンを置いた。
「……あれは、怖かった」
話すのが得意ではない方の、心からの一言だった。
「怖くない」
閣下が言った。
「怖い」
カーリン様と、ソフィ様と、ヨンナ様と、ベルティル様の声が重なった。サンデル先生も、少し遅れて頷いた。オッレだけが、皆の顔を見回して、それから父君の真似をして、大きな声で言った。
「こわい!」
ベルティル様の笑い声が、今夜も天井に当たって跳ね返った。
閣下は、何か言いかけて、やめた。それから私のほうを見た。
「ノーラ。君も、そう思うか」
「私は、書斎の前に立ったことがありませんので」
(分からないことには、答えられないわ)
閣下は、少しほっとした顔をした。それを見て、ヨンナ様が椅子の上で足をばたばたさせた。
笑い声が落ち着いたところで、私は頭の中で、ソフィ様の十二の夜会と、今のお話を並べてみた。
二度目を申し込んだ殿方は、次の朝、当主の書斎の前に立つ。リンドホルム家の当主は閣下で、閣下は、黙って四半時考える方だ。
(殿方は、閣下の書斎が怖い)
それなら、一つの答えになるのかもしれない。
「では、ソフィ様に二度目を申し込まれた方も、次の朝、この家の書斎の前に立つことになるのですね」
食卓が、すっと静かになった。
ソフィ様が、スープの皿のあった場所を見つめた。カーリン様が、妹の顔を見た。ベルティル様は、口を開けかけて、閉じた。
閣下は、ナプキンの端を指でつまんだまま、答えを探しているようだった。四半時ではなかったけれど、短くもなかった。
「……そうなる」
閣下は、それだけ言った。
鴨の皿が運ばれてきて、話は四方へ散っていった。ソフィ様も、いつものように笑って、ヨンナ様のパンを一つ取り上げたりしていた。それでも、そのあとソフィ様が兄君のほうを見ることは、デザートが出るまで一度もなかった。
* * *
帰り際、玄関でソフィ様が、私を柱の陰へ引っぱった。
手に、一通の招待状を持っていた。
「今度、ハルステン伯爵家の夜会があるの。ヴェスティン家にも、たぶん届いてるわ。あそこは、王都に残ってる家に全部出すから」
「はい」
「お義姉様も来るでしょう。だから、先にお願いしておくわ」
ソフィ様は、私の手を両手で握った。
「お願い。殿方に、聞いて回ったりしないでね」
私は、少し考えた。
嘘は言いたくなかった。けれど、まだ何もしていないことを、しないと約束することもできなかった。
「……努めます」
ソフィ様は、私の顔を長いあいだ見ていた。それから、諦めたように手を離した。
帰りの馬車で、マリットは窓の外を見ていた。窓硝子の中のマリットは、笑っていなかった。心配している顔だった。
伯爵家に帰ると、居間の灯りがまだついていた。母が、ソフィ様のと同じ封筒を手にして、私を待っていた。
「ハルステン家から届いたわ。行くでしょう?」
母は、少し楽しそうに言った。
「久しぶりに、私が付き添うわ」




