約束が先だ
「はい」
そう答えたのに、閣下はすぐには聞かなかった。
石段の下で、ニクラス様の馬車の扉が閉まった。御者が手綱を鳴らし、車輪が砂利を噛んで動き出す。マーヤ様は、まだ耳を赤くしたまま、門を出ていく馬車に手を振っていた。エッバ様はその少し後ろで、妹の背中に肩掛けを掛けてやっていた。
「一人っ子のことは、君に聞くと言った」
茶会の帰りと、同じ石段だった。一人っ子のことは、誰に聞けばいい。閣下がそう聞いて、私に、でしょうか、と私は答えた。覚えておく、と閣下は言った。
本当に覚えていらしたのだ。
「だから、聞く。……君は、今夜、楽しかったか」
私は、少し考えた。
(楽しかったかどうかは、誰に聞けば分かるのかしら)
考えるまでもなかった。それを知っているのは、今夜あの食堂でスープを飲んだ私だけだ。
「はい。スープは、今夜は冷めませんでした」
閣下が、喉の奥で笑った。
それから、閣下は声を落とした。後ろの玄関には、妹様たちがまだ揃っている。その誰に向けるときとも違う、低い声だった。
「来週も、来てくれるか。その次も」
来週の夕食も、その次の夕食も。この家の長いテーブルの、閣下の隣の席に。
断る理由は、一つも思いつかなかった。
「お約束します」
「では、それが先だ」
閣下は、それだけ言った。
見送りを終えたマーヤ様が、石段を上がってきた。耳はまだ赤かった。私の横を通り過ぎるとき、マーヤ様は足を止めずに、ほかの誰にも届かない小さな声で言った。
「お義姉様。……あたし、言えた」
それからそのまま、玄関の灯りの中へ入っていった。後ろを歩くエッバ様が、私に小さく片目をつぶってみせた。
玄関の奥から、ヨンナ様の声が飛んできた。
「お兄様、何を話してるの!」
「ヨンナ。寝なさい」
閣下は、玄関のほうを見もせずに言った。ソフィ様が「ほら、行くわよ」とヨンナ様の腕を引く気配がして、玄関の扉が閉まった。
閣下は、公爵家の馬車の扉の前まで、私の手を取って送ってくださった。
帰りの馬車で、マリットは一言も言わなかった。ただ、伯爵家の門をくぐるまで、口の端がずっと上がったままだった。
父には、遅くなると伝えてあった。それでも書斎の窓には、まだ灯りがついていた。
* * *
数日後の朝、鏡台の前でマリットに髪を結ってもらっているときに、ソフィ様から手紙が届いた。
今度の手紙は、前半がほとんどマーヤ様とニクラス様のことだった。
ニクラス様が、マーヤ様を夏の演奏会に誘ったこと。自分から誘ったのは、婚約してから初めてだということ。付き添いはエッバ様で、二人のすぐ後ろの席を取ったこと。演奏会は、来週の家族の夕食と同じ日だということ。
そして、その段落の終わりに、ソフィ様はこう書いていた。
ニクラス様ったら、昨日の晩、わざわざお兄様の書斎まで、来週の夕食を欠くお断りに来たのよ。扉の前で、真面目な顔で「来週は、マーヤ嬢を先にいたします。席次を改めましたので」って。お兄様は「それでいい」って、それだけ。でも、ニクラス様が帰った後、お兄様は書斎で一人で笑ってたわ。廊下まで聞こえたもの。
だから来週の夕食は、マーヤ姉様とニクラス様とエッバ姉様の席が空くの。ベルティル兄様は、オッレを連れて来るって。お義姉様の席だけは空けるなって、お兄様が料理番に言ってたわ。
あの晩、玄関でニクラス様が何と言ったのかは、マーヤ様が誰にも教えないのだという。ヨンナ様が聞き出そうとして、枕を投げられたらしい。ただ、ソフィ様には見立てがあった。
わたしの見立てでは、楽しかった、よ。だってあの人、うちに来るようになってから、一度もそれを言ったことがなかったもの。
読みながら、私は自分の頬がゆるんでいるのに気がついた。鏡の中で、マリットの口の端も上がっていた。
後半の真ん中に、短い段落が一つあった。
ストランド家のこと。侯爵家に出入りの仕立て屋が、旅の外套を仕立てているそうよ。侯爵閣下のと、エリアス様のと。秋の出発の支度が、もう始まっているのね。お義姉様は、聞きたくなかったら読み飛ばしてね。
私は、その段落を一度だけ読んで、次へ進んだ。秋は、まだ先だ。それ以上に知りたいことは、何もなかった。
最後の数行は、いつもの噂を書くときより、少しだけ小さな字になっていた。
お義姉様、次はわたしの番。聞きたいことがあるの。二度目の申し込みが来ない人は、誰に聞けばいいのかしら。
その下の余白に、別の字で一行、書き足してあった。大きくて、右へ傾いた字だった。
ソフィ姉様は気にしてないって言うけど、気にしてます。
私は、ソフィ様の一行と、ヨンナ様の一行を、続けて三度読んだ。
二度目の申し込み、というものが何なのか、私には半分しか分からなかった。私は、社交界に出た年のうちに婚約が決まった。舞踏会で、同じ方からもう一度踊りを申し込まれるのを待ったことは、一度もない。
茶会の日、ソフィ様は、兄の花嫁の品なんて着けて歩いたら、わたしの縁談が来なくなるわ、と言っていた。あのときは、私も冗談だと思って聞いていた。今思えば、冗談だけで言える言葉でもなかったのかもしれない。
(それは、誰に聞けば分かるのかしら)
踊りのことなら、踊る方に聞けばいい。けれど、二度目を申し込まなかった殿方に、一人ずつ理由を伺って回るわけにはいかない。
(……いかないのかしら)
少しだけ真剣に考えてから、私は手紙を畳んだ。
分からないことは、分かる人に聞けばいい。生まれてから、私はそうしてきた。庭のことは庭師に、馬のことは厩番に、兄というものは、妹が五人いる方に。一人っ子のことは、私に。
けれど今度は、自分のためではなかった。
「マリット」
鏡台の前で、私は振り返った。
「リンドホルム家へ伺う支度を」




