兄弟というものは、婚約者に早く帰ってほしいものでしょうか
二度目の家族の夕食の前の日までに、私は二つ、お願いごとを済ませておいた。
一つは、王立図書館の閲覧室で、サンデル先生にした。先生が出してくださった許しで、南の国の蘭の図譜を見せていただいた帰りだ。先生は月光蘭の頁を開いたまま、しばらく黙って考えてから、「話すのは得意ではありませんが」と承知してくださった。
もう一つは、エッバ様への手紙に書いて、ベルティル様へ伝えていただいた。返事はその日のうちに、大きな字で一行だけ届いた。
喜んで。声は小さめにします。
マリットは、返事を読む私の顔を見て、何かを察したらしかった。
「お嬢様。今度は、どなたに何をお尋ねになるのですか」
「皆様に、一つだけ」
マリットは何も言わなかったが、口の端が、諦めたように下がった。顔に出る人なのだ。
* * *
次の週の夕食の日、私はまた、リンドホルム公爵家の食堂にいた。
テーブルには、先週と同じ十人とオッレが着いた。違うのは並びだけだった。ニクラス様の片側には、先週と同じくマーヤ様。もう片側には、先週はエッバ様とオッレのそばにいたベルティル様が座り、向かいにはサンデル先生がいた。
スープが運ばれてくると、また話が四方から飛んだ。
「お義姉様、図譜はどうだった?」
ヨンナ様が、今度は最初から私に聞いた。
「月光蘭の頁に、根の絵まで描いてありました」
「根? 花じゃなくて?」
「根の張り方で、その年に花の開く時刻が分かるのだそうです」
サンデル先生が顔を上げ、そこから先はカーリン様が引き取って、ヨンナ様に根の話をし始めた。私はその隙に、スープを冷める前に飲み終えた。
ニクラス様は、先週と同じだった。聞かれたことにはきちんと答え、ナイフとフォークを揃えて置き、自分からはほとんど話さない。マーヤ様も、先週と同じだった。ほとんど話さない。皿の上の魚を、ずっと同じ大きさに切っていた。
鴨の皿が下げられた。次はデザートだ。
給仕が厨房の扉へ向かうのを見て、私はナプキンを膝から下ろした。
「皆様に、教えていただきたいことがあります」
食卓が、すっと静かになった。
五人の妹様の手が、そろって止まった。茶会の日に、焼き菓子の皿の上で止まったのと同じ止まり方だった。閣下がグラスを置いた。オッレだけが「しーっ」と言って、隣のエッバ様に頭を撫でられた。
「兄弟というものは、妹の婚約者に、早く帰ってほしいものでしょうか」
ニクラス様が、フォークを置いた。いつもと違って、少しだけ斜めだった。
「……ヴェスティン嬢。お答えは、伺わなくても分かる気がいたします」
ニクラス様は、穏やかな声で言った。
「ご兄弟には、ご兄弟のお時間がおありでしょうから」
「あたしから、言っていい?」
マーヤ様だった。ナイフを置いて、隣のニクラス様のほうへ、体ごと向き直った。
「あたしが聞きたいのは、一つだけ。……ニクラスは、帰りたいの?」
ニクラス様は、すぐには答えなかった。
「……いいえ」
「あたしは、帰ってほしくない」
マーヤ様の声は、少しだけ震えて、最後まで止まらなかった。
「毎週、まだいいのにって言いたかった。言ったら、困らせると思って、言わなかった」
ニクラス様は、マーヤ様の顔を見たまま黙っていた。言葉のほうが、追いつかないように見えた。
次に手を挙げたのは、ヨンナ様だった。
「帰ってほしくない! 典礼局のお話、まだ一度も聞いてないもの。陛下の前でくしゃみをしたら、どうなるの?」
「ヨンナ。それは今聞くことじゃないでしょう」
ソフィ様が妹をたしなめてから、こちらへ向き直った。
「わたしも、困らないわ。それに、ニクラス様が来る晩、マーヤ姉様は毎週デザートを半分残すの。皿が下げられる前に、わたしが三週続けてその残りをもらってるのよ」
「ソフィ!」
マーヤ様の耳が赤くなった。ニクラス様が、マーヤ様の横顔を見た。
「エーミルは、初めての晩、誰とも話さないで、ナプキンの裏に蘭の絵を描いていたわ」
カーリン様が、隣の夫を見ながら言った。
「それでも、最後までいた。帰ってほしいなんて、誰も思わなかった」
「根の形を描いていた」
サンデル先生が、小さな声で訂正した。
「うちの人は、初めての晩、ずいぶん遅くまでいたわ」
エッバ様が、オッレの口元を拭きながら言った。
「お兄様が、困った顔で何度も時計を見たのを覚えてる。それでも、帰れとは言わなかった」
五人の答えが出たところで、ベルティル様が咳払いをした。いつもなら天井に跳ね返る声を、ちゃんと小さめにしていた。
「初めての晩はな、五人の名前が一度に覚えられなかった」
ベルティル様は、ニクラス様の肩に大きな手を置いた。
「帰ってから覚え直すわけにもいかんだろう。だから帰らずに、一人ずつ聞き直した。ヨンナには四回聞いた」
「五回よ」
「五回聞いた。気がついたら、夜更けだった」
ベルティル様は、ニクラス様の顔を覗き込んだ。
「この家ではな、早く帰る人より、名前を聞き直す人のほうが好かれる。俺が保証する」
続けて、サンデル先生が口を開いた。話すのは得意ではないと言ったとおり、一言ずつ、確かめるような話し方だった。
「私は、初めての晩、誰にも話しかけられないまま、隅で蘭のことを考えていました。入り方が分からなかった。どこで口を開けばいいのか」
私がスープを冷ました晩に、胸の中で繰り返していた言葉だった。
「そうしたら、ヨンナが来て、それは何の絵かと聞いた。……入ろうとしなくていい。座っていれば、誰かが話しかけてくる家です」
ヨンナ様が、得意げに胸を張った。
私が二人に頼んでいたのは、このお話を、ニクラス様の隣でしていただくことだった。後からこの家に入った人のことは、後から入った人に聞くのが一番早い。
ニクラス様は、ベルティル様の手を肩に載せたまま、テーブルの端から端までを、ゆっくりと見渡した。マーヤ様。ヨンナ様。ソフィ様。カーリン様とサンデル先生。エッバ様と、ベルティル様と、オッレ。最後に、テーブルの奥の閣下のところで、目が止まった。
閣下は、待っていたように口を開いた。
「先に交わした約束が先だ」
温室で、閣下が最初に私にくださった答えだった。
「この夕食に婚約者を招くのは、父と母の頃からの、この家の約束だ。君がマーヤと婚約するより、ずっと前からある。招いた人を、家族の後ろに並ばせる約束はしていない」
閣下は、ニクラス様の隣の、マーヤ様の顔を見た。
「君の席は、マーヤの隣だ。兄弟の後ろではない」
ニクラス様は、斜めに置いたフォークに目を落とした。指でまっすぐに直しかけて、やめた。それから背筋を伸ばし、典礼局の人の声で言った。
「……では、席次を改めます」
一拍置いて、食卓が笑いで揺れた。
ベルティル様の笑い声が、今度こそ天井に当たって跳ね返った。オッレがわけも分からずに手を叩き、エッバ様が「小さめにするんじゃなかったの」と夫の腕を叩いた。マーヤ様は笑いながら、目の端を指で拭っていた。
デザートが運ばれてきた。
ニクラス様は、席を立たなかった。マーヤ様は、自分の皿のデザートを最後の一口まで食べた。ソフィ様が、空になった姉の皿を残念そうに見ていた。
廊下の奥で、鐘が鳴った。
いつもなら、とうにお帰りになっている時刻だ。ヨンナ様が鐘の音に顔を上げ、ニクラス様の席を指さした。
「まだいる!」
「まだいます」
ニクラス様が、大真面目に答えた。
* * *
夜更けの鐘が鳴ってから、ようやく皆が玄関へ下りた。オッレは、ベルティル様の肩の上で眠っていた。
ニクラス様の馬車が、石段の下で待っていた。マーヤ様が見送りに一歩前へ出て、エッバ様がその少し後ろについた。
ニクラス様は石段を下りかけて、振り返り、マーヤ様に何か言った。声が低くて、私のところまでは届かなかった。
ただ、玄関の灯りの下で、マーヤ様の耳の色だけが変わった。根元まで、真っ赤だった。
隣に、閣下が立った。妹様たちの誰にも聞こえない声だった。
「ノーラ。私も、一つ聞いていいか」




