あの人が言わなかったこと(マーヤ視点)
あたしは、「まだいいのに」と言えなかった。
言えばいいのに、言わなかった。おとといも、先週も、その前も。ニクラスが「ご家族のお時間を」と席を立つたびに、口の中まで出てきて、そこで止まる。
理由は分かっている。お兄様の縁談のお相手が、うちから帰っていくのを、あたしは五回見てきた。一人は、庭の木から落ちてきたヨンナを見て帰った。この前の人は、五人の名前が覚えられないと泣いて帰った。ほかの人たちは、礼儀正しく笑って、また伺いますと言って帰った。本当のことは、一人も口にしなかった。口にしないまま、二度と来なかった。
だから、引き止めて困った顔をされるくらいなら、黙って見送るほうがいい。そう決めたつもりはないのに、毎週そうしていた。
あの晩、お義姉様のスープが冷めていくのも、あたしは斜め向かいから見ていた。お義姉様は、ヨンナに真正面から聞かれるまで、一言も話さなかった。困った顔はしていなかった。ただ、どこで口を開けばいいのか分からない人の顔だった。
ニクラスが毎週していたのと、同じ顔だった。
* * *
夕食から間もない午後、ニクラスがうちへ来た。来年の春の婚礼の、招待状の宛名を決める打ち合わせだ。付き添いはエッバ姉様で、客間の窓際に椅子を置き、オッレの上着のほころびを繕っている。
お義姉様にも来てもらった。前の日の朝に、あたしが手紙を書いたのだ。明日の午後、ニクラスが来ます、お義姉様もいらして。理由は書かなかった。お義姉様は、理由を聞き返さずに来た。侍女のマリットを連れて、客間の時計が約束の時刻を打ち終わる前に。
ニクラスは、宛名の下書きを持ってきていた。典礼局の人だから、紙の上の名前は爵位の順にきちんと並んでいる。うちの家族の欄は、お兄様から始まって、エッバ姉様、カーリン姉様と年の順。ソフィとヨンナの下に、一行だけ空けてあった。
「ここは、何を書くの」
「ヴェスティン嬢のお名前です。ただ、ご婚約を表になさるのは秋と伺いましたので、それまではお書きできません」
お義姉様が「お気遣い、ありがとうございます」と頭を下げ、ニクラスも頭を下げた。二人とも、空いた一行のことを、それ以上は何も言わなかった。
宛名の話は、すぐに片づいた。ニクラスが下書きを揃えて鞄にしまいかけたとき、向かいのお義姉様が、すっと背筋を伸ばした。
「ニクラス様。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「はい」
「家族の夕食を、デザートの後にお帰りになるのは、なぜでしょうか」
あたしは息が止まった。窓際で、エッバ姉様の針も止まった。
ニクラスの目が、わずかに大きくなった。あの人は鞄を膝に置き直し、きちんと座り直した。この人は、聞かれたことには正直に答える。だから、あたしは今まで聞けなかったのだ。
「兄弟の時間に、婚約者が割り込むのは、無作法だと思っていました」
一度目を伏せて、言葉を選んでから続けた。
「兄弟というものは、他人の入れない間柄なのでしょう。私は一人っ子なので、分かりませんが」
「典礼局の前例でも、婚礼が済むまでは、婚約者の席は家族の席の後ろです。祝いの席でも、葬儀でも。デザートの後というのは、私なりに、後ろの席へ下がる頃合いのつもりでした」
あたしは、あの人の顔を見ていた。いつもと同じ、きちんとした顔だった。
でも、言わなかったことがあった。下がりたい、とは、一度も言わなかった。
「分かります」
お義姉様が言った。慰めの声ではなかった。本当に分かる、という声だった。
「一人っ子は、兄弟というものを、外から見て想像するしかありません。私も、ずっとそうでした。婚約していた方に、一人っ子の君には分からない、と言われるたびに、そうなのかもしれないと考えていました」
ニクラスの目が、少し動いた。
宴の晩、あの人はあたしの隣で、広間の入口を見ていた。家令がエリアス様とミルテ様の名を呼んだとき、誰より先に、あたしの袖をそっと引いたのはあの人だった。婚約披露の宴では、婚約した二人が並んで最後に入る。妹の手を取って入る前例なんて、典礼局のどの帳面にもないのだと、あとであの人は言っていた。
「でも、分からないので、分かる方に聞きました。答えは、私が思っていたのと違いました」
「……あの晩の、お答えですね」
「はい」
ニクラスは、膝の上の鞄に目を落としたまま、しばらく黙っていた。
「……マーヤ嬢は」
あの人が、あたしの名前を口にした。あたしのほうは見なかった。
「ご家族の時間を、邪魔されたくないのでは」
あたしは、口を開いた。違う、と言えばいい。まだいいのに、と、今ここで言えばいい。
声が出なかった。五回見た背中が、また浮かんだ。
お義姉様は、あたしのほうを見なかった。マーヤ様はどうお考えですか、とも聞かなかった。聞かれていたら、あたしはきっと「そんなことないわ」とだけ言って、そこで終わりにしていた。お義姉様は、それを知っているみたいに、ニクラスのほうだけを向いていた。
「それは、私にも分かりません」
お義姉様は、あっさりと言った。
「兄弟のことは、兄弟に伺うのが一番早いと思います。次の夕食で、ご家族の皆様に伺ってみませんか。ニクラス様の前で」
「……皆様に、ですか」
「はい。私は、温室ではお一人に、茶会では五人に伺いました。宴では、もっと大勢に。次は、この家の皆様に」
窓際で、エッバ姉様が小さく吹き出し、すぐに咳払いでごまかした。
ニクラスは鞄から下書きを出し直して、紙の角を指で揃えた。考えるときの癖だ。婚約してから、あたしが覚えたこの人の癖は、これと、ナイフとフォークを揃えて置くことくらいしかない。
「承知しました。伺います」
* * *
ニクラスが帰るとき、玄関まで送ったのはあたしだけだった。エッバ姉様は、少し後ろを歩いた。付き添いというのは、こういうときに限って足が遅い。
石段の上で、ニクラスが振り返った。
「マーヤ嬢」
「なに」
「あなたが、私に帰ってほしいのだと思っていました。いつも、何も言わないので」
それだけ言って、あの人は一礼し、馬車に乗った。
それは、あたしのほうが聞きたかった。
石段の上に立ったまま、馬車が門を出るのを見ていた。楽しかったとも、また来週とも、あの人は一度も言わなかった。だから、うちが嫌なのだと思っていた。あの人のほうも、何も言わないあたしを見て、同じことを考えていたのだ。毎週、デザートの後に、二人そろって黙っていた。
後ろで、エッバ姉様が繕いかけの上着を畳む音がした。姉様は何も言わずに、先に家の中へ戻っていった。
あたしは、客間へ引き返した。
扉の前で、手が止まった。自分の家の客間の扉を叩くなんて、生まれて初めてだった。
「どうぞ」
お義姉様は、窓辺で帽子のリボンを結んでいるところだった。マリットが、その手元を待っている。
「お義姉様。次の夕食まで、あたし、何をしたらいい?」
お義姉様は、リボンを結び終えてから、こちらを向いた。
「マーヤ様がニクラス様に聞きたいことを、一つだけ決めてください」




