第八章 フェイスアップ
閉店の夜の客が、金の外套を着て帰ってきた。
自動ドアが開く。男が一歩、店の中に踏み込む。入口のマットの上で、つやのある革靴が止まった。
二十日ぶりに見る顔だった。
頬が少しこけている。日に焼けて、目の下の皺が深くなっていた。それでも、あの灰色の作業ジャンパーの男だと、すぐに分かった。
鷺沼さん。
「よう、店長」
彼は外套の襟を指で弾いた。金糸の縫い取りが、蛍光灯の光を跳ね返す。
「生きてたか。しぶといな」
それは、こちらの台詞だった。
懐中電灯と電池とライターと、カップ酒を何本か。それだけを持って、あの最初の夜、彼は闇の中へ出ていった。夜喰いの湧く森へ、迷いのない足取りで。
二度と見ることはないと思っていた。
「いらっしゃいませ」
私はレジの中から、いつもの声で言った。
鷺沼さんは鼻で笑った。
「三年間、毎晩その声を聞かされた。異世界に来てまで聞くとはな」
◇
店の中には、村の人たちが何人かいた。
ドルムさんが、おにぎりの棚の前で固まっていた。フィナさんは、宅配の伝票を手にしたまま入口の脇に身を寄せた。子どもが一人、母親の後ろに隠れた。
金糸の外套を見て、皆が膝を折りかけていた。
「楽にしろ」
鷺沼さんが手を振った。店の中だから、その言葉は村の人たちにも通じたはずだった。それでも誰も、膝を伸ばさなかった。
ティルが、私の横に来て小声で言った。
「客人様です」
「まろうど?」
「暁教会が、神様からの客だと認めた人のことです。王都にお屋敷を持って、教会の御用を務めます。客人様に逆らうのは、教会に逆らうのと同じです」
私は鷺沼さんを見た。
彼は、私たちの話が聞こえていたらしい。口の端を持ち上げて、外套の内側から何かを取り出した。
百円ライターだった。
この店の、レジ横の棚にあったものだ。透明な赤いプラスチック。中の燃料は、もう半分ほどに減っている。
彼は親指でやすりを弾いた。
しゅっ。
小さな炎が立った。
村の人たちが、息をのむ音がした。誰かが小さく祈りの言葉をつぶやいた。
「この国じゃな、火を起こすのに火打ち石を半刻も打つんだよ」
鷺沼さんは炎を消して、ライターを掌の中で転がした。
「指一本で火が出る。それだけで、教会のお偉方が腰を抜かした。暁の神の聖なる火打ちだ、ってな。三つ献上したら、屋敷と御用商人の札をくれた。今、王都の祭壇に飾ってある」
三つ。
最初の夜にノートへ書いた未精算の中身を、私は覚えていた。使い捨てライター、四つ。
「今じゃ、王都に入る灯油は全部、俺を通る」
鷺沼さんは、店の天井を見上げた。
「お前んとこが村に売ってる灯油も、元をたどれば俺の荷だ。知らなかったろ」
知らなかった。
私は、レジの下の仕入れ帳を思い浮かべた。灯油の仕入れ値は、この十日で二度上がっていた。村の人たちは、王都の商人が値を上げたのだと言っていた。
◇
鷺沼さんは、売場をゆっくりと歩きはじめた。
おにぎりの棚。パンの棚。日本から持ってきた商品は、もうほとんど残っていない。代わりに谷米のおにぎりと、村の小麦で三輪さんが焼いた素朴なパンが並んでいる。干し肉もある。灯油の小分けの瓶もある。
菓子の棚の前で、彼は足を止めた。
ティルがいた。
彼女は、残り少ない日本の菓子を一つずつ前に出していた。奥に一つ、二つと残ったものを、手前の列までそろえる。パッケージの正面を、ぴしりと揃える。
フェイスアップ。
私がやっていたのを見て、ティルはいつのまにか覚えていた。今では、私より手が早い。
鷺沼さんは、その手元をしばらく見下ろしていた。
それから、笑った。
「教えたのか。これ」
ティルが、びくりと手を止めた。
「奥がスカスカの棚を前に詰めて、満タンに見せる」
鷺沼さんは、ティルが揃えたばかりの菓子の箱を一つ、指で弾いた。箱が倒れて、後ろの空洞があらわになった。
「お前らの得意技だよな。中身がなくても、正面だけ揃ってりゃ客は騙せる。コンビニってのは、そういう商売だ」
ティルの顔から、血の気が引いた。
私はレジの中から言った。
「違います」
自分でも驚くほど、声が硬かった。
「フェイスアップは、騙すためにやるんじゃありません。お客さんが、何がどこにあるか、ひと目で分かるようにするためです。奥に手を突っ込まなくても取れるように。崩れた棚より、揃った棚のほうが、選ぶ人が迷わない」
「同じことだろ」
「違います。棚の奥に何個あるかは、私が数えて知っています」
私は、バックルームのストアコンピュータで打ち出した在庫表を指さした。
「理論在庫と実在庫。システムの上で、あるはずの数と、実際に数えた数。それを合わせるのが、店の仕事です。正面を揃えるのは、数えたあとです。数えずに揃えたら、それは騙すことになる。でも私は、数えてから揃えています」
鷺沼さんは、しばらく黙っていた。
それから、肩をすくめた。
「数えてから揃える、ね」
彼は、倒した菓子の箱をつまみ上げた。元の場所に戻すかと思った。戻さなかった。
「なら聞くがな、店長。数えた数が合わなかったら、どうする」
私は答えなかった。
答えられなかった。
閉店の夜のことを、彼も私も覚えていた。
鷺沼さんが背を向けたあと、ティルは床に落ちた箱を拾い上げた。
彼女は箱を棚の奥にそっと戻し、指で列を数えた。一つ、二つ、三つ。それから私を振り返った。
「リツさん。この列、三つです」
「うん。三つ」
私は、在庫表の数字を読み上げた。理論在庫も、三つだった。
「ティルの棚は、嘘じゃないよ」
ティルは唇を噛んで、うなずいた。そしてもう一度、三つの箱の正面を、ぴしりと揃えた。
◇
鷺沼さんは、カウンターの前に戻ってきた。
ドルムさんたちが、壁際へ身を引く。鷺沼さんは、それを当然のように見ていた。
「本題だ」
彼は、カウンターに両手をついた。
「閉店の夜の五千円。返してもらおうか」
店の中が、しんとした。
「あの夜、俺は一万円札を出した。この女は電話をしながら受け取って、五千円札だと言い張った。数えたら五千足りなかった。足りなかったのに、この女は自分の財布から五千出して、帳尻を合わせた」
鷺沼さんは、店の中の村人たちを振り返った。
「客の金をくすねて、自腹で埋めてごまかす。そういう店長なんだよ、こいつは」
誰も、何も言わなかった。
ドルムさんが、ちらりと私を見た。フィナさんは目を伏せていた。
私は、自分の指先が冷たくなっていくのを感じていた。
あの夜、ドロアを確かめた。一万円札の仕切りに、新しい札はなかった。五千円札の仕切りに、一枚あった。
確かに、あった。
でも、精算は五千円足りなかった。
なぜ足りなかったのか。私はそれを探さなかった。探す前に、財布から出して埋めた。
「鷺沼様」
私は、声が震えないように息を整えた。
「閉店の夜の件は、原因不明として記録してあります。お客様のお申し出があったことも、書いてあります」
「書いてあるから何だ。払えって言ってんだよ」
「それから」
私は、カウンターの下からノートを出した。最初の夜の頁を開く。
「同じ夜、鷺沼様には未精算の商品がございます。懐中電灯が一つ。単三の乾電池が四パック。使い捨てライターが四つ。カップ酒が三本と、煙草が一箱。合計で、推定八千四百二十円です」
ドルムさんの肩が、小さく揺れた。
ラディカが、バックルームの戸口で口元を押さえていた。
鷺沼さんは、一瞬だけ目を見開いた。
それから、腹の底から笑い出した。
「はは。八千四百二十円。日本円で払えってか、この世界で」
彼は笑いながら、カウンターを指でつついた。
「それにな、あのとき言ったろ。さっきの五千だ、釣りはいらねえって。俺はちゃんと払って出てったんだよ」
「その五千円を、お預かりした記録はございません」
「だから、それがお前の取った五千だって言ってんだ」
「いいえ」
私はノートを閉じた。
「事実を申し上げただけです。相殺しようとも思っていません。五千円のことと、八千四百二十円のことは、別の件ですから」
鷺沼さんの笑いが、止まった。
彼は、私の顔をじっと見た。三年間、毎晩見てきた顔のはずだった。それなのに、初めて見るものを見るような目だった。
「……相変わらず、可愛げがねえな」
◇
彼は外套の内側に手を入れて、革の袋を一つ取り出した。
カウンターの上に置く。重い音がした。袋の口から、金色の縁がのぞいていた。
金貨だった。
ティルが、小さく息をのんだ。村の誰も見たことがないという、金貨。それが、袋いっぱいに詰まっている。
「この店を買う」
鷺沼さんは言った。
「金貨五十枚。この国の村なら、十は買える額だ。店ごと棚ごと、この灯ごと俺が引き取る。お前らは王都で好きに暮らせ。屋敷くらい用意してやる」
「お断りします」
考えるより先に、口が動いていた。
「店は、売り物ではありません」
「店はコンビニだろ。コンビニってのは、何でも売る店だ」
「何でもは売りません。お客さんに必要なものを、必要なときに売る店です」
「必要なものを、必要なときに」
鷺沼さんは、その言葉を舌の上で転がすように繰り返した。
「いい言葉だな。本部の研修で習ったか」
私は黙っていた。
鷺沼さんは、カウンター越しに身を乗り出した。煙草と、知らない香の匂いがした。
「なあ店長。お前は知らねえだろうが、この世界の教会はな、帳簿ってもんを信じてる。神様に毎晩、灯の数を報告して、それで朝をもらってるんだと。笑えるだろ。帳簿で朝が来るんだぜ」
私は笑わなかった。
彼は、それにも気づいたようだった。
「そんな世界でな、俺は客人様だ。教会のお偉方が、俺の言うことなら何でも聞く。ライター一個でだぞ」
彼は、カウンターを指で二度叩いた。
「お客様は神様だろ。お前ら店員は、そう教わったはずだ」
それから、声を低くした。
「この世界じゃな。本当に、神様になれるんだよ」
◇
鷺沼さんが店を出ようとしたとき、三輪さんがバックルームから出てきた。
粉挽き小屋から戻ったばかりなのだろう。手ぬぐいを頭に巻いたまま、手には米の袋を抱えていた。
二人の目が合った。
三輪さんは、何も言わなかった。鷺沼さんも、何も言わなかった。
鷺沼さんの視線が、三輪さんの肩越しに、カウンターの端へ流れた。そこには、今日の定時便の納品伝票の束が置いてあった。灯数の欄に、村ごとの数字が並んでいる。
彼の目が、ほんの一瞬だけ止まった。
「伝票か」
鷺沼さんは、つまらなそうに言った。
「そんなもん、誰も見やしねえよ」
その声に、なぜか、ひどく古いものが混じっている気がした。
三輪さんが、私にだけ聞こえる声で言った。
「店長。あいつの手、見たか。荷を担いできた手だ。指の節が太い」
私は答えなかった。三年間、毎晩レジ越しに向き合ってきたのに、私はあの人の手を一度もちゃんと見たことがなかった。
◇
鷺沼さんは、自動ドアの前で振り返った。
まだ、カウンターの上には金貨の袋が残っていた。
「忘れ物です」
私が言うと、彼は首を振った。
「忘れてねえよ。前金だ」
「前金?」
「店を売らねえなら、それでいい。買うのは、中身にしてやる」
鷺沼さんは、外套の内側から一枚の紙を出した。
教会の紋章の封蝋がついた、厚い紙だった。
彼はそれを、金貨の袋の上に放った。
「来月から、暁教会の分のおにぎり。週に三千個。全部、予約だ」
三千個。
三輪さんの工場は、一日三百個が限界だった。
「受けられるかどうか、検討を」
「検討?」
鷺沼さんは、自動ドアの枠に片手をかけた。
「店長。お前、この店の決まりを知ってんだろ。売るのを断ると、灯が揺れる。村の連中が噂してたぜ」
私の背中を、冷たいものが走った。
「客を断る店は、店じゃねえ」
鷺沼さんは笑った。
その瞬間、天井の蛍光灯が、ほんのわずかに瞬いた気がした。




