第七章 共同配送
荷馬車は、戻ってこなかった。
翌日の昼。店の前に、熊のような男が立っていた。
肩幅が自動ドアの幅とほとんど同じだった。赤茶けたひげが胸まで伸び、片方の耳が半分欠けている。腰に、使い込まれた鞭を巻きつけていた。
「運送ギルドの頭の、バルドさんです」
ティルが小声で言った。
バルドさんは店に入ってこなかった。入口のマットの手前で、腕を組んで立っていた。
「灯の家の主ってのは、あんたか」
ティルの通訳が届く。私はうなずいた。
「ゴードが死んだ」
バルドさんは言った。
「三十年、森を走ってきた御者だ。昨日、東の村からの戻りで日暮れに間に合わなかった。今朝、街道で荷馬車だけ見つかった。馬もいなかった」
私は黙っていた。
「あいつはな、あんたの店の白い三角を、東の村に届けに行ったんだ。村の連中に頼まれてな。一つ銅貨三枚の飯を、往復五時間かけて運んだ」
バルドさんの声は低かった。怒鳴ってはいなかった。
それが余計に重かった。
「責めに来たんじゃねえ。ただ、知っといてもらいたかった」
彼は背を向けかけた。
「待ってください」
私はレジの中から声を上げた。カウンターを出ることはできない。
「バルドさん。少しだけ、話を聞いてもらえませんか」
◇
運送ギルドの荷馬車は、ばらばらに走っていた。
ティルとバルドさんの話を合わせると、こういうことだった。
荷を頼みたい村の者が、ギルドに来て御者を雇う。御者はその荷だけを積んで、その村へ行く。帰りに別の荷があれば積む。なければ空で帰る。出発の時刻は、頼みに来た時刻で決まる。
だから、昼の遅くに頼まれた御者は、遅くに出る。
遅くに出た御者は、日暮れまでに戻れないことがある。
「日本でも、昔は同じだったんです」
私は言った。
昔、コンビニの店には、メーカーごとにトラックが来ていたそうだ。パンの会社のトラック、牛乳の会社のトラック、お菓子の会社のトラック。一日に何十台も来て、そのたびに店員が検品に走った。
それを変えたのが、共同配送だ。
いろいろなメーカーの商品を、一度、物流センターという大きな倉庫に集める。そこで店ごとに仕分けて、一台のトラックにまとめて積む。トラックは決まった順番で、決まった店を回る。
「一台で、全部」
バルドさんがつぶやいた。
「全部です。そして、決まった時刻に着きます」
私はレジ横のメモ用紙を一枚ちぎった。
「定時定ルートといいます。毎日同じ道を同じ順番で、同じ時刻に回る。日本の店では、着く時刻の前後十五分以内に収めるのが決まりでした」
「十五分」
「早すぎても、遅すぎても駄目です。店のほうも、その時刻に合わせて人を用意して待っているので」
バルドさんは鼻で笑った。
「森の道で、十五分だと? ぬかるみ一つで半刻は狂うぞ」
「狂ったら、狂った理由を書きます」
「書いてどうする」
「次の日の時刻表を直します。何度でも」
私は、三輪さんの言葉を思い出していた。水は毎回量れ。合わせて終わりにするな。
「この世界の昼は、四時間半しかありません。その四時間半を、全部の荷馬車が勝手に使ったら、誰かが必ず日暮れに取り残されます。だから時刻を決めます。日が沈む前に、全員が帰ってこられる時刻を」
バルドさんは、長いこと私を見ていた。
それから、入口のマットを、初めて一歩またいだ。
店の中に入った瞬間、彼の目が少し見開かれた。言葉が通じるようになったのだ。
「……あんた、本当にそれをやる気か」
ティルを通さずに、彼の声がまっすぐ届いた。
「はい」
「ギルドの御者は二十人いる。全員、自分の稼ぎ方ってもんを持ってる。決まった道を決まった時刻に走れなんて言ったら、半分は辞める」
「辞めた人の分も、私が考えます」
言ってから、また一人で抱え込む約束をしたと気づいた。
バルドさんは、それには何も言わなかった。
◇
時刻表を作るのに、三晩かかった。
ティルが、周りの村の名前と、そこまでの道のりを一つずつ教えてくれた。歩いて何時間か。荷馬車ならどのくらいか。途中に川はあるか。坂はあるか。雨のあとにぬかるむ場所はどこか。
私はそれを店の裏紙に書き出して、線でつないだ。
近い村から順に回ると、最後の村から帰るまでに日が暮れる。遠い村から先に回ると、朝の積み込みに間に合わない。
結局、二つの輪にした。
北回りが六つの村。南回りが六つの村。合わせて十二の村。どちらも夜明けの九時四十一分に店を出て、十四時に戻る。日没の十四時十九分まで、十九分の余裕がある。
一つの村での荷下ろしは、十分。
「十分で、何ができる」
御者の一人が笑った。バルドさんが集めてくれた五人の御者は、皆、店のガラスの外から中をのぞき込んでいた。
私はラディカに目配せした。
ラディカが、外の言葉で答えた。もう、ずいぶん流暢になっていた。
「荷物は、店で村ごとに分けて積みます。荷台の前から、最初の村の分、次の村の分。だから、下ろすのは自分の村の箱だけです」
「箱を数えるのは」
「村の人と一緒に数えます。数えたら、この紙に二人で印を押します」
ラディカは、私が作った紙を掲げた。
納品伝票。
店から村へ、何をいくつ届けたかを書く紙だ。日本の店では、トラックの運転手が伝票を持ってきて、店員が品物と見比べて検品する。合っていればサインをする。合わなければ、その場で書き直す。届けた側と受け取った側が、同じ紙を見て同じ数を確かめる。
私はその伝票に、一つだけ欄を足していた。
「灯数」。
「これは何だ」
御者の一人が、伝票の端を指でつついた。
私は答えた。
「その村で、昨夜ともっていた灯の数です」
御者たちが顔を見合わせた。
「村の人に、毎晩数えてもらいます。その数を、翌日の伝票に書いてもらう。御者さんは、それを受け取って店まで持ち帰ってください」
「何のために」
「灯油の発注のためです」
それは、半分は本当だった。
灯油は、村から仕入れて小分けにして売っていた。どの村で何晩分の灯油が要るかは、灯の数で決まる。灯の数が分からなければ、発注はただの勘になる。
残りの半分は、言わなかった。
教会の帳面には、ホロ村の灯は六十と書いてある。灯簿には、二十三と書いてある。ほかの村は、どうなのだろう。
「灯なんか数えて、腹が膨れるかよ」
御者たちが笑った。
「腹は膨れません。でも、灯油が足りない村が分かります」
私は伝票を一枚ずつ、彼らに手渡した。
「数えた村には、店から一つ約束します。灯油を、切らさずに届けます」
笑い声が、少しだけ小さくなった。
◇
伝票には、割印を押す欄を作った。
ドルムさんに頼んで、村ごとの小さな木の印を彫ってもらった。村の印と店の印。伝票を二枚重ねて、その境目にまたがるように、村の人が自分の印を押す。一枚は村に残し、一枚は店に持ち帰る。
収納代行と同じ仕組みだ。
二枚を合わせれば、印は一つの形に戻る。どちらか片方だけを、あとから書き換えることはできない。
「こんな面倒なこと、教会の集金人はやらねえぞ」
バルドさんが、出来上がった伝票の束をめくりながら言った。
「教会の集金人は、受け取った証を置いていきません」
私が言うと、バルドさんは一瞬黙った。
「……そうだな。置いていかねえな」
◇
宅配の受付も始めた。
始めたというより、始まってしまった。
荷馬車が決まった時刻に村を回ると知った人たちが、手紙や小さな包みを持ってくるようになったのだ。隣の村に嫁いだ娘へ。南の谷で働く息子へ。
日本のコンビニでも、宅配便を受け付ける。
荷物の三辺の長さを測って、足す。縦と横と高さの合計で、料金が決まる。重さも量る。届け先が遠ければ、そのぶん高くなる。割れ物かどうか、中身を聞いて、伝票に書く。
私は、メジャーを持ってカウンターに立った。
フィナさんが持ってきたのは、羊毛で編んだ小さな靴下だった。南の谷の村に住む、生まれたばかりの姪に送るのだという。
「縦、十二。横、八。高さ、三。足して二十三。一番小さい区分です」
「区分?」
「大きさで、お代が決まります。これなら銅貨一枚」
フィナさんは目を丸くした。
「歩いて行ったら、丸一日かかるのに」
「荷馬車が、ついでに運びます」
私は包みに伝票を貼った。届け先の村の名前と、受け取る人の名前。それから、割印。
フィナさんは、自分の側の半分を、羊毛の袋の一番奥にしまった。灯税の控えと同じ場所だった。
◇
最初の定時便が出たのは、それから五日後の夜明けだった。
九時四十一分。
北回りの荷馬車と南回りの荷馬車が、店の前に並んだ。荷台には三輪さんの工場から運んできたおにぎりの箱と、灯油の小樽と宅配の包みが積まれている。村ごとに縄で仕切ってある。
御者は、バルドさんが選んだ二人だった。北回りは年配のオスカさん。南回りは、まだ二十歳にもならないケトくん。
「行ってまいります」
ケトくんが言った。ラディカが教えた日本式の挨拶だった。
荷馬車が、森の道へ消えていった。
私はレジに立ったまま、壁の時計を見続けた。
十四時。
北回りが戻ってきた。予定どおりだった。オスカさんが、伝票の束を私に渡した。六つの村の割印が、きれいに並んでいた。
灯数の欄に、六つの数字が書いてあった。
十九。三十一。十四。二十六。九。二十二。
十四時五分。
十四時十分。
南回りが、まだ戻らない。
十四時十五分。空が、橙色に沈みはじめた。森の縁で、影がゆらりと立ち上がった。
私はカウンターの縁を握りしめていた。
十四時十七分。
森の奥から、車輪の音がした。
ケトくんの荷馬車が、ほとんど転がるようにして店の前の光の中に飛び込んできた。馬が泡を吹いていた。荷台の後ろの板に、黒い爪の跡のようなものが三本ついていた。
二分。
あと二分で、日が沈んでいた。
◇
南回りの最後の村で、ケトくんは村人たちに取り囲まれたそうだ。
「遅い、何をしていた、と怒鳴られました」
その夜、店のバックルームで、ケトくんは膝を抱えて座っていた。震えはまだ止まっていなかった。
「十五分も遅れて、待たせたって。村の人の言うとおりです。俺が遅れたから」
バルドさんが、腕を組んで彼の前に立っていた。
「ケト。どこで遅れた」
「……分かりません。急いだんです。でも、最初の村に着いたときには、もう遅れてて」
最初の村で、もう遅れていた。
私は、カウンターの下から納品日誌を出した。
日本から持ってきた、閉店の夜の日誌の続きだ。表紙には、まだ店の名前が書いてある。
今朝の頁を開く。
九時四十一分 北回り 出発。
九時五十八分 南回り 出発。
その横に、私自身の字で小さく書いてあった。
『南回り 積み込み遅れ。店長、おにぎりの数を検品し直し』
私だった。
今朝、南回りの箱を積む直前に、私はおにぎりの数が気になった。三輪さんの工場から届いた数と、伝票の数。合っているはずだった。それでも、自分の目で数えないと気が済まなかった。
箱を全部開けて、数え直した。
十七分かかった。
数は、合っていた。
私はボールペンを取って、その日の欄の続きに書いた。
『十四時十七分 南回り 帰着。予定より十七分遅れ。原因 店の積み込み遅れ(店長の検品やり直し)。御者に責なし』
そして、ケトくんの前に日誌を置いた。
「読めないと思うけど」
ラディカが、それを声に出して読み上げた。店の中なら、声にすれば言葉は届く。
ケトくんが顔を上げた。
「遅らせたのは、店長の私です。ケトくんは、遅れて出発したのに、それ以上一分も遅れなかった」
「……でも、村の人は」
「明日の便で、村に手紙を届けてもらいます。遅れたのは店のせいだと、私が書きます」
ケトくんは何か言おうとして、言葉にならなかった。
バルドさんが、日誌をのぞき込んでいた。字は読めないはずだった。それでも彼は、最後の一行の上に、太い指を置いた。
「これは、何て書いてある」
「御者に責なし、です」
バルドさんの指が、そこで止まった。
「……ギルドを三十年やってきた」
彼の声が、少しかすれた。
「荷が遅れりゃ、御者のせいだった。荷が足りなきゃ、御者のせいだった。御者が闇に呑まれりゃ、運が悪かった。それで終わりだった。誰も、何が遅れたのかなんて書かなかった」
バルドさんは、日誌から指を離した。
それから、私に向かって、ゆっくりと頭を下げた。
ケトくんも、慌てて頭を下げた。
バックルームの戸口で見ていたオスカさんも、同じように頭を下げていた。
私は、どうしていいか分からなかった。
閉店の夜、私はこの日誌に同じ言葉を書いた。誰に言われたわけでもない。遅れたとき、人は運んできた人を責める。運んできた人が、一番遅れを知らないのに。
その言葉が、異世界で、初めて誰かに読まれた。
◇
それから一週間で、定時便は十二の村に根を下ろした。
遅れは、毎日のように出た。ぬかるみ。倒木。村の荷下ろしの手間取り。そのたびに私は日誌に原因を書き、翌日の時刻表を五分ずつ直した。
七日目には、どちらの便も前後十五分の内に戻ってくるようになった。
伝票の束が、毎日店に届く。灯数の欄の数字を、私は夜のうちに表に写した。ティルが、それを横から見ていた。
ある夜、プリンターが鳴った。
【本夜の長さ 十九時間十五分】
「縮んでる」
ティルが、私の袖を引いた。
「最初の夜より、七分も短いです。灯油が届いた村で、灯が増えたから」
七分。
たった七分。それでも、ティルの目は濡れていた。
◇
その翌日の昼過ぎだった。
南回りの便が戻るより先に、聞き慣れない車輪の音が森の道から近づいてきた。
ギルドの荷馬車ではなかった。
黒塗りの、四頭立ての箱馬車だった。扉に、金色の紋章が描かれている。昇る太陽を半分に切った形。暁教会の紋章だった。そしてその下に、もう一つ。王冠の形をした、知らない紋章。
「王都の、紋章です」
ティルの声が、かすかに震えた。
馬車が、店の真ん前で止まった。
御者が飛び降りて、扉を開ける。
中から、一人の男が降りてきた。足元から先に、つややかな革の靴が見えた。それから、金糸で縫い取りのある長い外套の裾。
男は、自動ドアの前で立ち止まった。
ガラス越しに、店の中をゆっくりと見回す。棚を見て、天井の蛍光灯を見て、最後にカウンターの中の私を見た。
それから、口の端を持ち上げて言った。
「店長を出せ」
その声を、私は知っていた。




