第六章 連続炊飯
米が、尽きた。
四日目の昼だった。最後の一個のおにぎりを、子どもを連れた母親が買っていった。
私はスキャナーを置いて、空になった棚を見た。
米飯の棚は、コンビニの顔だ。入口から一番よく見える場所に、一番売れるものを置く。そこが空いていると、お客さんは店そのものが空っぽだと感じる。
欠品という。
売れるはずのものが棚にない状態のことだ。欠品は、その一個の売上を失うだけでは済まない。「あそこに行っても、ないかもしれない」と思われる。その思いが、次の来店を一回ずつ削っていく。
午後になると、案の定だった。
「白い三角は」
入口で聞いて、棚を見て、黙って帰っていく人が何人もいた。子どもが母親の袖を引っぱって、空の棚を指さしていた。
三輪さんは、その棚の前に一時間ほど立っていた。
腕を組んで、何も言わなかった。私が品出しのついでに横を通っても、目だけで棚の奥を見ていた。
「三輪さん」
「店長。米を探してくる」
三輪さんは腕をほどいた。
「ティルを借りるぞ。外じゃ言葉が通じねえ」
◇
最初の納付は、ドルムさんとティルが荷馬車で運んでくれた。
ミルデの出張所は銀貨を数え、乾いた受取を一枚だけ寄越したそうだ。先月払ったはずのホロ村の分については「調べる」と言ったきりだった。灯の数が六十と書かれていることも、ティルは口にできなかったという。
「言ったら、村ごと睨まれます」
ティルは小さな声でそう言った。私はノートの余白に、二つの数字を並べて書いた。『教会 六十』『灯簿 二十三』。
米が尽きたその日の午後、三輪さんとティルは森の南へ出かけていった。
戻ってきたのは、日が暮れる直前だった。
三輪さんは、麻袋を一つ肩に担いでいた。中身をカウンターの上に少しだけ空ける。
灰色がかった、小さな粒だった。
日本の米より一回り小さく、丸い。殻のついたものがまだ混じっている。指でつまむと、硬い。
「谷米っていうそうだ」
三輪さんが言った。
「南の谷の村で作ってる。この辺じゃ、家畜の餌か、病人の粥くらいにしか使わねえらしい」
「食べられるんですか」
「炊いてみなきゃ分からん」
三輪さんは一粒を前歯で割った。しばらく噛んで、目を細めた。
「でも、こいつは米だ。三十年触ってきた手が、そう言ってる」
◇
炊く場所は、村はずれの粉挽き小屋になった。
水車が回っていて、小川の水が引き込まれている。粉を挽く石臼の横に、ドルムさんが大きな鉄の釜を据えてくれた。
翌朝。夜明けの九時四十一分に、三輪さんの作業が始まった。
私は店のレジから離れられない。だから様子は、昼過ぎに店へ戻ってきたラディカから聞いた。ラディカはもう、村の言葉で簡単な指示くらいは出せるようになっていた。ティルのほうも、私の国の言葉を驚くほどの早さで覚えていった。灯守りの家の子は、数と言葉を覚えるのが仕事なのだという。店の外でも、ゆっくり話せば短い言葉なら通じるようになっていた。
「一釜目、芯が残りました」
ラディカは口元を押さえた。笑いをこらえているのではなく、思い出して困っている顔だった。
「三輪さん、一口食べて、何も言わないで釜をひっくり返しました。村の人たちがびっくりしてました」
炊飯は、米と水と火の掛け算だ。
三輪さんがいた弁当工場の炊飯ラインでは、まず米を洗う。洗米という。次に水に浸けて、芯まで水を吸わせる。浸漬という。それから米の重さに合わせて水を足す。加水という。最後に炊いて、蒸らす。
ここで一番難しいのが、水の量だった。
米は銘柄によって水の吸い方が違う。同じ銘柄でも、新米と古米で違う。同じ日の米でも、朝と夕方で水の温度が違えば、吸う量が変わる。だから炊飯ラインでは、釜ごとに水の量を量り直す。前の釜でうまくいった量を、そのまま次に使わない。
「谷の水は硬いそうです。石の味がするって、ティルが」
「硬い水だと、米が水を吸いにくい」
「三輪さんもそう言ってました。だから二釜目は、浸ける時間を倍にして、水を増やしたんです」
「それで?」
「焦げました」
ラディカは、とうとう少しだけ笑った。
「水を増やしたぶん、火を強くしたら、底が真っ黒に。小屋じゅう焦げた匂いで、ドルムさんがくしゃみを十回しました」
◇
三輪さんが店に戻ってきたのは、その日の夕方だった。
手に、小さな木の椀を持っていた。上に布がかかっている。
「三釜目だ」
カウンターに椀を置く。布を取ると、白い湯気がふわりと上がった。
灰色だった粒が、白く炊き上がっていた。日本の米より少し黄色みがあって、粒が立っている。釜の底のほうから掬ったらしく、薄い茶色のおこげが端に混じっていた。
私は箸でひとつまみ取って、口に入れた。
噛む。
最初は硬いかと思った。でも二度、三度と噛むうちに、粒がほどけていく。奥から甘さが出てくる。日本の米とは違う甘さだった。木の実のような、少し香ばしい甘さ。
「……おいしい」
「だろう」
三輪さんは、それだけ言った。
でも私は、三輪さんの指先が細かく震えているのを見た。釜の熱で赤くなった手の甲に、小さな火ぶくれが二つできていた。
「水は、どうやって決めたんですか」
「量った」
三輪さんは、椀の布を畳みながら言った。
「浸ける前と後で、米の重さを量る。どれだけ水を吸ったか分かる。それで足す水を決める。釜ごとに、毎回だ」
「毎回」
「谷の水は、朝と昼で温度が違う。米も袋ごとに乾き方が違う。一回うまくいったからって、その量で終わりにしたら、次の釜で必ずしくじる」
三輪さんは私の目を見た。
「水は毎回量れ。合わせて終わりにするな。工場で、新入りに最初に教えることだ」
なぜか、その言葉が胸の奥に引っかかった。
合わせて終わりにするな。
私は毎晩、レジを締めている。理論値と実際の現金を合わせて、合ったら終わりにする。合わなかったら、自分の財布で合わせて、終わりにする。
それは、量ったことになるのだろうか。
「店長?」
「……いえ。何でもないです」
私はノートを閉じたまま、カウンターの下に戻した。
◇
炊けても、まだ売れなかった。
「冷ますのが問題だ」
三輪さんは、店の裏紙に図を描いて説明した。
炊きたての米は熱い。そのまま置いておくと、ゆっくり冷めていく。そのゆっくりの間に、菌が増える。米飯の工場では、炊き上がった米を広げて風を当て、一気に温度を下げる。急速冷却という。
下げすぎてもいけない。
米は冷蔵庫に入れると硬くなる。だから日本のコンビニのおにぎりは、冷蔵ではなく二十度前後の「定温」で作られ、定温で運ばれ、定温の棚に並ぶ。閉店の夜、私が待っていた定温便も、そのための便だった。
「一気に冷まして、そのあと二十度で止める。それができる道具が、ここにはねえ」
答えを持ってきたのは、ティルだった。
「グラシアさんなら、できるかもしれません」
グラシアさんは、ホロ村の外れに一人で住む老婆だった。温かいものを冷やし、冷たいものを温める魔術を使う。村では、病人の熱を下げたり、乳を腐らせないようにしたりするのが仕事だそうだ。
「ただ、気難しくて」
「お代は、払います」
「お代の話じゃないんです」
ティルは困った顔をした。
翌日の昼、グラシアさんが店に来た。
腰の曲がった小さな人だった。白い髪をひっつめにして、目だけがやけに鋭い。店に入るなり、天井の蛍光灯を見上げて鼻を鳴らした。
「眩しいね。目に悪い」
それから、カウンターの私をじろりと見た。
「米を冷ませって? あたしの術は、人のためのもんだよ。食い物のために使うもんじゃない」
「食べ物は、人のためのものです」
私は言った。
「冷まさずに置いた米を食べたら、人はお腹を壊します。小さい子どもや、お年寄りは、それで死ぬこともあります。冷ますのは、人のためです」
グラシアさんは、しばらく黙って私を見ていた。
それから、ふん、とまた鼻を鳴らした。
「口の減らない娘だね。四十近いんだろ、あんた」
「三十九です」
「娘だよ、あたしから見りゃ」
三輪さんが、炊き上がったばかりの四釜目の米を板ごと店へ運び込んできた。広い木の板に、湯気の立つ米が薄く広げられている。グラシアさんは、その前に立った。
彼女は、両手をその上にかざした。
ふう、と細く長く息を吐く。
湯気が、すうっと引いた。板の上の米の表面から、熱が吸い取られていくのが見えるようだった。三輪さんが温度計を差し込む。店から持ち出した、調理用の針の温度計だ。
針が、見る見る下がる。
六十度。四十度。三十度。
「止めてくれ」
三輪さんの声に、グラシアさんが手を止めた。
二十一度。
「……ここで、ずっと止めておけるか」
「一晩くらいならね」
グラシアさんは、板の端の米をひとつまみ取って口に入れた。噛んで、少し首をかしげた。
「冷めても、まずくならない米だね」
「谷米は、粒がしっかりしてる。冷めても締まりすぎねえ」
「ふん。あんたの手がいいんだろうさ」
三輪さんが、少し照れたように鼻の頭をかいた。
◇
三輪さんは、粉挽き小屋を工場に作り変えた。
まず、入口に水桶を置いた。中に入る前に、全員が手を洗う。指の間と爪の先と、手首まで。
次に、髪を布で覆わせた。村の女性たちは笑ったが、三輪さんが自分の白髪を手ぬぐいで包んで見せると、黙って従った。
「髪の毛一本が、おにぎりに入ったらどうなる」
ラディカが通訳する。
「食った客は、二度と買わねえ。一本で、店が終わる」
厨房には、もう一つ問題があった。
油だ。
村から買った獣脂で、からあげを揚げるようになっていた。釜を洗った水も、揚げ物の鍋を洗った水も、小屋の裏の小川に流れる。三日で、川下の洗い場に白い膜が浮いた。フィナさんの羊が、その水を飲まなくなった。
私は、日本の店の厨房の床下にあった箱を思い出した。
グリストラップという。
飲食店やコンビニの厨房の排水は、そのまま下水に流さない。床下の三つに仕切られた槽を通す。一つ目の槽では、カゴで食べかすを受ける。二つ目の槽では、水より軽い油が浮き上がって溜まる。三つ目の槽で、残りの汚れを沈めてから外へ流す。溜まった油と泥は、月に一度、業者が吸い取りにくる。
夜中の掃除で、私が一番嫌いな仕事だった。
「三つの箱に分けて流せば、油を止められます。でも、溜まった油の捨て場所が」
私が説明すると、ティルが手を叩いた。
「沼スライムです」
「沼?」
「森の沼に住んでる、透明でぷるぷるしたのです。脂が大好物で、獣の死骸の脂だけ食べて、骨はきれいに残すんです」
三日後。小屋の裏に、ドルムさんが掘った三つの穴が並んだ。
一つ目の穴に、編んだ籠。二つ目の穴は、板で仕切って油を浮かせる。三つ目の穴には、ティルが桶で運んできた拳くらいの透明な塊が三匹、ぷかりと浮いていた。
店に戻ってきたラディカは、穴をのぞき込んだときの顔のまま言った。
「かわいい……」
「かわいくない。仕事してもらうんだから」
そう言いながら、私も少しかわいいと思った。
二つ目の穴から流れ込んだ油の筋に、スライムがのそのそと寄っていく。触れたところから、油の膜がすうっと消えたそうだ。
その週のうちに、川下の白い膜はなくなった。フィナさんの羊が、また水を飲むようになった。
◇
谷米のおにぎりが棚に並んだのは、この世界に来て九日目の朝だった。
具は、焼いた川魚の身を塩でほぐしたもの。店の調味料の棚に残っていた醤油を、ほんの少しだけ垂らした。海苔はない。代わりに、フィナさんが教えてくれた川の岩苔を薄く干して、火であぶったものを巻いた。
一つ、銅貨三枚。
ラベルも作った。ティルがこの国の字で書いた品名の下に、私が日本語で小さく書き添える。
『谷米の塩むすび 川魚』
そしてもう一行。製造日と、販売期限。
「期限、ですか」
ティルが首をかしげた。
「いつまでなら安全に食べられるか、を書くの。それを過ぎたら、棚から下ろす」
「もったいない」
「もったいなくても、下ろす。それを決めておかないと、お客さんを守れない」
ティルは少し考えて、うなずいた。
開店の九時四十一分。
入口の前には、もう人が並んでいた。昨日のうちに、ドルムさんが村じゅうに触れ回ったらしい。
六十個のおにぎりは、一時間で棚から消えた。
最初の一個を買ったのは、やはりドルムさんだった。カウンターの前で、包みを開いて一口かじる。
パリッ。
小さな音だった。日本の海苔ほど派手ではない。それでも、確かに鳴った。
ドルムさんは目を閉じて噛んでいた。
「……谷米って、こんな味だったのか」
隣でフィナさんが、自分の分を両手で包むように持っていた。
「冷たいのに、ご飯の匂いがする」
子どもたちは、岩苔をはがして先に食べ、それから米を食べていた。食べ方を教えようとしたラディカを、三輪さんが止めた。
「好きに食わせとけ」
三輪さんは、空になった棚を見ていた。
一時間前まで、自分の手で握ったおにぎりが並んでいた棚だ。
その横顔を見て、私は何も言えなかった。三十年、工場で何千万個も炊いてきた人だ。その一つ一つを、誰が食べたのか、この人はたぶん一度も見たことがなかった。
◇
その夜、三輪さんはバックルームの椅子に座って、手の火ぶくれに軟膏を塗っていた。
私は精算を終えて、ノートに『違算なし』と書いたところだった。
「店長」
「はい」
「一日三百個が限界だ」
三輪さんは、軟膏の蓋を閉めた。
「釜をもう二つ据えりゃ、炊くのはできる。グラシアの婆さんも、毎日来てくれるそうだ。手伝いの女衆も、手洗いを覚えた」
「じゃあ」
「問題は、運ぶ手だ」
三輪さんは、ガラスの向こうの闇を顎で指した。
「今日、隣の村から来た男がいた。歩いて一時間半かかったそうだ。買って、帰る。それで昼の四時間半を使い切る。もっと遠い村の連中は、そもそも来られねえ」
私は、ノートの余白を思い出した。『運搬 未定』。
「それにな。今日の夕方、店の前で聞いた」
三輪さんの声が、少しだけ低くなった。
「東の村の荷馬車が一台、戻ってこねえらしい。運送ギルドの御者だ。日暮れまでに森を抜けられなかった」
夜喰いは、灯のない場所に湧く。
日暮れに間に合わなかった荷馬車が、どうなるのか。私はもう知っていた。
「三百個炊いても、届かなきゃ炊かねえのと同じだ」
三輪さんは立ち上がって、手ぬぐいを頭に巻き直した。明日も夜明けから炊くつもりなのだ。
「昼は、四時間半しかねえぞ。店長」




