第五章 収納代行
「三百年分、ですか」
私は聞き返した。
徴税吏は眉一つ動かさなかった。帳面の頁をめくり、指で一行をなぞる。
「灯一つにつき、年に銀貨一枚。三百年で銀貨三百枚。金貨にして三十枚だ」
金貨は、村の誰も見たことがないとティルが言っていた。それが三十枚。
店の前に集まった村の人たちが、ざわめいた。ドルムさんが低くうなる。フィナさんは羊毛の袋を胸に抱き直した。
私はカウンターの中で、一度だけ深く息を吸った。
クレーム対応の基本は、相手の言葉を遮らないこと。最後まで聞いてから、根拠を確認すること。三年間、毎晩鷺沼さんで鍛えられてきた。
「確認させてください。この灯は、ついこのあいだともったばかりです。三百年分というのは、どういう決まりに基づいていますか」
ティルが私の言葉を通訳する。徴税吏の目が、少しだけ細くなった。
「教会の帳簿に、この地の灯は記されておらん。記されておらぬ灯は、いつからともっていたか分からぬ。分からぬ以上、最も古く見積もる」
「では、この灯がいつからともっているか分かる記録があれば、そこから計算していただけますか」
「そんな記録があればな」
「あります」
私はティルを見た。ティルは一瞬きょとんとして、それから腰の革袋に手を伸ばした。
灯簿。
ティルは紐で綴じた紙の束を、両手で差し出した。三日前の頁を開く。そこには、彼女の字でこう書いてあった。
『森の上に、大きな白い灯がともる。今まで見たことがない』
その前の晩までの頁には、そんな記述は一つもない。
徴税吏は灯簿を見下ろした。それから、ティルの顔を見た。
「灯守りの家の娘か」
「はい」
「灯守りは、三百年前になくなった」
「記録は、なくなっていません」
ティルの声は、少しだけ震えていた。それでも、目を逸らさなかった。
徴税吏はしばらく黙っていた。やがて帳面に何かを書き足し、乾いた声で言った。
「よかろう。この灯は、三日前からのものとする。今季の分だけ納めよ」
背後で、村の人たちが息を吐く音がした。
ティルは灯簿を胸に抱いて、私を見上げた。頬が赤くなっていた。
◇
ところが、徴税吏の用事はそれで終わりではなかった。
彼は店から村の人たちのほうへ向き直り、帳面の別の頁を開いた。
「ホロ村。今季の灯税が未納だ。期日を過ぎたゆえ、倍額を納めよ」
ざわめきが、怒りの声に変わった。
「払った!」
ドルムさんが一歩前に出た。丸太のような腕が震えていた。
「先月、集金人が来た。村の全員で出し合って、銀貨を渡した。わしがこの手で渡したんだ」
「記録にない」
「記録にないって、あんたらの集金人だろうが」
「受領の証は」
ドルムさんが口を閉じた。
「証を持っておらぬなら、払ったことにはならん。倍額を、次の満月までに」
徴税吏はそれだけ言って、帳面を閉じた。
私はカウンターの中で、指を握りしめていた。
受領の証。
払った証拠がなければ、払ったことにはならない。
その理屈を、私は知っていた。知りすぎるほど知っていた。
二十六年前、母が解雇された夜。この店で、お客様から預かった公共料金の控えが一枚なくなった。その一枚がなかったせいで、お客様は払ったことを証明できなくなった。母は、その一枚を盗んだと疑われた。
紙一枚。
紙一枚で、人は疑われる。
「すみません」
私は徴税吏を呼び止めた。
「灯税を、この店でお預かりすることはできますか」
◇
コンビニには、収納代行という仕事がある。
電気代やガス代に水道代。税金に通信販売の代金。お客さんが払込票を持ってきて、レジで現金を払う。店はそのお金を預かり、まとめて本部へ送る。本部から代行会社へ、代行会社から電力会社やガス会社へ。そうやってお金が届いて、初めて「支払い済み」になる。
店にとって、それは売上ではない。預かり金だ。手数料はほんのわずかで、一円でも間違えれば大問題になる。
だから、手順は厳しい。
払込票を確かめ、金額をお客さんと一緒に目で確認し、現金を受け取る。それから、払込票の真ん中に日付入りのスタンプを押す。
検印という。
この検印は、半分ずつ二枚の紙にまたがるように押す。割印だ。押したあと、紙を真ん中のミシン目で切り離す。片方は領収書として、お客さんに渡す。もう片方は受領証として、店で保管する。
二枚を合わせれば、印が一つの円に戻る。
片方だけを偽って作ることは、できない。
「村の人たちが払った灯税は、この店で受け取ります。一人ずつ、受け取った証を渡します。集めたお金は、名前と金額の一覧と一緒に、店から教会へまとめて納めます」
ティルの通訳を聞きながら、徴税吏は眉をひそめた。
「なぜ、そんな手間をかける」
「手間は、店が引き受けます。あなたは村を回らずに済みます」
徴税吏の顔に、初めて考える色が浮かんだ。
北の外れの村々は、森の中に点々と散らばっているという。昼が四時間半しかないこの世界で、それを一つずつ回るのは、命がけの仕事なのだろう。
「……教会の出張所は、南のミルデの町にある。毎週、そこへ納めに来い。一枚でも金が足りなければ、お前の首が飛ぶと思え」
「一枚でも足りなければ、店が補填します」
言ってから、しまったと思った。また、自分で埋める約束をした。
でも徴税吏は、それでうなずいた。
◇
検印を作るのに、二日かかった。
ドルムさんは、村一番の木彫り職人だった。私が日本の検印を見せると、彼は太い指で丁寧にそれを裏返し、刻まれた溝を爪でなぞった。
「同じものを、この国の字で作ればいいんだな」
円の中に、店の名前と日付を入れる。日付は暁教会の暦で、毎日差し替えられるように、数字の部分だけを小さな木の駒にした。
払込票も作った。
村の紙は茶色くて厚い。それを半分に折り、折り目に沿って針で細かく穴を開ける。ミシン目の代わりだ。左側が「お客様控え」、右側が「店舗控え」。ティルが両方に、この国の字で見出しを書いてくれた。
最初に灯税を払いに来たのは、フィナさんだった。
銀貨一枚を、カウンターに置く。
私は払込票の両側に、彼女の名前と金額を書いた。
「金額をご確認ください。銀貨一枚。お間違いありませんか」
ティルが通訳すると、フィナさんはうなずいた。
私は検印に朱肉をつけた。
折り目の上に、まっすぐ押す。
ぎゅっ。
赤い円が、二枚の紙にまたがった。
針の穴に沿って、ゆっくりと切り離す。ぴりぴりと、紙が小さく鳴った。
半分の円を、フィナさんに。
「こちら、お客様控えです。大切に保管してください。もし何かあったら、これが払った証拠になります」
フィナさんは赤い半円を見つめていた。紙の端を指でなぞり、それから羊毛の袋の一番奥にしまった。
もう半分の円は、その場でバインダーに綴じた。
「すぐしまうんですか」
ラディカが聞いた。
「すぐしまう。受け取った控えは、その場で保管。カウンターに置きっぱなしにしない。それが鉄則」
私はバインダーの留め具を、かちりと閉じた。
「預かった控えを一枚なくしただけで、人は疑われるから」
ラディカは、それ以上聞かなかった。
列は、日が暮れるまで続いた。
ドルムさんが、ホロ村の全員分の灯税を集めて持ってきた。倍額ではない。今季の正しい額だ。徴税吏は「次の満月までに倍額」と言ったが、ドルムさんたちは先月すでに払っている。その分の証がないのは、村のせいではない。
私は、先月払った分の扱いをミルデの出張所で必ず確かめると約束した。そして今季の分を受け取り、一人ずつ控えを渡した。
赤い半円が、村の人たちの手から手へ渡っていった。
◇
日が落ちる少し前、三輪さんがバインダーを指で叩いた。
「店長。これ、ミルデまで誰が運ぶ」
「私が」
「レジはどうする。店長がいなきゃ灯が消えるかもしれねえって、自分で書いてただろう」
私は言葉に詰まった。
レジに人。棚に商品。扉が開いている。レジに立つのが私でなければいけないとは、どこにも書いていない。それでも私は、この三日間、一度もドロアから手を離していなかった。
「ミルデまでは、荷馬車で半日だそうです」
ティルが言った。
「村の人に頼めば、乗せてもらえます」
「預かり金を、他人の荷馬車に乗せるのか」
三輪さんの声は、責めるようではなかった。ただ確かめる声だった。
「……考えます」
私はそう答えて、ノートの余白に小さく書いた。『運搬 未定』。
そのとき頭に浮かんだのは、日本の店の裏口だった。毎晩決まった時刻にトラックが入ってくる。運転手がオリコンと呼ばれる折りたたみの箱を下ろし、空いた箱を積んで帰っていく。
お金も品物も、店から外へ出るときは、誰かが運んでいた。
その誰かの顔を、私は三年間ちゃんと見ていただろうか。
フィナさんが帰り際に、カウンターの前で足を止めた。羊毛の袋の奥から、さっきの半円を出して私に見せる。
「なくしたら、どうなりますか」
「店に、もう半分があります。合わせれば、払ったことは証明できます」
「では、店がなくしたら」
私は答えるのに、一秒かかった。
「店は、なくしません」
フィナさんは小さくうなずいて、半円をまた袋の奥へしまった。
その一秒のあいだに、私は二十六年前の夜のことを考えていた。
子どもが、自分の家の控えを光にかざしていた。半分の円。それだけのものを、宝物のように。
◇
その夜、ティルは店の窓辺に座って、村の方角の灯を数えていた。
私はレジに立ったまま、彼女の背中を見ていた。
数え終わると、ティルは灯簿に数字を書きつけた。それから、ふと顔を上げた。
「リツさん。このあいだ、灯簿が役に立ちました」
「うん。ティルのおかげで、三百年分が三日分になった」
「初めてです。灯簿が、誰かの役に立ったの」
ティルは、灯簿の表紙を撫でた。
「おばあちゃんが毎晩数えてたのも、誰にも読まれませんでした。教会に届けても、受け取ってもらえなかった。もう灯守りはいないんだからって」
「それでも、数えてたんだね」
「はい。でもわたし、ときどき思うんです。誰も読まない記録って、本当に記録なのかなって」
私はカウンターの下に手を伸ばした。
指先に、自分のノートの角が触れた。二十年分の違算。誰にも読ませたことのない記録。
「ティル。灯簿、最初から読ませてくれる?」
ティルが目を丸くした。
私はレジを離れられない。ティルが灯簿を持ってカウンターまで来て、一頁ずつめくってくれた。私はそれを、最初の日付から順に読んだ。
祖母の字の頁は、三十年分あった。
細くて丁寧な字で、毎晩の数が並んでいる。四十二。四十二。四十一。四十。冬になると減り、春になると少し戻る。それでも全体としては、ゆっくりと下がっていた。
途中で、字が変わる。
幼い、大きな字。それがだんだん小さく、まっすぐになっていく。ティルが数えはじめた頁だ。
最後の頁まで読むのに、一時間かかった。
「……おばあちゃん以外で、灯簿を最後まで読んだ人、初めてです」
ティルの声が、かすれていた。
「読む人が一人いれば、それは帳簿になる」
私は言った。
自分に向けて言ったのかもしれなかった。
ティルは灯簿を胸に抱いて、しばらく黙っていた。それから、あ、と小さく声を上げた。
「リツさん。このあいだ、徴税吏が持ってた帳面、見ました?」
「少しだけ」
「ホロ村の欄に、灯の数が書いてありました。教会の帳簿では、灯の数で灯税の額が決まるんです」
ティルは灯簿の最後の頁を開いた。
昨夜の数字。
二十三。
「教会の帳面には、ホロ村の灯は、六十って書いてありました」
窓の外で村の方角の小さな灯が、一つまた一つと揺れていた。
数えれば二十三しかない灯を、教会は六十と記している。




