第四章 両替
「籠城だな」
三輪さんが言ったのは、異世界に来て二度目の零時を過ぎたころだった。
私はちょうど、精算を終えたところだった。
この世界で最初のレジ締めだ。売上はゼロ。ドロアの中身は、日本円が閉店のときのまま。ティルが置いていった銅貨は、ドロアの端に別にしたまま数えなかった。
理論値と実際の現金は、ぴたりと合った。
違算ゼロ。
レシートに精算レポートが出る。今度は、変な一行は付いてこなかった。私はレポートを専用のファイルに綴じて、ノートに一行だけ書いた。『違算なし』。
それを見届けてから、三輪さんがさっきの言葉を言ったのだった。
「扉を開けて、レジに立って、棚の物には手をつけずに十九日。その間に、帰る方法でも何でも探す。外の連中には悪いが、まず俺たちが生き延びるのが先だ」
筋は通っていた。
ラディカは黙って、私の顔を見ていた。ティルはバックルームの段ボールの上で、丸くなって眠っていた。日が暮れてから、彼女は店の窓から村の方角の灯を数えて、灯簿の空欄を埋めた。二十三だった。
「三輪さん。十九日たったら、どうなりますか」
「そのときに考える」
「十九日たったら、棚は空です」
三輪さんの眉が動いた。
「棚が空になったら、この店は、たぶん消えます」
私は昨夜書いたメモを見せた。レジに人。棚に商品。扉が開いている。三つ目には、まだ「たぶん」と書き添えたままだった。
「食べなくても、商品は消費期限で減っていきます。おにぎりもパンも、あと二日で廃棄です。何もしなくても、棚はじわじわ空になる」
「……」
「補充するには、仕入れるしかありません。でも、もう本部も物流センターもない。仕入れ先は、この世界にしかない」
私は売場を見た。半分空いた棚。その棚に、明日も何かを並べなければならない。
「だから、開けます。この世界のお客さんに売って、この世界のお金をもらって、この世界の物を仕入れる」
三輪さんは長いこと黙っていた。
それから、ふっと息を吐いた。
「コンビニってのは、そういうもんだったな」
「はい。コンビニは、開けてなんぼです」
◇
まず決めなければならないのは、値段だった。
朝になって目を覚ましたティルに、私は質問を並べた。黒パン一つはいくらか。卵は。麦一袋は。一日働いたら、いくらもらえるのか。
ティルは指を折りながら答えてくれた。
黒パンが銅貨二枚。卵が三つで銅貨一枚。畑の手伝いを一日すると、銅貨十枚。銅貨十枚で銀貨一枚になり、銀貨十枚で金貨一枚になる。金貨なんて、村では誰も見たことがないそうだ。
「灯油は?」
「一晩分で、銅貨二枚です。高いから、村では毎晩、一軒に一つしかともせません」
私は電卓を叩いた。黒パンと日本のパンの値段。日雇いの賃金。いくつかを突き合わせて、ざっくりとした換算を決める。
銅貨一枚、およそ五十円。
おにぎり一個、銅貨三枚。缶コーヒー、銅貨三枚。からあげ、銅貨四枚。
「両替表を作ります」
「りょうがえ、ですか」
ラディカが首をかしげた。
コンビニの店長の仕事には、両替も入っている。翌日の釣り銭が足りなくならないように、千円札や硬貨を毎日用意しておく作業だ。硬貨は「棒金」といって、五十枚ずつ紙で巻かれた棒の形で銀行から受け取る。棒のまま数えられるから、レジ締めのときも早い。
ここには銀行も棒金もない。
だから、作ることにした。
私はティルの村から来た人たちに、硬い麻の紐を分けてもらった。銅貨の四角い穴に紐を通して、十枚ずつ結ぶ。一束で銀貨一枚分。それをドロアの硬貨の仕切りに並べる。
「棒金です」
「棒じゃなくて、紐ですけど」
「紐金。いや、紐でも棒金」
ラディカが笑った。ティルは、紐に通された銅貨を不思議そうに持ち上げていた。
「これなら、数えるのが早いです」
「そう。レジ締めが早いの」
私は少しだけ得意になった。
◇
開店は、昼の四時間半が勝負だった。
夜明けの九時四十一分。私は自動ドアの前に立ち、いつもより大きな声を出した。
「いらっしゃいませ。本日より、通常営業いたします」
ティルが村の言葉で同じことを叫んでくれた。
最初に入ってきたのは、昨日のひげの老人だった。名前はドルムさんというらしい。丸太のような腕で銅貨を三枚、カウンターに置いた。
「あの白い三角を一つ」
おにぎりだ。
私はスキャナーを通し、客層表の「ひげの人・お年寄り」に一本線を引いた。それから、おにぎりのフィルムの開け方を実演した。真ん中の帯を引いて、左右を引く。海苔が、ご飯に巻きつく。
ドルムさんが、一口かじった。
パリッ、という音が、店の中に響いた。
ドルムさんの動きが止まった。
口の中の音を確かめるように、もう一口かじる。パリッ。それから海苔の端を指でつまんで、光にかざした。黒い薄い紙のようなものを、何かの宝物のように見ていた。
「……海の匂いがする」
彼はそれだけ言って、残りを三口で食べた。
それが合図になった。
入口のマットの手前で見ていた人たちが、どっと入ってきた。銅貨を握りしめた手が、カウンターに伸びる。おにぎり。パン。お菓子。子どもたちは色とりどりの袋の前で、声を上げて迷っていた。
耳の長い女性は、羊飼いのフィナさんといった。板チョコを一枚買い、銀紙をはがして一かけらを口に入れた。
彼女はしばらく目を閉じていた。
「これは、甘い夜みたいな味です」
それが褒め言葉なのかどうか分からなかったが、彼女はもう一枚買っていった。
ラディカはフライヤーに火を入れていた。冷凍庫に残っていたからあげを、規定どおりの温度と時間で揚げる。揚げたてを紙の袋に入れて、保温ケースのホットウォーマーに並べる。
その匂いが、店の外まで流れた。
夜番明けの男たちが三人、匂いにつられて入ってきた。村の灯油を一晩中見張って、朝になってやっと眠れるという人たちだった。
一人がからあげを、一人が缶コーヒーを買った。
ラディカが缶コーヒーを温める機械を指さし、熱いのを渡す。男は缶を両手で包むように持ち、しばらく何も言わなかった。
「温かい」
それから、もう一度言った。
「温かい」
男の目の端が、少しだけ濡れていた。夜通し外にいた人の手は、ひどく冷えているのだろう。缶一本の熱が、その手のひらに全部しみこんでいくのが見えるようだった。
◇
昼過ぎ、店の灯が一度だけ揺れた。
酒の匂いをさせた若い男が、カップ酒を三本つかんでカウンターに来たときだった。夜番の仲間らしい。顔が赤く、目が据わっていた。
「金は明日払う。いいだろ。灯の家なんだろ、ここは」
「お代は、今いただきます」
「払うって言ってるだろ」
「申し訳ございません。お売りできません」
言った瞬間だった。
蛍光灯が、ちかちかと瞬いた。冷蔵ケースのモーターが、一瞬だけ止まりかける。白い光が、夕方の黄色へ沈みかけた。
店の外で、まだ明るいのに、森の縁の地面がざわりと黒くうごめいた。
「店長!」
ラディカの声で、私は我に返った。
「……失礼いたしました。お会計、いたします」
光が戻った。
男は銅貨を数枚、乱暴に置いた。足りない。でも私は黙って、それを受け取った。男がカップ酒を抱えて出ていくと、店の中に変な沈黙が残った。
「店長。今の」
「うん」
私はメモの三行に、もう一行足した。
『お客さんに売るのを断ると、灯が揺れる』
「店は、売るのを断れないってことですか」
「たぶん、そう。営業中の店は、売る店だから」
三輪さんが腕を組んだ。
「厄介だな。悪い客ほど得をする」
「悪い客は、来ないことを祈ります」
私はそう言いながら、さっきの男が置いていった銅貨を数えた。銅貨二枚分、足りなかった。
ノートを開いて、一行書く。
『カップ酒三 代金不足 銅貨二 補填』
私は自分の財布から日本円を出しかけて、手を止めた。この世界で、日本円は銅貨にならない。
代わりに、ティルからもらった最初の銅貨をドロアに入れた。昨日、私が別にしておいた一枚だった。
◇
昼の四時間半で、おにぎりとパンとお菓子の半分が売れた。
ドロアの中には、紐で束ねた銅貨が十二本と、ばらの銅貨が四十枚ほど。銀貨も二枚あった。
その銅貨で、私は村の人たちから物を仕入れた。
卵を六十個。麦の粉を二袋。野菜を籠に三つ。それから、灯油を樽に半分。
「灯油まで買うんですか」
ラディカが聞いた。
「売る。一晩分ずつ、小分けにして」
この店の灯は、私たちのためにある。でも村の人たちには、自分の家の灯が要る。一軒に一つしかともせない家が、二つともせるようになれば、夜喰いはその分だけ遠ざかる。
三輪さんがストアコンピュータの前で、腕を組んでいた。
「店長。今日の売れ方で計算した」
画面には、私が朝に入れた理論在庫が並んでいる。そこから今日売れた数を引くと、残りは目に見えて減っていた。
「このペースだと、日本から持ってきた分は八日でなくなる。おにぎりと弁当は、明後日にはゼロだ」
「十九日が、八日」
「売れば減る。当たり前だがな」
私はうなずいた。分かっていたことだった。分かっていても、数字で見ると背中が冷えた。
「仕入れた卵と麦で、何か作れますか」
「作れる。だが、米がねえ」
三輪さんは、売場のおにぎりの棚を見た。残りは三つ。三十年、毎朝何千個ものおにぎりを炊いてきた人が、その三つをじっと見ていた。
「この辺りに、米みたいなものがあるか聞いてみる」
ラディカは、店の外で子どもたちと話していた。
正確には、話そうとしていた。
敷居の外に出ると、言葉は通じない。それでも彼女は地面にしゃがみ、子どもたちが指さす物の名前を一つずつ聞いていた。木。石。鳥。空。聞いた音を、手のひらにボールペンで書きつけている。
「店長、この世界の言葉、ネパール語と少しだけ音が似てます」
戻ってきた彼女の手のひらは、文字でいっぱいだった。
「三日あれば、買い物くらいは話せるようになります」
「三日」
「わたし、日本語は三か月で話せるようになったので」
彼女は少しだけ胸を張った。昨夜泣いていた子と、同じ人とは思えなかった。
レジに立ちながら、私はほとんど休まなかった。
品出しもフライヤーの見張りも銅貨の数えも、全部自分でやった。ティルが「手伝います」と言っても、私は首を振った。
「レジは、私がやる」
「でも、リツさん、ずっと立ちっぱなしです」
「お金は、私が触る。間違ったら、誰かが疑われるから」
ティルは何か言いたそうな顔をした。でも、それ以上は言わなかった。代わりに、空いた棚の前に立って、残ったお菓子を一つずつ前に出しはじめた。
昨日、私がやっていたのを見ていたのだろう。
フェイスアップ。正面をそろえて、満タンに見せる。
ティルの手つきは、少しぎこちなかった。でも並べ終えた棚は、ちゃんと生きているように見えた。
◇
十四時を過ぎて、店の前の人だかりが急に割れた。
村人たちが、怯えたように道を空けている。その真ん中を、黒い服の男が歩いてきた。
背が高く、痩せている。黒い長衣の胸に、金色の丸い紋章が縫い取られていた。昇る太陽を半分に切ったような形だった。手には、分厚い帳面を抱えている。
ティルが、私の袖をつかんだ。
「暁教会の、徴税吏です」
男は自動ドアの前で立ち止まった。店の中には入らず、敷居の外から、店の照明と棚と私を順に眺めた。
それから、帳面を開いた。
「灯の家の主は、誰だ」
店の外だから、男の言葉は私には分からない。ティルが、それを私に伝える。
「私です」
男は帳面に何かを書きつけた。そして、乾いた声で言った。
「無許可の灯は、課税対象だ」
ティルの通訳が、少し遅れて届いた。
「この地にこの灯がともった以上、灯税を納めねばならん。過去三百年分を、まとめてな」




