第三章 客層キー
少女は、自動ドアの隙間に頭から飛び込んできた。
入口のマットの上に膝をつき、そのまま前のめりに倒れる。三輪さんが拭き直したばかりのマットだった。
その背中を追って、影が床の白い四角へなだれ込もうとした。
じゅっ。
一番前の影が光に触れて、煙のようにちぎれた。残りの影が、波が引くように森へ戻っていく。最後の一筋が、土の上で名残惜しそうに揺れて、消えた。
「大丈夫?」
ラディカが駆け寄って、少女の肩を支えた。
少女は荒い息をしながら、顔を上げた。
十六か十七くらいだろうか。日に焼けた頬に、泥の筋がついている。薄茶色の髪を一本に編んでいて、その先がほどけかけていた。着ているのは生成りの麻のような服で、袖口が何度も繕われていた。
右手の人差し指の先には、まだ小さな火がともっていた。
彼女はその火を見て、それから店の天井を見上げた。蛍光灯の白い光を、口を半分開けたまま見つめていた。
「……なんて、明るい」
その声を、私ははっきり聞き取った。
日本語ではなかった。聞いたことのない響きの言葉だった。なのに、意味だけがまっすぐ頭に入ってくる。
ラディカが、ぱっとこちらを振り返った。
「店長。今の、分かりました?」
「分かった」
「わたしもです。でも、日本語じゃなかったですよね」
ラディカは少女に向き直り、ゆっくり言った。
「あなた、名前は?」
それからもう一度、今度はネパール語で同じことを聞いた。
少女は目を丸くした。
「ティルです。ホロ村の、ティル」
二回とも、ちゃんと答えが返ってきた。
ラディカは少女の手を握ったまま、入口のほうへ二歩下がった。自動ドアの敷居をまたいで、光の四角の端に立つ。
「ティルさん。聞こえますか」
少女は首をかしげた。
「……?」
ラディカの口から出た言葉が、少女には分からなかったらしい。ラディカが敷居の内側に戻って、もう一度呼ぶ。今度は少女がうなずいた。
「店の中だけ、翻訳されてる」
ラディカが小さく笑った。泣いたあとの、まだ少し腫れた目のままで。
「通訳の勉強、意味あるのかな、これ」
「外に出たら、意味あるよ」
私は言った。冗談のつもりだったが、ラディカは真剣な顔でうなずいた。
◇
ティルは水を欲しがった。
彼女は腰の革袋から、小さな銅色の硬貨を一枚出してカウンターに置いた。真ん中に四角い穴が開いていて、知らない文字が刻まれている。
「これで、何か飲めるものを」
私はペットボトルの水を一本、棚から取った。
そして、身体が勝手に動いた。
スキャナーでバーコードを読む。画面に金額が出る。会計を確定する前に、指がレジの端のボタンへ伸びる。
客層キー。
レジの右端に並んでいる、性別と年齢層のボタンだ。お客さんが男か女か。十二歳未満か十代か、それとも二十代か。見た目で判断して、会計のたびに一つ押す。
このデータは本部に飛んで、「いつ誰に何が売れたか」の山になる。雨の火曜の夜には三十代の男性がカップ麺と缶チューハイを一緒に買う、というような傾向は、全国の店員が押した無数のボタンから見えてくる。
私は「女性・十代」を押していた。
二十年近く毎日押してきた指は、世界が変わったくらいでは止まらないらしい。
「店長」
「分かってる。癖」
ラディカが噴き出した。三輪さんまで、肩を揺らして笑っていた。
この店に来てから、初めての笑い声だった。
銅貨の価値は分からない。分からないので、私はレジを打つふりだけして、硬貨はドロアの端に別にしておいた。水は、ティルにそのまま渡した。
ティルは両手でペットボトルを受け取り、透明な容器をしばらく光にかざしていた。それから、キャップの開け方が分からずに困った顔をした。ラディカが開けてやると、彼女は一口飲んで、目を閉じた。
「冷たい」
それだけ言って、また飲んだ。
◇
夜明けは、十九時二十二分に来た。
レシートが告げた時刻ちょうどに、森の上の空が灰色に変わりはじめた。黒が紺になり、紺が鈍い青になる。二つの月が薄くなって、木々の輪郭がはっきりしてくる。
最後に、森の向こうの丘の上から、白い光の線が一本走った。
朝だった。
十九時間ぶりの朝だった。
私はガラスに額をつけるようにして、それを見ていた。三輪さんも、ラディカも、何も言わなかった。
森の縁にうずくまっていた影は、光が差した瞬間に、霧のように消えていた。
「夜喰いは、朝になると地面に沈みます」
ティルが言った。
「夜になると、また出てきます。灯のないところに」
私は店の時計を見た。十九時二十二分。
この数字は、もうこの世界では意味がない。
私はバックルームから脚立を持ってきて、売場の壁の時計を外した。レジの時刻設定も開く。
「何するんですか、店長」
「時計を合わせる」
この世界の昼は、四時間半あまりしかない。それなら、その真ん中を正午にすればいい。
私は計算した。夜明けを九時四十一分にすれば、日の入りは十四時十九分ごろになる。
時計の針を九時四十一分に回す。レジの時刻も合わせる。ストアコンピュータの時刻も、ラディカと三輪さんの腕時計も。
「これで、零時は夜の真ん中です」
「零時が何だ」
三輪さんが聞いた。
「レジ締めの時刻です。毎晩零時に、精算をします」
三輪さんは、少し呆れたように笑った。
「店長はブレねえな」
◇
朝の光の中で、森の向こうから人が来た。
最初は三人。それから、子どもを連れた家族。全部で十人ほどだった。皆、ティルと同じような麻の服を着て、手に鍬や棒を持っていた。
彼らは光の届く範囲の外で立ち止まり、店をじっと見ていた。
いや、店ではない。店の照明だ。
朝になったのに、店の中は白く光り続けている。その光を、彼らは神社の灯明でも見るような目で見ていた。
「村の人たちです。夜のうちに、丘の上から見えたんだと思います。ここに、大きな灯がともったのが」
ティルが言った。
私はカウンターの中から、いつもの声を出した。
「いらっしゃいませ」
誰も入ってこなかった。
一番前にいたのは、背の低いひげの濃い老人だった。腕が丸太のように太い。その隣に、耳の先が長く尖った若い女性が、羊の毛の袋を抱えて立っている。子どもたちは大人の足の陰から、こっそり顔を出していた。
私は反射的に、客層キーの列を見た。
男性・五十代以上。
違う。たぶん、そういう枠ではない。
女性・二十代。
それも違う。耳が違う。
「店長、何してるんですか」
「どのボタンを押せばいいか、考えてた」
「まだ誰も、お買い物してないです」
ラディカの言うとおりだった。
私はレジの横のメモ用紙を一枚ちぎって、ボールペンで線を引いた。縦に「人」「ひげの人」「耳の長い人」「その他」。横に「子ども」「若い」「大人」「お年寄り」。
「客層表です」
「お客さん、ゼロなのに」
「来たら、要るから」
三輪さんがメモをのぞき込んで、ため息をついた。
「店長。ひげの爺さんは、ひげの人の、お年寄りだな」
「そうなります」
「正の字書いとけ」
私は「見学」と書いた欄に、正の字を二つ書いた。
◇
村の人たちは、ティルの説明を聞くと、少しずつ光の内側へ足を踏み入れた。中までは入らない。入口のマットの手前から、棚の色とりどりのパッケージを眺めている。子どもが一人、ガラスに顔を押しつけて、お菓子の棚を指さしていた。
私はその間に、ティルから話を聞いた。
ここはアウルム王国という国の、北の外れだという。王都セルナは南へ、馬車で一日半。王国の人々は、暁教会という教会の教えを信じている。
この世界の夜は、年々長くなっている。
ティルのおばあさんが子どもだったころは、夜は十五時間ほどだった。それが少しずつ延びて、今は十九時間を超えた。昼は短くなり、畑の麦は育ちきらず、灯のない村から順に夜喰いに呑まれていく。
「夜喰いは、灯のない場所に湧きます。家も、人も、灯の消えたものから呑んでいきます」
ティルは淡々と言った。何度も見てきた人の言い方だった。
「だから昔は、どの村にも灯守りがいました。夜通し灯を守って、灯の数を数える仕事です。数えた数は教会に届けられて、教会がそれを暁の神様に報告します」
「報告」
「暁帳、という帳簿に。報告がちゃんとしていれば、神様は朝を返してくださる。それが、大昔に人と神様が交わした約束だそうです」
私は黙って聞いていた。帳簿。報告。朝を返す。
なぜか、ひどく身近な話に聞こえた。
「でも、三百年前に灯守りはなくなりました」
「なくなった?」
「教会が、もう要らないと決めたんです。灯守りに払うお金がもったいないって。代わりに村から灯税を集めて、教会がまとめて灯の面倒を見る。そういうことになりました」
ティルは、膝の上で指を握った。
「わたしの家は、最後の灯守りの家です。仕事は三百年前になくなったけど、うちは数えるのをやめませんでした。でもおばあちゃんは、死ぬまで毎晩、丘の上から村の灯を数えてました。今は、わたしが数えてます」
彼女は腰の革袋から、紐で綴じた分厚い紙の束を出した。
灯簿、と表紙に書いてあった。
中には、毎晩の日付と、小さな数字が並んでいた。二十八。二十七。二十七。二十五。数字は、ゆっくりと減っていた。
「誰かに、届けてるの?」
私が聞くと、ティルは首を横に振った。
「誰も読みません。灯守りは、もういないことになってるので」
それでも、毎晩数えている。
私は灯簿の最後の頁を見た。昨夜の日付の欄だけが、空いていた。夜喰いに追われて、数えきれなかったのだろう。
「数えて、どうするの」
聞いてから、ひどい質問だと思った。でもティルは、怒らなかった。
「分かりません。おばあちゃんは、いつか誰かが読むかもしれないって言ってました。読まれなくても、数えた数は本当だからって」
数えた数は、本当だから。
私は自分のノートのことを考えた。カウンターの下にしまってある、二十年分の違算。あれも、誰にも読ませたことがない。
「ティル。これ、借りてもいい? 今夜だけ」
ティルは少し迷ってから、灯簿を差し出した。私はそれを、レジ横のメモの下に挟んだ。紙の端は、何度も指でめくられて柔らかくなっていた。
「昨夜の分は、数えられなかったんですね」
ラディカが空欄を指さした。
「今夜は、ここから数えればいい」
ガラスの外を指さすと、ティルは目を丸くした。この店は、森の中の少しだけ高い場所に建っている。村の方角の木々の切れ間から、遠くの灯が見えるかもしれない。
ティルは黙ってうなずいた。
◇
十四時十九分。
時計を合わせたとおりに、空が暮れはじめた。村の人たちは、ティルにいくつか言葉をかけて、急いで森の向こうへ帰っていった。ティルは店に残った。村まで帰るには、もう遅すぎるという。
日が沈みきったとき、プリンターがまた鳴った。
【本夜の長さ 十九時間二十一分(前夜比マイナス一分)】
「一分、短くなってる」
ラディカが言った。
ティルがレシートをのぞき込んだ。字は読めないはずだった。それでも彼女は、数字の並びを見て、何かを理解したように息をのんだ。
「この店の灯のせいです」
「どういうこと?」
「夜の長さは、灯の数で決まるって、おばあちゃんが言ってました。ともっている灯が多ければ、夜は短くなる。少なければ、長くなる。それから教会の帳簿がうそをついていれば、そのうその分だけ夜は毎晩延びていくって」
ティルは店の天井を見上げた。
「この店の灯は、教会の帳簿に載っていません。帳簿の外の灯が、一つ増えた。だから、夜が一分縮んだんです」
帳簿の外の灯。
私はカウンターの上のレシートを見下ろした。一分。たった一分。それでも、この店がこの世界の夜を一分だけ削ったのだ。
ティルは、急に顔を曇らせた。
「リツさん」
いつのまにか、名札の字をラディカに読んでもらったらしかった。
「この店のこと、教会に見つかったら、取り上げられます」
ガラスの外で、また夜喰いが森の縁に集まりはじめていた。




