第二章 理論在庫
「責任者を呼べ」
鷺沼さんの最初の言葉は、それだった。
ガラスの向こうの黒い森を指さし、二つの月を指さし、最後に私を指さす。
「おい。何だこれは。説明しろ」
「説明できません。私にも分かりません」
「店長だろうが」
店長だ。でも店長の研修で、店ごと知らない夜に放り出されたときの手順は習っていない。
私はポケットからスマホを出した。画面の左上に「圏外」。ラディカも三輪さんも同じだった。店の固定電話の受話器を上げると、発信音すら鳴らない。
なのに、店の照明は点いている。
冷蔵ケースのモーターも、ホットウォーマーのランプも、レジの画面も。電線がどこにつながっているのか、もう誰にも分からない。それでも店は、閉店前と同じ白い光で満ちていた。
三輪さんが無言でバックルームへ歩いていった。
裏口の扉が開く音。すぐに閉まる音。
戻ってきた三輪さんの顔は、少し白かった。
「裏も森だ。ゴミ置き場も、隣の月極駐車場もねえ。建物だけが、そっくりこっちに来てる」
ラディカが、両手でスマホを握りしめた。画面には母親とのトーク画面が開いたままだった。最後のメッセージは、昨日の昼。カトマンズの朝の写真に、彼女はまだ返信していなかった。
「……既読、つかないです」
その声に、誰も何も言えなかった。
◇
森の縁で、何かが動いた。
最初は風かと思った。でも木々の影の手前で、影よりもっと濃いものがうごめいていた。形がない。輪郭だけが、闇の中で闇よりも黒く揺れている。
それは地面を這うように、店へ近づいてきた。
店の照明が、駐車場だった土の上に白い四角を落としている。影はその四角の縁まで来て、止まった。
縁に、触れた。
じゅっ、と熱い鍋に水を落としたような音がした。影は跳ねるように後ずさり、森の暗がりへ溶けていった。
「光が、嫌いなんですね」
ラディカがつぶやいた。
「なら、ここにいれば安全だ」
三輪さんが言った。
「ふざけるな」
鷺沼さんが吐き捨てた。
「安全? こんなところで朝まで待てってのか。いや、朝が来る保証もねえだろうが」
彼はカウンターの横に積まれた買い物カゴを一つつかんだ。
そして、売場を歩きはじめた。
懐中電灯。単三の乾電池を四パック。使い捨てのライターを、ありったけ。カップ酒を三本。最後に、私の背後の棚を顎でしゃくった。
「煙草。いつもの」
「お客様」
「さっきの五千だ。釣りはいらねえ」
私が何か言う前に、彼はカウンターの上に置いてあった煙草を一箱つかんだ。懐中電灯の包装を歯で破り、電池を入れる。カチリとスイッチを入れると、白い光の筋が床を走った。
「どちらへ」
「どこでもいい。ここじゃねえところだ」
彼は閉じた自動ドアを、両手でこじ開けた。夜気が流れ込む。土と、湿った葉と、知らない花の匂いがした。
「鷺沼さん、外は危ないです」
「店員に心配される筋合いはねえ」
彼は振り返らなかった。
懐中電灯の光を森へ向けると、さっきの影が嫌がるように左右へ割れた。その真ん中を、灰色の作業ジャンパーの背中がまっすぐ歩いていく。迷いのない足取りだった。夜道を歩き慣れた人の歩き方だと、なぜか思った。
光の筋が木々のあいだで小さくなり、やがて見えなくなった。
私はしばらく、ドアの前に立っていた。
それからカウンターに戻り、ノートを開いた。
『鷺沼様 未精算 推定八千四百二十円』
ボールペンの先が、少しだけ震えた。
◇
「店長。まず、数えよう」
三輪さんが言った。
「何がどれだけあるか分からねえと、何日もつかも分からねえ」
その言葉で、私の頭がやっと仕事の形に戻った。
そうだ。数えればいい。数えるのは得意だ。
バックルームのストアコンピュータを立ち上げる。店の在庫を管理する端末だ。画面には、商品ごとの「理論在庫」が並んでいる。
理論在庫というのは、帳簿の上で「今、店にあるはずの数」のことだ。納品された数を足し、売れた数と廃棄した数を引く。実際に棚を数えなくても、機械が勝手に計算してくれる。
ただし、理論は理論だ。
数え間違い、万引き、登録ミス。現実の棚とのあいだには、必ずズレがある。
「ラディカ。おにぎりと弁当とパンの棚、実数を数えて。私は飲料とカップ麺。三輪さんは冷凍とお菓子をお願いします」
「はい」
ラディカの返事が、さっきより少しだけしっかりしていた。手を動かすと、人は少し落ち着く。
二十分後、三人の数を合わせた。
おにぎり十四個。弁当九個。パン二十二個。カップ麺六十一個。冷凍食品三十八袋。お菓子は種類が多くて数えるのに手間取ったが、二百個あまり。飲料は水とお茶を中心に四百本近く。
閉店前で発注を止めていたから、もともと少ない。
私は電卓を叩いた。三人が一日三食、無理なく食べたとして。
「十九日」
声に出すと、思ったより短く響いた。
「おにぎりと弁当とパンは、消費期限があるので先に食べます。そのあとはカップ麺と冷凍とお菓子。水を大事に使えば、十九日はもちます」
「十九日たったら?」
ラディカが聞いた。
「それまでに考える」
私はそう答えた。答えになっていないことは分かっていた。
◇
最初に気づいたのは、ラディカだった。
「店長。ドア、閉めておきましょうか。鷺沼さんがこじ開けたままです」
「お願い」
彼女が自動ドアの片側を手で押した。ガラスの扉が、ゆっくりと閉じていく。
閉じきった瞬間、照明が一段暗くなった。
蛍光灯の白が、夕方のような黄色に沈んだ。冷蔵ケースのモーター音が、ふっと低くなる。
ガラスの向こうで、森の縁の影がいっせいに動いた。白い四角が小さくなった分だけ、影がにじり寄ってくる。
「開けて!」
私が叫ぶより早く、ラディカは扉を押し戻していた。隙間が開くと、照明はまた元の白さに戻った。影が、土の上で後ずさる。
三人とも、しばらく何も言えなかった。
「……扉か」
三輪さんが低く言った。
「扉が開いてりゃ、明るい。閉めたら、暗くなる」
私はレジを見た。思い当たることが、もう一つあった。
さっき、私はバックルームで在庫を数えていた。その間、売場の照明は少し暗くなかっただろうか。ラディカが一度「目が疲れました」と言っていた。
「三輪さん、レジに立ってもらえますか。私、一度レジを離れます」
三輪さんがカウンターに入った。私は売場の奥へ歩いた。照明は変わらない。
「今度は、三輪さんもカウンターから出てください」
三輪さんがカウンターの外へ一歩出た。
照明が、すっと黄色く沈んだ。
戻ると、白くなった。
「レジに人がいて、扉が開いてる」
私は指を折った。
「その間だけ、この店は明るい」
「つまり、営業中ってことだ」
三輪さんが、腕を組んだまま言った。
「店ってのは、そういうもんだろ。売る人がいて、入れる扉があって、売るものが棚にある。それがそろって、初めて営業中だ」
「売るものが、棚に」
私は売場を見回した。歯抜けの棚。でも、まだ空ではない。
確かめる気にはなれなかった。棚を全部空にして、照明が消えるかどうか。そんな実験をして、もし本当に消えたら。森の縁で待っているものが、何をするか。
「三つ目は、たぶん、です」
私は言った。
「レジに人。棚に商品。扉が開いている。この三つがそろっている間は、この店は灯る。そういうことにしておきます」
「閉めたら死ぬってことか」
三輪さんの声は乾いていた。冗談なのか本気なのか、たぶん本人にも分かっていなかった。
私はしばらく答えなかった。
閉店。発注停止。棚の歯抜け。今夜、私はこの店を閉めるために、ここに立っていたのだ。最後のレジを正しく締めて、この店を終わらせるために。
その店が、閉めるなと言っている。
「閉めません」
自分の声が、思ったよりはっきり出た。
「この店は、もう閉めない。でも、毎日締めます」
ラディカが、私を見た。
「締める、ですか」
「レジ締め。一日一回、ちゃんと数えて、ちゃんと閉じる。開けっぱなしで、締めっぱなし。それがコンビニだから」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。でも三輪さんは笑わなかった。ラディカは、こくりとうなずいた。
◇
夜は長かった。
二時。三時。四時。時計の針は進むのに、ガラスの外はいつまでも黒いままだった。二つの月が、ゆっくりと森の上を渡っていく。
私たちは交代で眠った。一人がレジに立ち、二人がバックルームの段ボールの上で横になる。レジに立つ人は、決してカウンターを出ない。
三時ごろ、三輪さんと二人で、消費期限の近いおにぎりを一つずつ食べた。
鮭のおにぎりだった。三輪さんはフィルムをきれいにはがし、海苔を巻いて、一口かじった。それから、しばらく黙って噛んでいた。
「ちょっと、やわいな」
「お米ですか」
「水がな。季節が変わったのに、冬の水加減のまま炊いてる。工場の誰かが、量り直すのをさぼったんだろう」
三輪さんは三十年、毎朝その水加減を決めてきた人だ。米の銘柄、その日の気温、水道の水の冷たさ。全部を見て、浸ける時間と水の量を一回ずつ変える。
「水は毎回量れ。合わせて終わりにするな」
三輪さんは、おにぎりの断面を見ながら言った。
「新人にはそれしか言わなかった。昨日うまくいった量が、今日もうまくいくとは限らねえ。毎回量って、毎回合わせる。それだけだ」
私は手の中のおにぎりを見下ろした。
毎回量って、毎回合わせる。
ズレを見つける前に埋めてしまう私には、少し耳の痛い言葉だった。
「三輪さん。鷺沼さんって、昔何をしていた人なんでしょうね」
「さあな。でも、夜道を歩き慣れてた」
三輪さんは、残りのおにぎりを口に入れた。
「懐中電灯一本で、真っ暗な森にまっすぐ入っていった。ああいう歩き方をするのは、夜に働いてた人間だ」
私はガラスの外の闇を見た。あの人は今、どこを歩いているのだろう。
六時を過ぎても、空は白まなかった。
九時を過ぎても、暗いままだった。
ラディカはレジに立ちながら、ずっとスマホを握っていた。圏外の画面を、それでも何度も点けては消した。
「お母さんに、まだ返信してないんです」
私がバックルームから戻ると、彼女は小さく言った。
「朝の写真、もらってたのに。後で返そうと思って」
私は、何も言えなかった。代わりに、ホットウォーマーの最後のからあげを紙袋に入れて、彼女の手に持たせた。
彼女は泣きながら、それを食べた。
私の母は、二年前に死んだ。三輪さんの奥さんも、ずっと前に亡くなったと聞いている。向こうで私たちを待っている人は、たぶんもうあまりいない。
ラディカには、いる。
それが、いちばん重かった。
◇
十九時を過ぎたころ、レジのプリンターがひとりでに鳴った。
ジジ、という短い音。レシートが一枚、ちぎれるように出てくる。
【本夜の長さ 十九時間二十二分】
私はそれを、三回読んだ。
十九時間二十二分。この世界の夜は、それだけ長いということだろうか。
「十九時間って」
三輪さんが、紙をのぞき込んで眉を寄せた。
「昼は、残りの五時間しかねえってことか」
そのとき、ラディカがガラスに顔を寄せた。
「店長。誰か、来ます」
森の奥に、小さな光が一つ揺れていた。
懐中電灯ではない。もっと弱くて、もっと温かい色の光だった。それが木々のあいだを縫って、こちらへ走ってくる。
光の下に、人影が見えた。
小柄な少女だった。片手を胸の前に掲げて走っている。その指先に、蝋燭ほどの火がともっていた。
髪が乱れ、裸足に近い薄い靴が土を蹴っている。指先の火は小さすぎて、彼女の顔のまわりしか照らしていなかった。それでも彼女は、その火を消すまいと、走りながら手のひらで風をよけていた。
「店長、ドアを」
「開いてる。開けたままにして」
私はレジから身を乗り出した。カウンターは出られない。出たら、この光が弱くなる。
その背後で、森の闇が大きく波打っていた。
影の群れが、少女を追っていた。




