第一章 精算
あと二十分で、この店は死ぬ。
二十三時四十分。ヨアケマート東雲三丁目店の棚は、半分が空だった。
閉店が決まって発注を止めてから、もう十日になる。補充の来ない棚は歯抜けのように黒い隙間をさらしていた。
私はその隙間を、奥の商品を一つずつ手前に引き出して埋めていく。
フェイスアップという。棚の奥に残った商品を最前列まで出して、パッケージの正面をそろえる作業だ。客が一つ取るたびに奥へ空洞ができる。その空洞を放っておくと、棚は売れ残りの顔になる。だから前に詰めて、満タンに見せる。
中身が三つしかなくても、正面さえそろっていれば店は生きているように見える。
「店長、それ、もう誰も見てませんよ」
カウンターの奥でラディカが笑った。コーヒーマシンの扉を開けて、ミルクの通る細い管を外しているところだった。ミルクラインの洗浄は毎晩この時間に決まっている。閉店の夜でも、彼女は手順を一つも飛ばさない。
「見てなくても、やるの」
「最後まで店長ですね」
「最後まで店長だから」
ネパールから来て四年。通訳になるために専門学校へ通いながら、週五日の夜勤を一度も休まなかった子だ。敬語は私より正確で、レジは私より速い。
床のほうでモップの水音がした。
三輪さんがバケツを押して入口まで戻ってくる。六十八歳。弁当工場で三十年、炊飯ラインの主任をしていた人だ。定年のあと「夜は眠れないから」と言ってうちに来た。
「店長。入口のマット、まだ湿ってる。拭き直すか」
「お願いします。最後のお客さんが滑ったら、笑えないので」
「最後の客なんか来るかね」
来る。
私は壁の時計を見た。二十三時四十二分。あの人はたぶん、今夜も来る。
◇
電話が鳴ったのは、そのすぐあとだった。
物流センターからだ。二十三時十分に着くはずの定温便が、まだ来ていなかった。
「申し訳ありません。こちらの積み込みでミスがありまして、出発が四十分遅れています」
「ドライバーさんのせいではないんですね」
「はい。センター側の不手際です」
「分かりました。記録しておきます」
受話器を肩と耳のあいだに挟んで、私は納品日誌を開いた。
定温便。おにぎりや弁当を、冷やしすぎず温めすぎず、二十度前後に保って運んでくる便だ。米は冷やすと固くなる。だから冷蔵ではなく定温で運ぶ。この店に毎晩届いてきた三十一年分の米の、今夜が最後の便になるはずだった。
日誌の欄に、ボールペンで書く。
『二十三時十分便 遅延。原因 センター積み込み。ドライバー責なし』
最後の八文字は、誰に言われたわけでもない。私が店長になってから必ず書いている。遅れたとき、人は運んできた人を責める。運んできた人が一番遅れを知らないのに。
自動ドアのチャイムが鳴った。
「いらっしゃいませ」
ラディカの声と、私の声が重なった。
入ってきたのは、灰色の作業ジャンパーの男だった。五十代の後半。いつも同じ帽子をかぶり、いつも同じ缶コーヒーを一本だけ持ってレジに来る。
鷺沼さん。
名前は、一度クレームの書類に書かれていたから知っている。三年前に私が来たときにはもう、この人は毎晩零時前にここへ来ていた。前の店長の引き継ぎメモには、一行だけこうあった。
『鷺沼様 要注意。毎晩来店。必ず何か言う』
その「何か」を、私は三年間ほぼ毎晩受け取ってきた。
商品の向きが曲がっている。レジ袋の口が開けにくい。釣り銭の渡し方が雑だ。おにぎりの海苔が湿気ている。店長を出せ。
店長は私だ。
「おう」
鷺沼さんは缶コーヒーをカウンターに置いた。百三十円。
私はまだ受話器を肩に挟んでいた。センターの担当者が、明日以降の空箱の回収について説明している。左手でスキャナーを持ち上げ、缶のバーコードを読む。ピッという音がして、画面に金額が出た。
鷺沼さんが札を一枚、トレーの上に置いた。
私はそれを右手で取った。
受話器が肩からずり落ちかけて、私は首をかしげた。その拍子に、札を握った指先がドロアの縁に引っかかった気がした。
ドロアというのは、レジの現金を入れる引き出しのことだ。紙幣は種類ごとに仕切られたトレーに入れる。私は札をトレーへ押し込み、釣り銭を数えた。
「四千八百七十円のお返しです」
鷺沼さんは釣り銭を見下ろした。
それから、ゆっくり顔を上げた。
「おい。一万だぞ」
受話器の向こうで、担当者がまだ話していた。私は「すみません、またかけ直します」と言って電話を切った。
「失礼いたしました。もう一度確認いたします」
ドロアを開ける。一万円札の仕切りを見る。
いちばん上にあるのは、夕方のピークで預かった一万円札だった。その下も同じだ。新しく入れた札が上に乗っているはずなのに、それらしいものは見当たらない。
五千円札の仕切りに、一枚。
私が今押し込んだのは、たぶんこれだ。
「お客様。お預かりしたのは五千円札でございました」
「ああ?」
鷺沼さんの声が一段低くなった。
「一万だっつってんだろ。見てたぞ。お前、電話しながら受け取ったろ」
「はい。大変失礼いたしました。ですが、ドロアを確認いたしましたところ」
「確認ねえ」
彼は鼻で笑った。
「この店はな、昔から客を騙すんだよ」
昔から。
その言葉が、耳の奥で小さく引っかかった。この人は、いつからこの店を知っているのだろう。
でも私は、それ以上考えなかった。考えないようにしてきた。毎晩の「何か」の一つとして、受け流すことにしてきた。
「お客様のおっしゃることも分かります。ただ、現金の確認は閉店の精算でいたしますので」
「なら見せろ」
「はい?」
「精算だろ。零時だろ。俺の前で数えろよ」
三輪さんがモップの柄を握ったまま、こちらを見ていた。ラディカはミルクラインの管を持ったまま固まっていた。
時計は二十三時五十四分。
私はうなずいた。
「分かりました。どうぞ、そちらでお待ちください」
◇
精算。レジ締めとも言う。
一日の売上を確定させる、店のいちばん大事な儀式だ。レジの精算キーを押すと、機械が「これだけ現金があるはず」という数字をレシートに打ち出す。私たちは引き出しの中の紙幣と硬貨を一枚残らず数えて、その数字と突き合わせる。
合えば、その日は終わる。
合わなければ、終わらない。
二十三時五十九分。三輪さんが入口の自動ドアの電源を切り、手で閉めた。ガラスの向こうの駐車場には、オレンジ色の街灯が並んでいる。三十一年間、この店の夜を照らしてきた灯だ。
零時。
私はドロアを抜いて、カウンターに置いた。
一万円札、五千円札、千円札。トレーごとに出して数える。それから硬貨。五百円から一円まで、六種類。棒状に巻かれた硬貨の束は崩さずに数え、ばらの分を足す。
鷺沼さんが腕を組んで、カウンターの端からそれを見ていた。
計算機を叩く。
理論値と、実際の現金。
マイナス五千円。
「ほらな」
鷺沼さんの声は勝ち誇っていた。
「五千足りねえ。俺の五千だ」
違算。
レジの機械が弾いた金額と、引き出しの中身のズレのことだ。足りなければマイナス違算、多ければプラス違算。プラスでも喜んではいけない。それは誰かに返し忘れたお釣りだからだ。
一円でもズレたら、原因を探す。それが締めの鉄則だった。
私はその鉄則を、二十年、半分しか守っていない。
「原因は、まだ分かりません」
私はそう言いながら、カウンターの下から自分の鞄を引き寄せた。財布を出す。五千円札を一枚抜く。
それをドロアに入れた。
「おい」
鷺沼さんが目を細めた。
「認めたな」
「いいえ。お客様のお申し出とは関係ございません」
「関係ないのに、なんで自分の金を入れる」
答えなかった。
答えられなかった。
ズレは、見つかる前に埋める。誰かが疑われる前に、私が埋める。それが私の締め方だった。理由を言葉にしたことは一度もない。
「店長」
ラディカが小さな声で言った。
「違算って、みんなで探すものじゃないんですか」
彼女はミルクラインの管を握りしめていた。責めている声ではなかった。本当に分からなくて、聞いている声だった。
「……探すよ。でも、今夜は閉店だから」
私は答えにならない答えを返して、カウンターの下からノートを出した。
表紙の角が丸くすり切れた、厚い大学ノート。中には二十年分の違算が書いてある。日付と金額と、分かった原因。分からなかったときは「不明」。そして、自分の財布から入れた金額。
最初の一頁だけは、ほかと字が違う。十三歳の私が、鉛筆で書いた頁だ。
私はその頁を開かずに、最後の頁を開いた。
『三月三十一日 零時 マイナス五千円 原因 不明(鷺沼様の申告あり。確認できず) 補填 五千円』
鷺沼さんは、私の手元のノートを見ていた。
何を書いているのかまでは見えなかったはずだ。それでも彼は、何か言いかけて口を閉じた。
三輪さんが、低い声で言った。
「店長。それ、帳簿に載らねえぞ」
「載せないために、書いてるんです」
自分で言って、自分で少しだけ笑った。
◇
この店で母が働いていたことを、ここで知っている人はいない。
二十六年前、この店の深夜帯で、母は解雇された。理由は違算だった。二万五千円の不足と、お客様から預かった公共料金の控えが一枚なくなったこと。
先代のオーナーは、母を疑った。誰も数え直さなかった。
三年前、本部の人事で「閉店予定店舗の店長を募集」と聞いたとき、私は真っ先に手を挙げた。
この店の最後のレジは、私が締める。
一円も狂いなく締めて、この店の帳簿を正しく閉じる。それが、誰にも言っていない私の目的だった。
なのに、最後の夜にマイナス五千円だ。
私は息を吐いて、ドロアをレジに戻した。
「では、閉店の精算をします」
精算キーに指をのせる。
三輪さんがモップを壁に立てかけた。ラディカが管を置いて、こちらへ来た。鷺沼さんは帰らなかった。三十一年続いた店の最後の一押しを、四人で見ていた。
押した。
ジジ、とプリンターが鳴った。
いつもの精算レポートが出てくる。日付、売上、客数。
そのあとも、紙は止まらなかった。
ジジジジ、と細長いレシートが伸び続ける。カウンターの端から垂れて、床へ向かう。
「店長、紙が」
「分かってる」
私はレシートの先をつまんだ。最後の行に、見たことのない文字が並んでいた。
【繰越違算あり。締めを要請する】
「何だ、これ」
鷺沼さんがのぞき込む。
「エラーか? 壊れたのか、最後の最後で」
答えようとした瞬間、足元が揺れた。
地震、ではなかった。床が揺れたのではなく、店の外側が丸ごと、どこかへ引っぱられていくような揺れだった。棚の上の缶が一つ、ことんと倒れた。
ガラスの向こうで、駐車場の街灯が消えた。
一本ずつではない。全部が同時に、まるで誰かが灯りの束を引き抜いたように。
暗闇の中で、店の照明だけが白く光っていた。
「停電、ですか」
ラディカの声が震えた。
「停電なら、うちも消えてる」
三輪さんが言った。そのとおりだった。冷蔵ケースのモーターは低く唸り続けていた。レジの画面も点いている。消えたのは、外だけだ。
私はカウンターを出て、入口へ歩いた。
閉めたはずの自動ドアの前に立つ。ガラスに、白い店内と、私の顔が映っている。
その向こうに、駐車場はなかった。
アスファルトも、街灯も、向かいのマンションの灯りもない。
あるのは、黒い森だった。
背の高い木々の影が、夜空を切り取るように並んでいる。その夜空に、月が二つ浮かんでいた。片方は白く、片方は淡い青で、どちらも見たことのない大きさだった。
背中で、鷺沼さんが息をのむ音がした。
私は、握ったままのレシートを見下ろした。
締めを要請する。
最後のレジは、まだ締まっていなかった。




