第二十三章 閉店
プラスの違算は、足りない違算より厄介だ。
足りないときは、探せばいい。トレーの隙間。床の上。打ち間違えたレシート。どこかに、なくなったものがある。
多いときは、違う。
レジの中に、あるはずのないお金がある。誰かが、受け取るはずだったお釣りを受け取らずに帰ったのだ。その誰かを見つけて、返さなければならない。見つからなければ、店はそのお金を預かったまま、ずっと合わない帳簿を抱えることになる。
帳簿外の灯。プラス一。
私は、レシートを見つめたまま、朝の店に立っていた。
◇
答えは、店の中にあった。
この店は、暁帳に載っていない。御用達の儀の夜に、オルドがそう言っていた。帳簿の外の灯だ、と。
三十一年前に日本で開いて、百十一日前にこの世界へ落ちてきた店。誰もこの世界の帳簿に書き込んでいない灯。
一万一千四百八十六の灯は、全部数えられた。全部が誰かの手で数えられた。割印を押され、暁帳に記された。
その外側に、一つだけ。
この店だけが、数えられていなかった。
「店長」
ラディカが、バックルームから出てきた。目の下に、薄い隈ができていた。誰も、まだ眠っていなかった。
「そのレシート、ずっと見てますね」
私は、レシートを彼女に渡した。
ラディカは、しばらくそれを読んでいた。それから、顔を上げた。
「……この店ですか」
「たぶん」
「返すんですか」
返す。
プラスの違算を消す方法は、一つしかない。持ち主に返すことだ。
この店の灯の持ち主は、誰だろう。
「店の灯は、商品が運んでる」
私は、棚を見ながら言った。
「営業中の灯は、レジに人がいて棚に商品があって、扉が開いてるとき。それで店が光る。でも、その光は棚の上で止まってるわけじゃない。お客さんが買った灯油は、村のランプになる。おにぎりは、誰かの夜食になる。灯は、商品と一緒に店の外へ出ていく」
ラディカが、うなずいた。
「出ていった灯は、もう店のものじゃない。村の灯だよ。灯守りが数えて、暁帳に載る」
「じゃあ」
「全部、売ればいい」
私は言った。
「棚の商品を、全部。店の灯を、全部村に渡す。そうしたら、帳簿の外には何も残らない」
ラディカは、しばらく黙っていた。
それから、小さな声で聞いた。
「売り切ったら、店はどうなるんですか」
私は、答えなかった。
答えは、二人とも分かっていた。
◇
閉店には、手順がある。
日本の店を閉めたとき、私は本部の担当者と一緒に何枚もの書類を書いた。
閉店日を決める。お客様に告知する。在庫を売り切るか、ほかの店に移す。最終日の売上を締める。レジの中の現金を数えて、本部に送る。釣銭の準備金を返す。鍵を返す。
店が消えても、帳簿は残る。
最後の一日まで、きちんと締める。それが、閉店だ。
「今日を、最終営業日にします」
私は、店の前に集まっていた人たちに言った。ラディカが、村の言葉にした。
ざわめきが、波のように広がった。
「閉店時刻は、今夜の二十四時。それまでに、棚の商品を全部お売りします」
ドルムさんが、前に出てきた。
「店がなくなるのか」
「はい」
「灯は、どうなる」
「皆さんが買った商品と一緒に、村へ行きます。灯守りの皆さんが数えて、暁帳に載せてくれます」
ドルムさんは、しばらく私を見ていた。
それから、太い腕を組んだ。
「なら、全部買う」
彼は、後ろを振り返って怒鳴った。
「聞いたか。全部だ。ホロの分は、ホロが買う」
◇
その日、店は人で埋まった。
ホロ村の人たち。谷の女衆。ミルデの荷運びたち。北回りと南回りの御者たち。噂を聞いた近くの村の人たちが、夜明けから次々にやってきた。
列は、駐車場をはみ出して森の小道まで続いた。
私はレジに立った。ラディカが隣で袋詰めをした。ティルが、列の整理をした。
「いらっしゃいませ」
銅貨二枚。灯油の小瓶。
「ありがとうございました」
銅貨二枚。干し肉。
「いらっしゃいませ」
レジを打つたびに、棚が一つずつ空いていった。
不思議なことが起きた。
商品が棚から消えるたびに、店の明かりが少しずつ弱くなった。そして、商品を抱えて店を出た人の手もとで、小さな灯がともった。
灯油の小瓶が、ほんのりと光っていた。おにぎりの包みが、手のひらの中で温かく光っていた。
店の灯が、村へ運ばれていく。
丘の上で、灯守りたちが数えていた。ティルの祖母と同じ、誰にも読まれなかった灯簿を抱えて。今日からは、読まれる灯簿を抱えて。
◇
昼を過ぎたころ、列の中に見覚えのある背中があった。
日に焼けた首。太い腕。泥のはねた古いシャツ。
鷺沼さんは、黙って列に並んでいた。
前の人が会計を済ませて、鷺沼さんの番になった。
彼は、レジ台に缶コーヒーを一本置いた。
日本から持ってきた、最後の一本だった。百日目に買い占められ、大締めの夜に鷺沼さんが伝票をつけて戻してきた三つの品の一つ。微糖の缶コーヒー。賞味期限は、まだ三か月残っていた。
「百三十円です」
私は、言いかけてから直した。
「銅貨三枚です」
鷺沼さんは、ポケットから硬貨を出した。
銀貨が一枚。
レジ台に、置いた。
私は、レジを打った。ドロアが開いた。銅貨を七枚取り出して、鷺沼さんの手のひらに載せた。
「お釣りです」
鷺沼さんは、手のひらの上の銅貨を見下ろした。
それから、ゆっくりと数えた。
一枚。
二枚。
三枚。
指先で、一枚ずつ。手のひらの上で、一枚ずつ脇へ寄せながら。
四枚。五枚。六枚。
七枚。
長い時間がかかった。
レジの列の誰も、急かさなかった。
鷺沼さんは、顔を上げた。
「……合ってる」
それだけ言って、七枚の銅貨を握りしめた。
缶コーヒーをつかんで、店を出ていった。
自動ドアの外で、彼は一度だけ立ち止まった。プルタブを開ける音がした。
私は、次のお客様に頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
◇
夕方近く、戸板が列の横に運ばれてきた。
三輪さんだった。弟子の女衆が四人がかりで担いでいた。
「店長。日用品の棚に、まだあるか」
「何をですか」
「計量カップだ。プラスチックの、目盛りのついたやつ」
大締めの夜の便で戻ってきた日本の品の中に、一つだけあった。五百ミリリットルの、どこにでもある計量カップ。
三輪さんは、銅貨を二枚払った。それから、計量カップを若い女衆の手に押しつけた。昨日の昼に、水を量り忘れた女衆だった。
「お前にやる」
女衆は、目を丸くした。
「水は毎回量れ。俺がいなくなっても、量れ」
彼女は、計量カップを胸に抱えてうなずいた。カップの縁が、ほんのりと光っていた。
◇
日が沈んだ。
十四時。
昨日までなら、ここから十九時間を超える夜が始まった。今夜は、十四時間と少し。それでも、外はすぐに暗くなった。
店の明かりは、もう夕暮れの色になっていた。
棚は、ほとんど空だった。冷蔵ケースのガラスの向こうに、ぽつりぽつりと残った商品が見えるだけ。
二十時。
二十二時。
最後の灯油の小瓶が売れた。最後の干し肉が売れた。最後の電池が売れた。
二十三時十分。
鷺沼さんの荷馬車が、駐車場に入ってきた。今夜は、荷は積んでいなかった。空の荷台で、ただ店の前に止まった。
二十三時半。
定温の棚の一番前に、おにぎりが一つだけ残っていた。
谷米の、塩むすび。
列の最後に、ティルが並んでいた。
◇
ティルは、レジ台におにぎりを置いた。
それから、銅貨を三枚置いた。
どれも角の欠けた、古い銅貨だった。灯守りの家の、引き出しの奥にしまってあったものだという。
私は、おにぎりのバーコードを読み取った。
ぴっ、と音がした。
この店で、何万回と聞いてきた音だった。
「銅貨三枚、お預かりします」
ドロアが開いた。お釣りはなかった。
「ちょうど、いただきます」
私は、おにぎりを袋に入れようとした。
ティルが、首を横に振った。
「そのままで、いいです」
彼女は、おにぎりを両手で受け取った。
手のひらの中で、おにぎりがほんのりと光った。
この店の、最後の灯だった。
「店長」
ティルが、私を見た。
「わたし、最後のお客さんですか」
「うん」
「じゃあ」
ティルは、少し考えてから言った。
「ありがとうございました、って言ってください。いつもみたいに」
私は、背筋を伸ばした。
三年間毎晩、お客様に下げてきた角度で頭を下げた。
「ありがとうございました」
ティルは、笑った。
泣きながら、笑った。
◇
二十三時五十分。
棚は、空になった。
私とラディカは、レジの前に並んで立った。
最終精算。
ドロアを抜いて、カウンターの上に置いた。中身を、一枚ずつ数えた。
私が数える。ラディカが数え直す。
銅貨。銀貨。金貨。
ほかの日本の紙幣にまじって、一万円札が一枚まっすぐに伸ばして入っていた。閉店の夜の、本当の売上。
「一万円」
「一万円」
レジの精算キーを、押した。
プリンターが鳴った。
『最終精算』
『違算 なし』
私は、それを見つめた。
閉店の夜から、百十一日。
あの夜から抱えてきた違算を、ようやく締めることができた。
ラディカが、私の手の上に、自分の手を重ねた。
何も言わなかった。
◇
二十三時五十九分。
私は、レジ横のマイクを取った。
店内放送のスイッチを入れた。
空っぽの棚。夕暮れ色の明かり。開いたままの自動ドア。その外で、何百人もの人が光の四角を囲んでいた。
ホロ村の人たち。谷の女衆。御者たち。荷運びたち。グラシアさん。戸板の上の三輪さん。荷馬車にもたれた鷺沼さん。光の四角の縁に立つオルド。
おにぎりを抱えたティル。
隣に立つラディカ。
私は、息を吸った。
「ご来店中のお客様に、お知らせいたします」
ラディカが、村の言葉で同じことを言った。
「本日をもちまして、ヨアケマート東雲三丁目店は閉店いたします」
声が、少しだけ震えた。
「長いあいだのご利用、ありがとうございました」
時計の針が、重なった。
零時。
入店チャイムが、一度だけ鳴った。
ぴんぽーん。
三十一年間、何百万回と鳴ってきた音だった。
◇
最初に消えたのは、天井の明かりだった。
ふっと、ろうそくを吹き消すように。
それから、冷蔵ケースが。棚が。レジが。床のタイルが。
消えたのではなかった。
光の粒になって、ほどけていった。
細かな光の粒が、ゆっくりと夜空へ昇っていった。何百、何千、何万。蛍の群れのように森の上へ、丘の上へ、村々のほうへ散っていった。
私の手の中で、マイクが軽くなった。光になって、指のあいだからこぼれていった。
足もとの床が、なくなった。
気がつくと、私は土の上に立っていた。
草の匂いがした。
森のはずれの、ただの空き地だった。
駐車場も自動ドアも看板も、何もなかった。この世界で白い四角を落としてきた店は、どこにもなかった。
人々が、言葉もなく空を見上げていた。
光の粒は、もう見えなかった。
村々の窓に、灯がともっていた。
◇
私の右手に、何かが残っていた。
開いてみた。
検印だった。
日本から持ってきた、本物の検印。ヨアケマート東雲三丁目店と彫られた、使い込んだ朱肉の染みた印。ドルムさんが真似て彫った木の印ではなく、この世界に来る前から私のエプロンに入っていたほうだった。
それだけが、光にならずに残っていた。
私は、足もとを見た。
レジがあった場所の、土の上。
小さな四角いくぼみがあった。
ドロアの形をしていた。
三十一年間、毎晩、誰かがお金を数えてきた場所。
私は、膝をついた。
そのくぼみに、手のひらを当てた。
土は、まだ少しだけ温かかった。毎晩数えられてきた硬貨の重みが、そこに残っているようだった。
涙が、出た。
止まらなかった。
二十年間、レジの前で一度も泣かなかった。違算が出ても、怒鳴られても、自分の財布を開けるときも。
その全部の分が、いっぺんに出てきたみたいだった。
誰かが、隣にしゃがんだ。
ラディカだった。
彼女は、何も言わずに私の背中に手を置いていた。
長いあいだ、そうしていた。
やがて、私の涙が少し落ち着いたころ。
ラディカが、いつもの声で言った。
三年間、深夜のバックルームで何百回と聞いてきた、いつもの声で。
「店長、明日のシフト、どうしますか」




