第二十四章 開店
【本夜 十二時間四十分】
王都の暁の祭壇で、暁帳の最後の行にその字が浮かんだのは、閉店から三百夜目の朝だった。
オルドが読み上げ、祭壇の灯守りが光で丘へ送った。丘から丘へ、灯守りから灯守りへ。日が昇りきる前に、王国じゅうの村がその数を知った。
十二時間四十分。
夜と昼が、ほとんど同じ長さになっていた。
灯のともる村は、百二十を数えた。ゼロと記された村のいくつかにも、人が戻りはじめていた。
◇
朝六時十一分。
ミルデの物流センターの前に、荷馬車が十八台並んでいた。
旧穀物倉の壁は白く塗り直され、入口の上に木の看板がかかっていた。ドルムさんの彫った字で、『灯屋 ミルデ集配所』とあった。
灯屋。
店が消えたあと、村の人たちが自分で始めた店の名前だ。灯油とおにぎりと、干し肉と日用品。小さな棚と、木のドロアと、二人一組の検品。ホロ村に一軒目ができて、三百夜で九軒になった。
センターの頭は、バルドさんだった。
半分欠けた耳に羽根ペンを挟んで、荷台の前を行ったり来たりしていた。
「北の三便、積み込み終わり。南の二便、あと四箱」
若い荷運びたちが、木箱を数えながら走り回っていた。箱の蓋に、白いチョークで数字が書いてある。持ち出した数と、持ち帰った数。オリコンと同じだ。
倉の奥では、グラシアさんの弟子たちが木箱に手をかざしていた。温める箱。冷やす箱。凍らせる箱。そのどれでもない、ぬるい箱。四つの温度帯は、三百夜のあいだに弟子の弟子まで受け継がれていた。グラシアさん本人は、膝掛けを巻いて入口の椅子に座り、空模様を膝で読んでいた。
「明後日は冷えるよ。汁物を多めに積みな」
集配所の壁には、ドルムさんが組んだ振り子時計が掛かっていた。灯屋の時刻は、みなこれに合わせている。
バルドさんが、うなずいて帳面に書きつけた。
「店長」
バルドさんが、私を見つけて手を上げた。
私は、もう店長ではない。
店はない。九軒の灯屋には、それぞれの店長がいる。私の仕事は、その九軒を回って帳簿を見ることだった。困っていることを聞いて、次の手を一緒に考える。
日本のコンビニでは、この仕事をスーパーバイザーと呼ぶ。略してSV。自分では店を持たず、何軒もの店を受け持って巡回する。店長の相談相手であり、本部と店のあいだの通訳でもある。
それでも、誰も私をSVとは呼ばなかった。
バルドさんも、ラディカも、ティルも。
みんな、私を店長と呼んだ。
◇
南回りの一便は、六時十一分ちょうどに出た。
御者台には、鷺沼さんが座っていた。
配送の長。それが、今の鷺沼さんの肩書きだった。十八台の荷馬車と、三十人の御者を束ねている。三百夜のあいだの定刻率は、九十八パーセント。
私は、その隣に座らせてもらっていた。今日は、南回りの灯屋を見て回り、夜はホロ村の灯屋に泊まる日だった。三百夜のあいだに、私の片言も少しはましになっていた。
荷馬車は、森の道を走った。
ところどころの村で止まり、鷺沼さんが荷を下ろした。灯屋の店員が木箱を受け取る。二人で数える。伝票に割印を押す。半分が店に残り、半分が鷺沼さんの胸ポケットに入る。
南回りの四つ目の村で、鷺沼さんはいつも少しだけ長く止まった。
戸口に、白髪の女の人が立っていた。王都の門番の母親だった。鷺沼さんが灯油の小瓶を一本渡すと、彼女は銅貨を二枚数えて渡した。
鷺沼さんは、それを手のひらで一枚ずつ数えた。
「合ってる」
それだけ言って、荷馬車に戻った。
◇
昼前に、ミルデへ戻った。
集配所の前で、若い御者が一人、青い顔をして立っていた。北の二便を走らせた御者だった。予定より二十分遅れて戻ってきたのだ。
鷺沼さんは、荷馬車から降りた。
若い御者は、身を縮めた。
私は、思わず息を詰めた。
鷺沼さんは、怒鳴らなかった。
御者台の脇に吊るした配送日誌を、黙って開いた。
「何があった」
「あの、三つ目の村で……灯屋の検品で、箱が一つ足りないって言われて」
「足りなかったのか」
「いえ。二人で数え直したら、荷台の奥に一つ残ってました。でも、それで遅れて」
鷺沼さんは、日誌に何か書きつけた。
それから、若い御者に日誌を向けた。
『北二便 二十分遅れ。原因 積み込み時に荷台奥へ置き残し。数え直しにより判明。御者に責なし』
若い御者が、目を丸くした。
「積み込みの連中には、奥から数えろと言っとく。お前は悪くねえ」
鷺沼さんは日誌を閉じ、私のほうを見もせずに歩いていった。
私は、その背中を見送った。
二十六年と、三百夜。
あの人は、ようやく数える側になった。
◇
集配所の二階は、教室になっていた。
窓から、ラディカの声が聞こえてきた。
「いらっしゃいませ。はい、もう一度。いらっしゃいませ」
十人ほどの若者が、声を合わせていた。灯屋の新しい店員たちだった。
ラディカは、教室を二つ持っていた。昼は接客と検品を教える。夜は言葉を教える。私の国の言葉と、この国の言葉。灯屋の店員にも、王都から来た商人にも、灯守りの子どもたちにも。
通訳志望の専門学校生だった彼女は、今では王国で一番の通訳だった。オルドが他国の使者と会うときも、ラディカが呼ばれる。
彼女は、私に気づいて手を振った。
それから、生徒たちに向き直った。
「お釣りを渡すときは、必ず声に出して数えてください。お客様と一緒に数えるんです」
黒板に、大きな字で書いてあった。
『違算は、隠すと育つ』
◇
授業が終わると、ラディカは階段を下りてきた。
彼女は、エプロンのポケットから折りたたんだ紙を出した。薄い紙に、私の読めない字がびっしりと並んでいた。カトマンズの母親への手紙だった。
「今季の分です」
ラディカは、それを私のエプロンのポケットに差し込んだ。前の季節の手紙を抜き取って、自分のポケットにしまう。三百夜のあいだに、四回目の入れ替えだった。
「店長がいつか帰ることがあったら、出してください」
この世界に来た夜、ラディカは母親のメッセージに返信できなかった。あの日から、彼女は季節ごとに手紙を書き直している。元気です。ちゃんと数えています。毎回、最後の一行は同じだという。
「わたしと三輪さんは、もう暁帳に名前を書いてもらいました。この国の人として」
ラディカは、私の顔をのぞき込んだ。
「店長は、まだですよね」
「……うん」
オルドが、閉店のあとで申し出てくれたことだった。この国に残るなら、住む者として暁帳に記そう、と。三輪さんも、ラディカも、鷺沼さんも書いた。
私だけが、まだ書いていなかった。
理由は、自分でもよく分からなかった。
「急がなくていいです」
ラディカは笑った。
「店長の帳簿ですから。店長が締めてください」
◇
集配所の裏手に、二つ目の炊飯所ができていた。
釜は、谷の六つと合わせて十二になっていた。湯気の向こうで、三輪さんが椅子に腰かけていた。
背中は、まだ少し丸まったままだった。それでも、目だけは三百夜前と同じだった。
「おい、量ったか」
三輪さんの声が飛んだ。
若い女衆が、慌てて升を構え直した。その腰に、プラスチックの計量カップがぶら下がっていた。目盛りの数字がすり減って、ほとんど読めなくなっていた。
「量りました」
「何回目だ」
「今日、十二回目です」
「よし」
三輪さんは、私に気づいて顎をしゃくった。
「店長。この娘が、来月から谷の炊飯所の頭だ」
「おめでとうございます」
女衆は、真っ赤になって頭を下げた。
三輪さんは、ふんと鼻を鳴らした。
「俺がいなくても回るようにするのが、俺の仕事だからな」
◇
ホロ村に着いたのは、十五時半の日没を過ぎてからだった。
丘の上の灯守りの家の窓に、灯がともっていた。今では、丘の上に立つのはティルではなかった。彼女のいとこの、十二歳の男の子だった。
丘のふもとに、灯屋ホロ村店があった。
一軒目の灯屋。
木の棚が四列。灯油の小瓶。谷米の塩むすび。干し肉。ろうそく。麻の袋。ドルムさんの彫った木のドロアが、カウンターの上に置いてあった。
店の前には、ランプが一つ吊るしてあった。
この店は、夜通し開いている。
二十四時間。
日本のコンビニと同じように。
一時を過ぎたころ、客が一人来た。
夜の便を終えた御者だった。塩むすびを一つと、灯油の小瓶を一つ。
ティルは、銅貨を受け取ってドロアを開けた。
「お釣り、銅貨二枚です。一、二」
声に出して、御者の手のひらに一枚ずつ置いた。御者も、一緒に口の中で数えていた。
「ありがとうございました」
御者は、ランプの下を通って夜道へ出ていった。手に提げた灯油の小瓶が、小さく揺れていた。
◇
深夜三時十分。
客は、もう来ない時間だった。
私は、バックルームで帳簿を見ていた。ティルが、カウンターで夜の精算をしていた。
十七歳だった灯守りの末っ子は、十八になっていた。灯屋ホロ村店の、店長だった。
ドロアを抜く音がした。硬貨を数える音がした。銅貨。銀貨。帳簿をめくる音。
それから、音が止まった。
しばらく、何も聞こえなかった。
「店長」
ティルの声だった。
私は、バックルームから顔を出した。
ティルは、カウンターの前に立っていた。帳簿と硬貨の山を前にして、眉を寄せていた。
「違算です」
彼女は、まっすぐに私を見て言った。
「マイナス、銅貨十枚」
◇
私の手が、エプロンのポケットに伸びた。
財布があった。小さな布の袋。中に、銅貨と銀貨が何枚か入っていた。
銅貨十枚。
銀貨一枚分。
それくらいなら、今すぐ埋められる。誰にも気づかれずに。ティルを困らせずに。精算を終わらせて、二人で眠れる。
指先が、布の袋に触れた。
二十年間、毎晩そうしてきた指だった。
私は、手を止めた。
ゆっくりと、ポケットから手を出した。
空の手で、カウンターの前に立った。
「一緒に探そう」
ティルの顔が、ぱっと明るくなった。
「はい」
◇
二人で、探した。
床の上。棚の下。カウンターの隅。今日の売上の控え。釣り銭の袋。
私が一つずつ指さし、ティルが一つずつ確かめる。ティルが見たところを、私がもう一度見る。
売上の控えは、合っていた。釣り銭の袋も、合っていた。床にも棚の下にも、何もなかった。
ティルが、ドロアを持ち上げた。
木のドロアの中に、仕切りのトレーが入っている。ドルムさんが、日本のレジのドロアを真似て作ったものだ。
ティルは、トレーを持ち上げた。
その下の板の上に。
トレーの縁と板のあいだの、細い隙間に。
銀貨が一枚、はさまっていた。
ティルが、息を呑んだ。
それから、指先でそっとつまみ上げた。銀貨は、ランプの光を受けて小さく光った。
「……ありました」
彼女は、銀貨を帳簿の上に置いた。
数え直した。
「銅貨十枚分。違算、ゼロです」
ティルが、私を見た。
笑っていた。
私も、笑っていた。
◇
私は、エプロンのもう一つのポケットに手を入れた。
検印を出した。
日本から持ってきた、本物の検印。ヨアケマート東雲三丁目店と彫られた、使い込んだ朱肉の染みた印。三百夜のあいだ、ずっとエプロンの中に入れて持ち歩いていた。
それを、ティルの手のひらに載せた。
「これ、あげる」
ティルが、目を見開いた。
「でも、これ、店長の」
「もう店長じゃないよ」
私は言った。
「店長は、あなた」
ティルは、手のひらの上の検印を見下ろした。
長いあいだ、黙っていた。
それから、帳簿の今日の頁を開いた。精算の欄の最後に、違算ゼロと書いた。
その横に、検印を押した。
朱色の丸が、紙の上にくっきりと残った。
◇
店の外に出た。
夜明けまで、まだ少しあった。
丘の上で、灯守りの男の子が灯を数えていた。その向こうの丘でも。そのまた向こうの丘でも。百二十の村の、百二十人の灯守りが、今夜も誰かの灯を数えていた。
私は、手提げのランプに火を移して、森のほうへ歩きだした。
足が、勝手にそちらへ向いていた。
◇
森のはずれに、小さな空き地があった。
草が膝の高さまで伸びていた。駐車場の白線も、看板の柱も、何も残っていない。ただの森の切れ目だった。
その真ん中に、ランプが一つ置いてあった。
木の台の上に、ガラスの火屋をかぶせた灯油ランプ。足もとの草が、四角く刈り取られていた。ちょうど、ドロアくらいの大きさに。
台の脇に、小さな札が立っていた。ドルムさんの字だった。
『東雲三丁目 灯 一』
誰かが、毎晩ここに灯をともしていた。誰かが、毎晩ここで数えていた。そして暁帳には、一つの村の灯として記されていた。
ランプの灯が、刈り取られた四角い草地を照らしていた。
ドロアの形をした、小さなくぼみ。三百夜前に、私が泣いた場所。
私は、その前にしゃがんだ。
くぼみの底の土に、何か白いものが見えた。
最初は、枯れ葉だと思った。
指で、土を払った。
黄ばんだ、小さな紙切れだった。
土の色がしみて、角が丸くすり切れていた。それでも、印字は読めた。電力会社の名前の欄。金額の欄には、七千八百二十四円。そして、半分に切れた店の検印。
お客様から預かった、公共料金の控え。
二十六年前の夜、なくなった一枚だった。
息が止まった。
閉店の夜、店は光の粒になってほどけた。棚も、レジも、ドロアも。光にならずに残ったのは、日本から持ってきた検印だけだと思っていた。あの夜は暗かった。くぼみの底の土の下までは、見えなかった。
どの帳簿にも載っていないものは、光にならない。
この控えも、そうだったのだ。店の帳簿からも、母の記録からも外されて、二十六年間どこにも数えられないまま。
ドロアの底に、ずっと挟まっていたのだろう。トレーの下の、さらに下。月に一度トレーを外して拭いても、底板までは誰もめくらない。レジが新しくなっても、ドロアの箱だけは三十一年間使い回してきた店だった。
私は、紙切れを裏返した。
裏に、鉛筆の走り書きがあった。かすれて、半分消えかけていた。
『両替 二五〇〇〇 金庫へ』
その横に、小さな認印が押してあった。
先代のオーナーの名字だった。
私は、長いことその字を見ていた。
あの夜、オーナーは釣り銭を両替するために、ドロアから二万五千円を金庫へ移したのだ。手近にあった控えの裏にメモを書いて、ドロアに放り込んだ。帳面には、書かなかった。
控えは、底板の継ぎ目に落ちた。
二万五千円は、金庫の中にあった。
誰も、数え直さなかった。
「……お母さん」
声に出して呼んだのは、何年ぶりだろう。
「とってなかったね」
返事はなかった。ランプの炎が、少しだけ揺れた。
母は、二年前に死んだ。最後まで、あの夜のことは口にしなかった。私も、聞かなかった。聞いたら、母が本当にとったのかもしれないと、一度でも思ったことになる気がしたから。
涙が、勝手にこぼれた。
止めようとしなかった。
十三歳の夜から、私は母の違算を埋めてきた。合わない夜は自分の財布を開けて、黙って足して、ノートに書いた。そうすれば、母の分を少しずつ返している気がした。
返す相手は、どこにもいなかったのに。
◇
ランプの炎を見ているうちに、もう一つのことに気づいた。
どの帳簿にも載っていないものは、光にならない。
検印。控え。
それから、私。
三輪さんもラディカも鷺沼さんも、暁帳に名前を書いた。この国の灯として数えられることを選んだ。
私だけが、書かなかった。
書けなかったのだと、今わかった。二十六年前の夜の違算を抱えたまま、新しい帳簿に自分の名前を書くことが、私にはできなかったのだ。
帳簿の外の灯。
最後の一つは、私だった。
◇
森の奥で、低いエンジンの音がした。
この世界にはないはずの音だった。
木々のあいだに、白い光が二つ浮かんだ。トラックのヘッドライトだった。光は近づきもせず、遠ざかりもせず、ただそこで待っていた。
迎えの便だ、と思った。
理由は分からない。でも、分かった。帳簿の外の灯は、返すか、数えてもらうか。どちらかにしなければ締まらない。返す便が、来たのだ。
定時便は、決まった時刻に来て、決まった時刻に出る。乗らなければ、置いていく。
私は、白い光を見た。
あの向こうには、店の消えた東雲三丁目の角がある。母の写真を立てた、小さなアパートの部屋がある。毎朝水を替える人がいなくなって、写真の前のコップはもう乾いているだろう。
それだけだった。
向こうで私を待っている帳簿は、もう一冊もなかった。
私は、振り返った。
丘の上に、灯がともっていた。その向こうの丘にも。そのまた向こうの丘にも。一つ一つが、今夜誰かに数えられた灯だった。
ミルデの集配所では、もうすぐバルドさんが朝の荷を積みはじめる。鷺沼さんは六時十一分の便の日誌を開く。集配所の裏の炊飯所では、計量カップを腰に下げた娘が、今日一回目の水を量る。
九軒の灯屋の帳簿が、私を待っていた。
そのとき、後ろで草を踏む音がした。
「店長!」
ティルだった。
息を切らしていた。店番を隣の家の娘に頼んで、追いかけてきたのだ。胸に、灯屋ホロ村店の帳簿を抱えていた。
ティルは、私の手の中の紙切れを見た。森の奥の白い光を見た。
灯守りの家の子は、それだけで分かったようだった。
「……行っちゃうんですか」
ティルの声が、震えていた。
私は、首を横に振った。
「明日のシフト、まだ一緒に組んでないから」
ティルが、目を見開いた。
それから、泣きそうな顔のまま笑った。
「店長らしいです」
◇
「ティル」
私は言った。
「私を、数えてくれる?」
ティルは、しばらく私の顔を見ていた。
それから、帳簿を開いた。
今日の頁。さっき、違算ゼロと書いて検印を押した精算の欄の下に、空いた行があった。ティルは、ペンを取った。
『東雲三丁目 小野寺律 一』
ゆっくりと、一字ずつ書いた。
それから、エプロンのポケットから検印と、小さな朱肉の缶を出した。検印は、精算のあとで私が渡したばかりの印だった。
ティルは、帳簿の頁の端を折って重ねた。その境目に、検印を押した。
朱色の円が、紙の上で二つに分かれた。
半分は、頁の本体に。半分は、折り返した端に。
ティルは、折った端を丁寧に切り取った。それを、私の手のひらに載せた。
「控えです」
彼女は、少しだけ得意そうに言った。
「なくさないでください。半分ずつ持っていれば、誰もあとから数を変えられません。明日の便で、ミルデの出張所にも届けます。暁帳に写してもらいます」
私は、手のひらの上の小さな紙片を見下ろした。
半分の円。
この世界に来て最初の週に、フィナさんが羊毛の袋の一番奥にしまったのと同じ形だった。
ランプの炎が、ふっと大きくなった。
『東雲三丁目 灯 一』と書かれた札の横で、炎はまっすぐに立っていた。
「これで、帳簿の外の灯は、ゼロです」
ティルが言った。
◇
私は、エプロンのポケットに手を入れた。
ラディカの手紙が、四つ折りのまま入っていた。
私は、白い光のほうへ歩いた。ヘッドライトの手前に、苔むした切り株が一つあった。光の輪の、ちょうど縁だった。
その上に、手紙を置いた。
宛名は、ラディカの字で書いてある。私には読めない字だ。でも、カトマンズの母親の名前だということは知っていた。
定時便なら、荷を一つくらいは積んでいくだろう。
私は、切り株の前で頭を下げた。
三年間毎晩、ドライバーさんたちに下げてきた角度で。
「お願いします」
エンジンの音が、低く遠ざかった。ヘッドライトの白が、夜明けの白に溶けていった。
切り株の上には、何も残っていなかった。
森は、ただの森に戻った。
◇
東の空が、明るくなっていた。
私は、ポケットから大学ノートを出した。
表紙の角が丸くすり切れた、厚いノート。十三歳の夜から、二十六年。
最後の頁の、最後の行の下に、一行書いた。
『二十六年前 公共料金控え一枚 原因判明。控えはドロア底板の継ぎ目。不足は先代オーナーの両替。記帳もれ。小野寺静江に責なし』
その頁に、黄ばんだ控えを挟んだ。ティルがくれた半分の円も、隣に挟んだ。
それから、ノートを閉じた。
締めて閉じたのは、二十六年間で初めてだった。
ティルが、隣に立っていた。
朝の光の中で、ティルは帳簿を胸に抱えたまま、私を見上げた。
「店長」
「うん」
「明日のシフト、どうしますか」
私は、少しだけ考えた。
「三時十分から。二人で」
ティルは、笑った。
「了解です」
私たちは、ホロ村へ続く道を歩きだした。
背中で、ランプの灯が小さく揺れていた。
◇
コンビニは、夜通し開いている。
それを、誰もが当たり前だと思っている。棚にはいつも商品が並び、レジにはいつも人がいて、扉はいつも開いている。
その当たり前の裏で、誰かが荷を積んで運んでいる。誰かが受け取って数えている。誰かが水を量り、誰かが棚を揃え、誰かがドロアの隙間をのぞき込んでいる。
この世界でも。
あの世界でも。
今夜も、丘の上で灯守りが灯を数えている。ミルデの集配所で、鷺沼さんが配送日誌を開いている。谷の炊飯所で、誰かが水を量っている。
そして、灯屋ホロ村店の帳簿の片隅に、一つの灯が記されている。
『東雲三丁目 小野寺律 一』
誰も見ていないところで。
誰にも褒められないところで。
便利とは、誰かが今夜も、あなたの代わりに数えていることだ。




