第二十一章 定時定ルート
馬車は、灯守りの家の前で止まった。
松明を持った兵が、左右に十人ずつ並んだ。鎧の金具が、火の色を跳ね返していた。
扉が開いた。
降りてきたのは、大司教オルドだった。
白い長衣の裾が、ぬかるんだ土に触れた。御用達の儀の夜に見たときより、ずっと痩せて見えた。六十一歳の頬の肉が、松明の影で削げ落ちていた。
丘の上の人々が、息を詰めた。ホロ村の人たちも、谷の女衆も、知らない村の人たちも。
オルドは、私の前まで歩いてきた。
「主殿」
その声は、静かだった。
「今宵が大締めであることは、ご存じだろう」
「はい」
「関所は閉じてある。荷は来ない。店の灯も、戻らない」
オルドは、丘の下の暗い店を見た。
それから、懐から一枚の羊皮紙を出した。
「最後の申し出をしに来た」
◇
羊皮紙には、教会の紋章の封蝋が押されていた。
オルドが、それを広げた。
「店の灯を、教会の灯として暁帳に記す」
彼は、ゆっくりと言った。
「店の灯は、ひと晩で千のランプに勝る。それを教会の灯に加えれば、帳尻は合う。暁帳の違算は消え、帳主は締めを承認なさる。夜は明ける」
丘の上が、ざわめいた。
「代わりに、関所を開けよう。荷は今すぐ通す。消した三十の村も、布告を取り下げて便に戻そう。店は教会の御用達として、これまでどおり商いを続ければよい」
オルドは、羊皮紙の下に羽根ペンを添えた。
「名前を書くだけだ」
私は、羊皮紙を見下ろした。
帳尻合わせ。
足りない数を、別のところから持ってきて埋めることだ。会計の世界では、付け替えとも言う。ある帳簿の穴を、別の帳簿の余りで塞ぐ。表の数字は、ぴたりと合う。
合うだけだ。
穴は、消えたわけではない。別の帳簿に移っただけだ。
それでも。
関所が開く。荷が届く。店の灯が戻る。消された三十の村が、便に戻る。夜が明ける。
今夜、ここにいる全員が救われる。
私の手が、羽根ペンに伸びた。
指先が、軸に触れた。
冷たかった。
「店長」
小さな手が、私の手首をつかんだ。
ティルだった。
丘のてっぺんから、いつのまにか降りてきていた。指先にはまだ、豆粒ほどの灯がともっていた。
「店長、それ、穴埋めです」
私は、ティルの顔を見た。
十七歳の灯守りの末っ子は、まっすぐに私を見返していた。
「店長が、教えてくれたんです。違算は、隠すと育つって。原因を探さずに埋めたら、穴は次の人のところへ行くって」
ティルの指が、私の手首に食い込んだ。
「店の灯で埋めたら、次は店が足りなくなります。そしたら、また誰かが埋めるんです。三百年、ずっとそうだったみたいに」
私は、羽根ペンから指を離した。
ゆっくりと。
一本ずつ。
それから、オルドに向き直った。
「お断りします」
オルドは、しばらく黙っていた。
「ならば、夜は明けぬ」
「明けるかどうかは、締めてみないと分かりません」
私は言った。
「数えた数で、締めます」
◇
丘の上で、誰も動かなかった。
オルドは羊皮紙を巻き、懐に戻した。それから、兵の一人に何か言った。兵たちが、松明を掲げ直した。
「見届けよう」
オルドは言った。
「零時に、店のレジが何を刷るのかを」
私は、丘を下りはじめた。
ティルとラディカが、ついてきた。その後ろに、ホロ村の人たちが続いた。オルドと兵たちの松明が、最後尾で揺れていた。
森の小道は、暗かった。夜喰いの気配が、木々のあいだで身じろぎした。ティルが指先の灯を高く掲げると、気配は少しだけ遠のいた。
店に着いた。
自動ドアは、開いたまま止まっていた。百日目の日暮れから、ずっと。
私は、中に入った。
暗い店内に、空っぽの棚が並んでいた。冷蔵ケースのガラスに、ティルの小さな灯が映った。
レジの前に、立った。
営業中の灯には、三つの条件がある。レジに人がいること。棚に商品があること。扉が開いていること。
レジには、私がいる。
扉は、開いている。
足りないのは、商品だけだった。
ティルが、私の隣に来た。指先の灯を、出入口の上の壁へ向けた。
丸い時計が、小さな光の中に浮かび上がった。
電池で動く、安物の掛け時計。三十一年間、この店の時間を刻んできた時計だった。
秒針が、動いていた。
二十二時四十一分。
◇
待った。
ホロ村の人たちは、店の外で息を潜めていた。オルドは、兵に囲まれて駐車場の端に立っていた。ラディカは、バックルームの戸口に寄りかかっていた。
二十二時五十分。
二十二時五十五分。
時計の秒針の音だけが、暗い店内に響いていた。
ドライバーが来ない夜を、私は何度も知っていた。
雪の日。事故で道が止まった日。センターの積み込みが遅れた日。そういう夜、店長はレジの前で待つしかない。来ない便を責めても、便は来ない。
だから、日誌に書く。何時に来たか。なぜ遅れたか。誰の責任か。
二十三時。
ラディカが、小さく息を吐いた。
「店長」
「うん」
「来ますか」
私は、答えられなかった。
ミルデから店までは、荷馬車で半日の道だ。夜の道なら、もっとかかる。夜喰いが出る。灯のない森を、何時間も走らなければならない。
関所が閉じていれば、そもそも出発できない。
ティルが、時計に灯を向けたまま言った。
「店長。外」
私は、顔を上げた。
◇
自動ドアの向こう。
駐車場の先の、南の道。
森の奥で、灯が揺れていた。
一つ。
二つ。
三つ。
荷馬車の御者台に下げた、ランプの灯だった。
ホロ村の人たちが、ざわめいた。誰かが、走り出した。
灯は、森の暗がりから一つずつ抜け出してきた。荷馬車が三台。車輪の音が、地面を伝わって店の床まで響いてきた。
先頭の荷馬車の御者台に、二人の男が座っていた。
一人は、バルドさんだった。半分欠けた耳が、ランプの光の中に見えた。
手綱を握っていたのは、もう一人のほうだった。
金糸の外套は、着ていなかった。泥のはねた古いシャツ。太い腕。日に焼けた首。
鷺沼さんだった。
荷馬車は、駐車場を横切った。店の前で、ゆっくりと止まった。馬が鼻を鳴らした。
鷺沼さんは、御者台から飛び降りた。
その動きが、あまりに慣れていた。荷台の後ろへ回り、留め金を外す。その手つきを、私は知っていた。三年間、毎晩見てきた。二十三時十分に裏の搬入口へ着く、定温便のドライバーたちの手つきだった。
鷺沼さんは、自動ドアの前に立った。
それから、店の中の私に向かって言った。
「定温便です」
ティルの灯が照らす時計の針は、二十三時十分を指していた。
◇
あとから、バルドさんが話してくれた。
ミルデの丘の灯が消された少しあとに、鷺沼さんは大橋に現れたのだという。王都から、馬を替えながら一人で駆けてきたらしい。
関所の兵は、槍を交差させた。
鷺沼さんは、懐から教会の通行証を出して掲げた。客人の印が押された、銀の札だった。
「定時便だ。通せ」
兵は顔を見合わせ、槍を引いた。客人の札に逆らえる兵は、いなかった。
鷺沼さんは、バルドさんの荷馬車の御者台に上がった。
「どけ。俺が引く」
バルドさんは、手綱を渡した。なぜ渡したのか、自分でも分からないと言った。
「あの男の手を見たらな。荷を運んできた手だった」
荷馬車は、大橋を渡った。
日はもう沈んでいた。森の道は、闇に呑まれていた。
それでも、道は見えたのだという。
「灯が、ともってたんだ」
バルドさんは、そう言った。
「村という村に。今夜は、どの村でも、ランプを全部ともして数えてたろう。扉に白い糸を結んだランプが、窓という窓に並んでた。それが、道しるべになった」
鷺沼さんは、灯から灯へ荷馬車を走らせた。村の灯が見えるうちは、夜喰いは寄ってこない。灯の切れ目では、馬に鞭を入れて駆け抜けた。
一度だけ、鷺沼さんは荷馬車を止めた。
南回りの四つ目の村の前だった。
彼は荷台から灯油の小瓶を一本降ろし、村の入り口の家の戸口に置いた。
「どこかの門番のお袋さんの家だ、とか言ってた」
バルドさんは、首をかしげた。
「伝票にない荷を降ろすなって言ったらな。あいつ、自分の金で払うって、銅貨を置いてった」
◇
「検品、お願いします」
鷺沼さんが、店の前で言った。
その声は、二十六年前の運転手の声だった。
私は、レジを出た。
暗い店内を歩いて、自動ドアをくぐった。荷馬車の後ろに、木の箱が積まれていた。ドルムさんたちが作った、折りたためる木箱だった。蓋に、ミルデのセンターの焼き印が押してあった。
鷺沼さんが、納品伝票を差し出した。
ランプの光で、私はそれを読んだ。
『ミルデ発 東雲三丁目店行 二十三時十分便』
『おにぎり 谷米塩 三百』
『灯油 小瓶 百二十』
『干し肉 六十』
『根菜汁の素 四十』
『日本の品 戻り 三』
『箱 十二』
「箱を、数えます」
私が言うと、鷺沼さんは一瞬だけ動きを止めた。
それから、荷台の上の箱に手をかけた。
「一緒に、数えてくれ」
「はい」
私と鷺沼さんは、荷台の両側に立った。
一つ。
二つ。
三つ。
鷺沼さんが箱を下ろし、私が数える。私が数えた箱を、鷺沼さんがもう一度数える。
十一。
十二。
「十二です」
「十二だ」
二人の声が、重なった。
鷺沼さんは、最後の箱を地面に置いた。そのまま、しばらく手を離さなかった。
箱の蓋の上で、太い指がかすかに震えていた。
私は、見ないふりをした。
それから、箱を一つずつ開けて、中身を伝票と照らし合わせた。おにぎりの数。灯油の小瓶の数。干し肉の包みの数。最後の小さな箱には、見覚えのある日本の品が三つ入っていた。缶コーヒーが一本。電池が一パック。計量カップが一つ。百日目に買い占められた品を、鷺沼さんが王都から鞍に括りつけてきたのだという。
全部、合っていた。
「検品、終わりました」
私は言った。
「ラディカ」
ラディカが、店の中から飛び出してきた。
彼女は、店の前に集まった人たちに向かって、大きく息を吸った。四年間、深夜のレジで鍛えた声だった。
「品出し、始めます! 二人一組! 数えてから、並べてください!」
ホロ村の人たちが、一斉に動いた。
箱が運ばれていく。おにぎりが、定温の棚に並べられていく。灯油の小瓶が、レジ横の棚に並べられていく。ラベルを手前に向けて。一つずつ。
フェイスアップ。
ティルが、教えた人たちだった。数えてから揃える。揃えてから、次の棚へ。
ラディカが、レジの中に戻った。最後の一つを、ティルが定温の棚の一番前に置いた。
谷米の、塩むすび。
◇
最初に光ったのは、冷蔵ケースだった。
ガラスの奥で、白い光がまたたいた。一度。二度。
それから、天井の蛍光灯が端から順にともっていった。ばちん、ばちん、と音を立てて。レジの画面に、緑の文字が浮かんだ。冷蔵ケースのモーターが、低くうなりはじめた。
止まっていた自動ドアのセンサーに、小さな赤い光がともった。
店の前の地面に、白い四角が落ちた。
十日ぶりの、光の四角だった。
ホロ村の人たちが、声を上げた。誰かが泣いていた。誰かが笑っていた。光の四角の中に、子どもたちが駆け込んだ。
森の暗がりで、夜喰いの気配が後ずさった。
レジの中から、ラディカが私を見た。目が赤かった。
「店長。灯、戻りました」
「うん」
私の声も、かすれていた。
◇
鷺沼さんは、荷馬車の脇に立っていた。
空になった荷台。折りたたまれた十二の木箱。
彼は、ポケットから紙を一枚出した。納品伝票の控えだった。
「サインくれ」
鷺沼さんは、ぶっきらぼうに言った。
「受け取ったって印がないと、運んだことにならねえ」
私は、エプロンのポケットから検印を出した。
この世界に来て間もないころに、ドルムさんが日本の検印を真似て彫ってくれたもの。円の中に、店の名前と日付が刻んである。紙の境目に押せば、円は二つの半円に分かれる。
伝票の控えと、店に残す伝票を重ねた。その境目に、印を押した。
割印。
半分は、鷺沼さんの控えに。
半分は、店の伝票に。
それから、私は配送日誌を開いた。百日目の朝から、一行も書かれていなかった頁。
『二十三時十分便 定刻着』
ペンを止めて、少し考えた。
それから、一行足した。
『検品 異常なし。箱 十二 すべて回収』
鷺沼さんは、横からその字をのぞき込んでいた。
長いこと、何も言わなかった。
「……定刻か」
「はい。定刻です」
鷺沼さんは、伝票の控えを二つに折った。胸のポケットにしまった。ポケットの口から、折りたたんだ五千円札の端がのぞいていた。
彼は、私に背を向けた。
荷馬車の車輪に手をかけて、それきり動かなかった。肩が、一度だけ大きく上下した。
私は、店の中に戻った。
◇
レジの画面を見た。
『二十三時三十八分』
その下に、見たことのない文字が出ていた。
『暁帳 大締めまで 二十二分』
自動ドアの向こうで、松明の列が揺れた。
オルドが、光の四角の縁に立っていた。白い長衣が、店の光に照らされていた。
彼は、店の中に入ってこなかった。
ただ、レジの前の私を、じっと見ていた。
零時まで、あと二十二分。




