第二十章 棚卸
灯守りの家の壁に、大きな紙が貼られていた。
古い布地を何枚も縫い合わせた上に、村の名前がびっしりと並んでいた。百六十一。一つずつ、横に小さな丸が描いてあった。
「暁帳に載っている村の、全部です」
ティルが言った。
「ミルデの徴税吏さんが、写させてくれました。出張所の控えを、夜のあいだだけ」
あの徴税吏だ。半円の受領証を、真似してくれた人。
「捕まったら、困るんじゃないの」
「困るって言ってました。でも、数えるほうが先だって」
ティルは、紙の端を指でなぞった。丸の中に、ところどころ印がついていた。
「印のついた村には、もう人が入っています。六日かけて、出ていきました。遠い村から先に」
私は、その紙を見上げた。
百六十一の村。
七十二の村は、定時便で回っていた村だ。そのうち三十は、教会の布告で消された。残りの八十九は、便も届かない山の奥や、川の向こうの村だった。
「誰が、行ったの」
「灯守りの家の人たちです」
ティルの声が、少しだけ弾んだ。
「おばあちゃんだけじゃなかったんです。三百年前に仕事がなくなっても、こっそり数え続けてた家が、ほかにもありました。十九軒。北の山に七軒、川向こうに五軒」
彼女は、壁の紙の脇に積まれた紙束を手に取った。
「みんな、灯簿を持ってました。おばあちゃんと同じ、誰にも読まれない灯簿を」
私は、言葉が出なかった。
三百年。
誰にも読まれない数を、毎晩、丘の上で数え続けた人たちがいた。
◇
ティルの膝の上に、表紙だけの帳面があった。
百日目の夜に、彼女が一頁ずつ燃やした灯簿だった。表紙の焦げた角はそのままで、中には新しい紙が麻の糸で綴じ直されていた。
「新しく、作りました」
ティルは、表紙を撫でた。
「中身は燃やしちゃったけど、表紙は残したから。おばあちゃんの字で、灯簿って書いてあるから」
一頁目を、開いて見せてくれた。
日付と、村の名前と、二つの欄。
『数えた数』
『数え直した数』
欄の右端に、小さな四角があった。割印を押すための四角だった。
◇
翌朝。
大締めの日だった。
夜明けは、十時二十一分よりさらに遅かった。灰色の光が丘を這い上がってくるころには、灯守りの家の前に人が集まっていた。
ホロ村の人たちだった。谷の工場の女衆。ミルデから来た荷運びたち。北回りと南回りの御者たち。
それに、私の知らない顔がたくさんあった。
「近くの村の人たちです。自分の村は、自分で数えたいって」
ラディカが、私の耳元でささやいた。
ティルが、戸口の段に立った。
小さな背中だった。十七歳の、灯守りの家の末っ子。
彼女は、一度だけ私のほうを振り返った。
私は、うなずいた。
それから、両手をエプロンのポケットに入れた。
◇
「棚卸を、します」
ティルは、まず私の国の言葉で言った。
それから、村の言葉で同じことを言った。ラディカが隣に立って、ティルの言葉が追いつかないところを補った。
棚卸。
店にある商品を、実際に一つずつ数えることだ。
レジを通った数から計算すれば、帳簿の上では在庫の数が分かる。帳簿棚卸と呼ぶ。でも帳簿の数は、ときどき嘘をつく。万引き、破損、検品の数え間違い。だから年に何度か、店じゅうの商品を手で数え直す。こちらは実地棚卸だ。
帳簿の数と、実際に数えた数。その差を、棚卸差異という。
ヨアケマートでは、棚卸の日は夜勤が総出だった。棚の端から順に数え、数えた棚には小さな札を差していく。札が差してある棚は、二度と数えない。差していない棚は、誰も数えていない棚だ。
ティルは、その札を村の言葉で説明していた。
「数え終えたランプの扉に、白い糸を結んでください。結んであるランプは、もう数えません」
人々の間から、ざわめきが起きた。
「数えるのは、二人です。自分の村の人が二人。それから、隣の村の人が二人、もう一度数えます」
ティルは、指を四本立てた。
「四人の数が合ったら、灯簿に書きます。二つの欄に、同じ数を書きます。それから、割印を押してください」
彼女は、二枚つづりの紙を高く掲げた。ミシン目は、谷の工場の女衆が針で一つずつ開けたものだった。
「一枚は、村に残してください。一枚は、店に持ってきてください。半分ずつ持っていれば、誰もあとから数を変えられません」
ティルの足もとに、木箱が一つ置かれていた。
蓋を開けると、小さな木の印がぎっしりと並んでいた。どれも親指ほどの大きさで、底に半円の模様が刻んであった。
ドルムさんが、六日かけて彫ったものだった。村一番の木彫り職人の、丸太のような指で。
「同じ模様は、二つとない」
ドルムさんは、低い声で言った。
「一つの村に、一つだ。なくすなよ」
組の頭たちが、一人ずつ前に出て印を受け取った。受け取った印を、両手で包む人がいた。首から紐で下げる人もいた。
印を配り終えると、ドルムさんがもう一度口を開いた。
「この形なら、ホロの者はみんな知ってる」
彼は、懐から何かを取り出した。くたびれた紙の半分だった。
「灯税を店に預けたとき、もらった半分だ。俺は、ずっと持ってる」
隣で、フィナさんも同じ紙を出した。その隣の人も。そのまた隣の人も。
半円の印が、灰色の朝の光の中に、いくつも掲げられた。
ティルは、それを見回した。
それから、少しだけ笑った。
「それと、同じです」
◇
数える人たちの組み分けが始まった。
私は、少し離れた木の下に立っていた。
ティルが紙を配り、ラディカが名前を読み上げる。御者たちが、どの組をどの村まで運ぶかを決めていく。オスカさんが北の組を、ケトくんが南の組を受け持った。
一枚の紙が、風に飛ばされて私の足もとに落ちた。
拾い上げた。
『ナルカ村 数えた数( ) 数え直した数( )』
空欄が二つ。
私の指が、勝手に動きかけた。
ナルカ村は、北回りの先にある大きな村だ。ランプは確か、三十二。いや、先月は三十だった。誰が数えに行くのだろう。数え慣れていない人なら、扉の陰のランプを見落とすかもしれない。二階の窓のランプを、数え忘れるかもしれない。
私が行けば。
私が数えれば、間違いはない。
「店長」
顔を上げると、ティルが立っていた。
彼女は、私の手から紙をそっと抜き取った。
「店長は、数えないでください」
私は、その言葉をしばらく聞いていた。
胸の奥で、何かが小さく痛んだ。
それから、痛みのあとに、別のものが来た。
肩が、軽くなった。
「……うん」
私は、両手をもう一度エプロンのポケットに戻した。
「今日は、あなたの棚卸だね」
ティルは、ナルカ村の紙を胸に当てた。
「店長が教えてくれた数え方で、数えます。だから、店長は数えなくていいんです」
◇
昼が近づくと、丘の裏手から湯気が上がりはじめた。
釜が六つ。谷の工場の女衆と、ホロ村の女衆が、交代で火を見ていた。数えに出る人たちに持たせる、おにぎりを炊いていた。
その脇に、戸板が置かれていた。
三輪さんが、戸板の上で上体を起こしていた。
背中に、毛布を三枚重ねて当てている。顔色はまだ悪かった。それでも、目は釜のほうを睨んでいた。
「おい、そこの」
三輪さんは、若い女衆の一人を呼んだ。
「いま、水を量ったか」
「さっきの釜と、同じ米ですから」
「同じ米でも、同じ水じゃねえ」
三輪さんは、喉の奥で咳をした。
「井戸の水は、朝と昼で冷たさが違う。米は、袋の上と底で乾き方が違う。毎回量れ。合わせて終わりにするな」
若い女衆は、慌てて升を取りに走った。
三輪さんは、それを見届けてから、戸板に背中を戻した。
「店長」
目を閉じたまま、彼が言った。
「数えに行かねえのか」
「行きません」
「そうか」
三輪さんは、それきり何も言わなかった。
ただ、口の端が、少しだけ上がった気がした。
◇
十三時を過ぎたころ、南の道から荷馬車が一台、駆け上がってきた。
ケトくんだった。昼前に南の組を送り出してから、ミルデへの道を走ってもらっていた。途中でミルデから来た荷運びをつかまえて、様子を聞いてきたのだ。
彼は、荷馬車から飛び降りるなり言った。
「関所が、閉まってます」
丘の上の空気が、止まった。
「大橋の両側に、教会の兵が立ってます。昨日までの倍です。今夜は、誰も通すなと」
「バルドさんは」
「倉の前で、待ってます。荷馬車三台、積んだまま。何があっても、積んだまま待っとくって」
私は、店のほうを見た。
丘の下の森の中に、四角い影がうずくまっていた。
百日目の日暮れから、ずっと暗いままの店。
検品した荷が届かなければ、灯は戻らない。灯が戻らなければ、レジは動かない。レジが動かなければ、今夜零時に締めることができない。
「鷺沼さんは」
ケトくんは、首を横に振った。
「見てません」
◇
十四時。
日が、沈んだ。
灰色の空が、端のほうから黒くなっていった。森の影が伸び、丘の裾から夜が這い上がってくる。夜喰いの気配が、どこか遠くで鳴った。
灯守りの家の窓に、灯がともった。
ティルが、丘のてっぺんに立った。
私とラディカは、その少し下に座った。ラディカの膝には新しい灯簿があり、私の手には何もなかった。
一時間。
南の空で、灯が揺れた。
ミルデの方角だった。いちばん遠い丘の上で、灯守りの家の人が知らせを送っていた。数ではなかった。短い印だった。
ティルが読んだ。
「バルドさん。関所へ。兵。通れず」
日が沈むのを待って、バルドさんは荷馬車を出したのだ。そして、大橋の手前で止められた。
光は、もう一度揺れかけた。
それから、ふっと消えた。
ミルデの丘は、それきり暗いままだった。
「……消された」
ラディカが、つぶやいた。
ティルは、黙って南の闇を見つめていた。
二時間。
夜が深くなるにつれて、遠くの丘に、小さな灯が一つずつともりはじめた。
灯守りの家の人たちだった。
十九軒の灯守りが、それぞれの丘の上に立っていた。その向こうの、もっと遠い丘にも。村から村へ。丘から丘へ。数を受け取り、隣へ渡すために。
最初の光が、宙を走った。
いちばん近い東の丘からだった。光の線が、闇の中に文字を描いた。
ティルが、それを読んだ。
「ホロ村。数えた数、九。数え直した数、九」
ラディカが、灯簿に書きつけた。
九。
百日目の夜を、ホロ村の人たちが守り抜いた九つの灯だった。
次の光が来た。北の丘からだった。
「ナルカ村。三十一。三十一」
三十一。
私が思っていた数と、違った。
私の知らない一つを、誰かが数えていた。あるいは、私が数えたつもりで数え落としていた一つを。
光は、次々に来た。
北から。南から。川の向こうから。山の奥から。
ティルの指先が、受け取った数を読み、隣の丘へ「受け取った」の印を返す。ラディカのペンが、紙の上を走る。
「シルベ村。二百四。二百四」
「アゼ村。十七。十七」
「ハタリ村。ゼロ。ゼロ」
ティルの声が、そこで一度だけ止まった。
ゼロ。
その村は、もうなかった。数えに行った人たちは、灯の消えた家々を一軒ずつ回ったのだろう。白い糸を結ぶランプが一つもないことを確かめて、ゼロと書いたのだ。
ティルは、深く息を吸った。
それから、次の光を読んだ。
ゼロも、数だった。
数えなければ、ゼロにさえならない。
◇
二十二時を過ぎた。
壁の紙の丸が、ほとんど埋まっていた。
百六十一のうち、百四十八。
まだ、遠い北の山の村が残っていた。光が届くまでには、丘をいくつも越えなければならない。
ラディカが、ペンを置いて手を振った。指が、紙と同じくらい白くなっていた。
グラシアさんが、杖をついて丘を登ってきた。両手に、湯気の立つ椀を二つ持っていた。
「温めた羊の乳だよ。冷めないように、ちょっとだけ術をかけてある」
ラディカが椀を受け取って、指を温めた。ティルは、丘のてっぺんから降りてこなかった。グラシアさんは、もう一つの椀を岩の上に置いた。
「あの子のぶんだ。数え終わるまで、冷めやしないよ」
膝をさすりながら、グラシアさんは空を見上げた。
「今夜は、冷えるね。膝がそう言ってる」
ラディカが、椀を置いて私を見た。
「店長。合計、出しますか」
「まだ」
私は言った。
「全部、そろってから」
それに、合計を出しても、締める場所がなかった。
丘の下の店は、まだ暗かった。
零時まで、あと二時間足らず。
私は、南の空を見た。
ミルデの丘には、灯が戻っていなかった。
あれから一度も、光は来ていない。バルドさんの荷馬車がどうなったのか。誰にも分からなかった。
そのとき、ティルが丘のてっぺんで声を上げた。
私は、立ち上がった。
丘の裾のほうで、灯が動いていた。
一つではなかった。いくつもの松明が、列になって、坂を登ってきていた。
先頭の馬車の扉に、金色の紋章が光っていた。
昇る太陽を、半分に切った形。
暁教会の紋章だった。




