第十九章 オリコン
鷺沼さんの屋敷は、酒の匂いがした。
王都に着いたのは、灯守りの家を出てから二日目の日暮れだった。ミルデで乗合の荷馬車を探し、宿場で夜を越えた。王都の門をくぐったときには、大通りのランプがともりはじめていた。
下町の、二号店の前を通った。
戸は閉まっていた。ガラスのない戸の向こうは、暗かった。石畳の上に白い四角を落としていた光は、どこにもなかった。
私は、少しだけ立ち止まった。
それから、上町への坂を登った。
鷺沼さんの屋敷は、教会の尖塔が見える高台にあった。白い石の塀。鉄の門。門番が二人。
「客人様は、誰にもお会いにならない」
門番は、私の制服を見て、眉をひそめた。
「灯の家の店長が来たと、伝えてください」
門番は顔を見合わせて、一人が奥へ消えた。戻ってきた彼は、首を横に振った。
「お帰りください」
私は、門の前の石段に腰を下ろした。
「明日の朝まで、ここで待ちます」
門番は、困った顔をした。夜の王都の路上は、上町といえども安全ではない。それでも私は、動かなかった。門の脇のかがり火の光の中に、膝を抱えて座った。
その夜、何度も門の向こうの窓を見上げた。
二階の一つの窓に、遅くまで灯がともっていた。
夜半を過ぎると、門番の一人が湯気の立つ椀を持ってきた。麦の粥だった。
「客人様のご命令じゃない。俺の勝手だ」
彼はそう言って、私の隣にしゃがんだ。
「あんた、灯の家の人だろう。俺の村は、南回りの四つ目だ。母が、まだ住んでる」
南回りの四つ目。ケトくんが毎日、九時四十一分に出ていく便の、四つ目の停車地だった。
「店が暗くなってから、灯油が届かない。母のランプは、あと何夜もつか分からない」
私は、椀を両手で包んだ。指先に、熱がしみた。
「必ず、届けます」
門番は、何も言わずに持ち場へ戻っていった。
私は、粥を最後の一粒まで食べた。
◇
夜明けに、門が開いた。
出てきたのは、あの手代だった。懐中電灯を腰に提げていた。店が消灯した夜、裏口から逃げ出していった若い男だ。生きていた。
彼は、私を見て、気まずそうに目をそらした。
「客人様が、お呼びです」
屋敷の中は、暗かった。
窓という窓に、厚いカーテンが引かれていた。廊下の両側に、木箱が積み上げられていた。蓋の開いた箱から、見覚えのあるものがのぞいていた。
谷米のおにぎりの包み。三輪さんの工場の、焼き印の入った包み紙。
灯油の小瓶。干し肉。日本から持ってきた最後の菓子。
百日目の朝、本店と二号店の棚から消えた品々だった。
おにぎりの包みが、黒ずんでいた。米が傷んだ、酸い匂いがした。
廃棄。
棚から下ろされもせず、登録もされず、ただ箱の中で腐っていく品物たち。
廊下の奥の部屋の扉を、手代が開けた。
◇
鷺沼さんは、窓際の椅子に沈み込んでいた。
金糸の外套は、床に落ちていた。シャツの胸元がはだけて、髭が伸びていた。机の上に、酒の瓶が何本も転がっていた。
日に焼けた顔の、目の下の皺が深かった。
「何しに来た」
鷺沼さんは、私を見ずに言った。
「笑いに来たか。それとも、恨み言か」
私は、部屋の真ん中まで歩いていった。
それから、深く頭を下げた。
三年間、毎晩、お客様に下げてきた角度で。
「鷺沼様」
懐から、二つに折った紙幣を出した。
五千円札だった。
私は、それを両手で、鷺沼さんの前の机に置いた。
「お釣りです」
鷺沼さんの目が、紙幣に落ちた。
「閉店の夜、お客様からお預かりしたのは、一万円札でした。私が、電話をしながら受け取って、ドロアのトレーの隙間に落としました。五千円札と思い込んで、四千八百七十円のお釣りをお渡ししました。本当は、九千八百七十円をお返ししなければいけませんでした」
私は、頭を下げたまま言った。
「五千円、お返しするのが遅くなりました」
それから、顔を上げた。
「あの夜、お客様は正しかったです」
◇
部屋の中が、しんとした。
鷺沼さんは、机の上の五千円札を見つめていた。
長いこと、動かなかった。
やがて、喉の奥で、乾いた音がした。笑ったのだと分かるまで、少しかかった。
「……はは」
鷺沼さんは、五千円札をつまみ上げた。光にかざした。厚いカーテンの隙間から差し込む、細い朝の光に。
「今さら、か」
「はい。今さらです」
「この世界で、五千円札が何の役に立つ」
「何の役にも立ちません」
私は言った。
「でも、お客様のお金です。お返しするまで、私の違算でした」
鷺沼さんは、五千円札を机に放った。
「お前、本当に可愛げがねえな」
その声に、いつもの棘がなかった。
私は、鞄からノートを出した。
表紙の角が丸くすり切れた、厚い大学ノート。
「もう一つ、見ていただきたいものがあります」
◇
ノートの、最初の頁を開いた。
ほかの頁とは、字が違う。
鉛筆で書かれた、大きくて不揃いな字。十三歳の私の字だった。
紙が黄ばんで、ところどころ字がかすれていた。それでも、読めた。
私は、それを読み上げた。
「お母さんが、違算でクビになった」
鷺沼さんの指が、机の上で止まった。
「二万五千円たりなかった。お客さんの電気代のひかえが一まいなくなった。オーナーは、お母さんがとったと言った」
声が、少しだけ震えた。
二十六年間、声に出して読んだことは一度もなかった。
「配送の人も、どなられていた。オリコンが一つたりないと言われていた。配送の人は、数えなおしてくれと言った。オーナーは、数えなかった」
オリコン。
折りたたみコンテナの略だ。コンビニの配送で、おにぎりや弁当やパンを運ぶ、プラスチックの箱。中身を下ろしたら、箱は折りたたんで、トラックに積んで持ち帰る。次の配送で、また使う。
だから、オリコンは数を数える。届けた数と、持ち帰る数。一つでも足りなければ、配送の人の責任になる。箱一つの値段は安くない。足りない分は、ドライバーの給料から引かれることもあった。
私は、最後の一行を読んだ。
「だれも、数えなかった」
ノートを閉じずに、机の上に置いた。
鷺沼さんは、その頁を見下ろしていた。
鉛筆の字。十三歳の字。
彼の手が、震えはじめた。
◇
「……あの夜の配送は」
鷺沼さんの声が、かすれていた。
「俺だ」
私は、黙っていた。
半分は、分かっていた。三輪さんが言った。荷を担いできた手だ、と。伝票なんか誰も見やしねえ、と言った鷺沼さんの声に混じっていた、古いもの。閉店の夜、遅れた便の欄に私が書いた一行を、彼はたぶん見ていた。
「二十六年前の三月。俺は、定温便の運転手だった。毎晩二十三時十分に、あの店に着く便だ」
鷺沼さんは、机の上で両手を組んだ。指の節が、太かった。
「あの夜、オリコンが一つ足りねえって言われた。店のオーナーにな。俺は数え直してくれって頼んだ。トラックの荷台も、店のバックルームも、一緒に数えてくれって」
彼は、笑った。笑っていなかった。
「オーナーは数えなかった。お前が持ってったんだろって、怒鳴った。本部に電話された。次の週、契約を切られた」
「……はい」
「オリコン一つだぞ。箱一つで、俺は運転手じゃなくなった」
鷺沼さんは、窓の外を見た。カーテンの隙間の細い光の中に、教会の尖塔が見えた。
「女房と娘は、出ていった。日雇いを転々とした。二十六年だ」
「あの店に、毎晩来ていたのは」
「払わせるためだ」
鷺沼さんは、即答した。
「あの店は、俺から仕事を取った。だから毎晩、何か言ってやった。棚が曲がってる。袋が開けにくい。釣りの渡し方が雑だ。店長を出せ。オーナーが替わっても、店長が替わっても、毎晩だ。あの店が、俺に何かを払うまで」
彼は、私を見た。
初めて、まっすぐに私の顔を見た。
「奥で泣いてたおばさんが、いた」
私の息が、止まった。
「あの夜。バックルームの隅で、レジのおばさんが泣いてた。お前しかいないんだよ、レジにいたのは、ってな。オーナーは、俺とおばさんを、交互に怒鳴ってた」
鷺沼さんの声が、低くなった。
「……あんたの、お袋さんか」
私は、うなずいた。
声が出なかった。
◇
窓の外で、鳥が鳴いていた。
鷺沼さんは、机の上のノートの頁を、指でなぞった。鉛筆の字の上を。だれも、数えなかった、の上を。
「あんたは、黙って払った」
鷺沼さんは、静かに言った。
「俺は、怒鳴って取り立てた」
彼の指が、止まった。
「どっちも、数えなかった」
私は、目を閉じた。
その通りだった。
閉店の夜、私は数えなかった。一万円を五千円と思い込んで、原因を探さずに、自分の財布で埋めた。
鷺沼さんは、数えなかった。二十六年間、あの店に毎晩来て取り立てるばかりだった。あの夜の箱が本当はどこにあったのか、確かめようとしなかった。
母を解雇したオーナーも、数えなかった。
教会も、三百年、数えなかった。
誰も、数えなかった。
◇
私は、目を開けた。
「鷺沼様。お願いがあります」
鷺沼さんは、黙っていた。
「五夜後に、暁帳の大締めがあります。その夜、王国じゅうの灯を、一晩で数えます。村の人たちが、二人一組で。数えた数を、零時に店のレジで締めます」
「店は、暗いんだろ」
「はい。検品した荷が届かないと、灯は戻りません。荷は、ミルデの大橋の関所で止められています」
私は、まっすぐに鷺沼さんを見た。
「教会の通行証を持っている人なら、関所を通れます。ミルデの倉から、店まで。荷を運んでいただけませんか」
鷺沼さんは、長いこと私を見ていた。
それから、首を振った。
「今さら、何が変わる」
彼は、椅子の背にもたれた。
「俺が荷を運んで、あんたが灯をつけて、村の連中が灯を数えて。それで何が変わる。二十六年前の箱が、戻ってくるのか。女房と娘が、帰ってくるのか」
私は、何も言えなかった。
「帰れ」
鷺沼さんは、目を閉じた。
「五千円は、受け取った。それで終わりだ」
◇
私は、ノートを閉じて、鞄にしまった。
もう一度、頭を下げた。
それから、扉に向かって歩いた。
手代が、扉を開けてくれた。廊下の木箱から、傷んだ米の匂いがした。
扉をくぐる直前だった。
「おい」
背中に、声がかかった。
私は振り返った。
鷺沼さんは、目を閉じたままだった。椅子に沈み込んで、窓の外のほうを向いていた。
「閉店の夜」
彼は、低い声で言った。
「遅れた便の欄に、何て書いた」
私は、少しだけ迷った。
それから、答えた。
「ドライバー責なし、と」
鷺沼さんは、何も言わなかった。
目を開けもしなかった。
ただ、机の上に放り出された五千円札の上に、太い指がそっと置かれた。
私は、扉を閉めた。
玄関まで、手代は黙ってついてきた。腰の懐中電灯が、歩くたびに小さく揺れた。
「……あの夜」
玄関の手前で、彼が言った。
「棚の奥まで、全部持っていけと言われました。客人様じゃありません。教会の方にです。俺は、言われたとおりにしただけです」
「はい」
「これ、まだ点きます」
彼は、懐中電灯を腰から外しかけた。
「持っていてください」
私は言った。
「夜道で、要りますから」
手代は、外しかけた手を止めた。
◇
乗合の荷馬車が見つからず、王都を出たのは二日後の朝だった。
宿場で夜を越え、ミルデでもう一夜を越えた。ミルデの倉では、バルドさんが荷を積んだ荷馬車を三台、並べて待っていた。
「どうだった」
バルドさんが聞いた。
私は、首を横に振った。
バルドさんは、それ以上聞かなかった。ただ、荷馬車の車輪を一つ、蹴った。
「積んだまま、待っとく」
彼は言った。
「大締めの夜まで。何があっても、積んだまま待っとく」
ミルデから店へ戻る荷馬車の上で、私は空を見ていた。
灰色の空。日が、傾きはじめていた。この世界の昼は、もう四時間を切っていた。
丘を越えると、店が見えた。
暗かった。
白い光の四角は、どこにもなかった。森の中に、ただの四角い建物が、黒くうずくまっていた。
その向こうの丘の上に、灯守りの家が見えた。
窓という窓に、小さな灯がともっていた。
丘の上に、人影が一つ立っていた。指先に、豆粒ほどの火をともして。
ティルだった。
彼女は、私に向かって指を振った。
光の線が、宙に数字を描いた。
一。
大締めの夜まで、あと一夜。




