第十八章 現金過不足
違算は、隠すと育つ。
炉の前に置いたノートの表紙を、私は手のひらで押さえていた。
灯守りの家の中で、目を覚ました人たちが、少しずつ炉のまわりに集まってきた。ドルムさん。フィナさん。グラシアさん。バルドさん。ケトくん。王都から逃げてきた二人の店員と、痩せた子どもの母親。ホロ村の人たち。
三輪さんは、戸板の上で薄く目を開けていた。
ラディカが、私の右隣に座っていた。ティルが、左隣に。
四十人近い人の顔が、炉の火に照らされていた。
私は、息を吸った。
「私の国の店では、毎晩、レジのお金を数えます」
声が、少しだけ震えた。
「機械が出す、あるはずのお金の額と、実際に引き出しに入っているお金。その二つを比べます。合わないことがあります。多いときも、少ないときもあります。合わないことを、違算といいます」
ラディカが、私の言葉を村の言葉に直していった。灯守りの家は、店の中ではない。私の片言では、大勢を前にした込み入った話は届かない。それでも、ラディカの声が、一つずつ私の言葉を運んでくれた。
「合わないとき、お店の帳簿には、現金過不足という欄があります」
現金過不足。
会計の言葉だ。お金が帳簿より多いとき、あるいは少ないとき、その差額をいったんこの欄に入れておく。原因が分かったら、正しい欄に移す。分からないまま期末を迎えたら、雑損や雑益という別の欄に落として、帳簿を閉じる。
合わなかったことは、合わなかったこととして、帳簿に残る。
「私は、その欄を、一度も使ったことがありません」
炉の火が、小さく揺れた。
「合わないとき、私は、自分のお金で埋めてきました。足りなければ、自分の財布から足しました。帳簿の上では、いつも合っていました。合わなかったことは、どこにも書かれていません」
私は、ノートの表紙を開いた。
「ここ以外には」
◇
ノートの頁を、一枚ずつめくった。
日付と、金額と、原因。
『四月十二日 マイナス三百二十円 原因 不明 補填 三百二十円』
『五月三日 マイナス千円 原因 釣り銭の渡し間違い(推定) 補填 千円』
『八月十九日 プラス五十円 原因 不明 返金先不明のため店に戻す』
『十一月二日 マイナス二千百円 原因 不明 補填 二千百円』
ラディカが、それを村の言葉に直して読み上げる。
一つ、二つ。十。二十。
二十年分だった。
頁をめくるたびに、同じ文字が並んでいた。不明。補填。不明。補填。
私は、最後の頁を開いた。
閉店の夜の一行。
『三月三十一日 零時 マイナス五千円 原因 不明(鷺沼様の申告あり。確認できず) 補填 五千円』
その下に、私はボールペンで一行書き足した。
『原因判明。一万円札、ドロアのトレー下に落下。お客様の申告は正しかった。釣り銭五千円、未返却』
書き終えて、顔を上げた。
「二十年分を、足しました」
ノートの裏表紙の内側に、私はずっと前から、その数字を書いていた。毎年の終わりに、足し直していた。
誰にも見せたことのない数字だった。
「四十一万三千二百円」
ラディカが、言葉に詰まった。日本の円を、この国の何に置き換えればいいのか迷ったのだ。
「銅貨にすると、八千枚と少し」
私は言った。
「金貨にすると、八十枚と少しです」
灯守りの家の中が、しんとした。
金貨。村の誰も見たことがないという金貨。それを、八十枚。
ドルムさんが、太い腕を組んだまま、目を見開いていた。バルドさんの口が、半分開いていた。
誰も、笑わなかった。
◇
「四十一万三千二百円のうち、原因が分かっているのは、三万円くらいです」
私は、ノートを閉じずに言った。
「残りは、全部、不明です。探しませんでした。探す前に、埋めたから」
炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
「教会の帳簿には、三万百十二の灯が載っています。でも、実際にともっている灯は、その四割ほどです。差は、一万八千。三百年、誰も探さなかった違算です」
ラディカが、その言葉をゆっくりと村の言葉に直した。
村の人たちが、顔を見合わせた。
「教会は、その差を、帳簿の上で埋めてきました。数字を書き写して、合っていることにして。私が、自分の財布でやってきたことと、同じです」
私は、膝の上の一万円札を持ち上げた。
「閉店の夜、私はお客さんの一万円を、五千円だと思い込みました。原因を探さずに、自分のお金で埋めました。そのせいで、そのお客さんは、嘘つきになりました。百日間」
その札を、ノートの上に置いた。
「違算は、隠すと育ちます。私の店の五千円が、お客さんを嘘つきにしました。教会の一万八千が、村を闇に沈めました。ラディカの四枚が、九枚になりました」
ラディカが、小さく唇を噛んだ。
「だから、全部見せます」
私は、炉のまわりの顔を、一人ずつ見た。
「原因を、一緒に探してください」
◇
しばらく、誰も何も言わなかった。
最初に口を開いたのは、三輪さんだった。
戸板の上で、ゆっくりと首をこちらに向けた。かすれた声だった。
「水は、毎回量れ」
それだけ言って、三輪さんは、少しだけ口の端を持ち上げた。
「店長。やっと、量る気になったか」
私は、うなずいた。
うなずいたら、目の奥が熱くなった。
次に、バルドさんが腕をほどいた。
「御者に責なし、と書いた店長だ」
彼は、太い指で床を叩いた。
「探すってんなら、ギルドの荷馬車は全部出す。どこへでも」
ドルムさんが、のっそりと身を乗り出した。
「村の床下にな、あの赤い半円の紙がある」
彼は、炉の火を見ながら言った。
「灯税の控えだ。店で払ったぶんは全部、半円が残っとる。伝票の割印の控えもだ。教会の集金人に払ったぶんは何も残らんが、店を通したぶんは、全部ある」
フィナさんが、羊毛の袋の一番奥から、赤い半円の紙を取り出した。最初の灯税の控え。それから、宅配の控え。
「なくしたら、店にもう半分があるって。店長さん、言いました」
フィナさんは、その紙を私の前に置いた。
「だから、なくしませんでした」
ラディカが、私の手からボールペンを取った。
ノートの、閉店の夜の一行の下。空いている行に、彼女は自分の字で書きはじめた。日本語の、丁寧な字だった。
『二号店準備金 不足合計 銅貨六十一枚 原因 不明 補填 ラディカ(給金より)』
書き終えて、ラディカはペンを置いた。
「わたしのも、ここに載せてください」
私のノートに、初めて私以外の字が並んだ。
二十年間、誰にも見せなかった帳面だった。その最後の頁で、二つの違算が、並んで同じ欄に収まっていた。
◇
ティルが、立ち上がった。
膝の上に置いていた灯簿の表紙を、胸に抱いていた。中身はもう、一頁も残っていない。
「灯を、数えましょう」
ティルの声は、静かだった。
「全部の村の灯を。一晩で」
炉のまわりの人たちが、ティルを見上げた。
「教会の帳簿の数字が三万百十二なら、本当の数を、こっちで数えればいいんです。灯守りがいた頃は、毎晩そうしてました。丘の上から、隣の丘へ、灯で数を知らせて」
ティルは、右手の人差し指を立てた。
指先に、豆粒ほどの火がともった。
彼女はそれを宙で動かした。光の線が、数字を描いた。
八。
「大締めまで、あと八夜です」
私は、その光の数字を見つめていた。
棚卸。
日本のコンビニでは、年に何度か、店の在庫を全部数える。棚に並んでいる商品を、一つ残らず。それを、システムの上の理論在庫と突き合わせる。どれだけ合わないか。どこで合わないか。それを見つけるための作業だ。
一晩で、店じゅうの商品を数える。店員だけでは足りないから、本部から応援が来る。専門の業者が来ることもある。
二人一組で数えて、別の二人が数え直す。数えた数を、決まった用紙に書き込む。
それを、王国じゅうの灯でやる。
「大締めの夜に、一斉棚卸をします」
私は、言った。
「全部の村の灯を、一晩で数える。数えた数を、伝票と同じ用紙に書いて、村の印で割印を押す。その数を、丘から丘へ、灯の合図で集める。零時に、全部を足す」
「零時に、どこで足すんですか」
ラディカが聞いた。
「店のレジで」
私は答えた。
「店のレジの精算キーを押せば、神様に締めが届く。閉店の夜から、ずっとそうだった」
「でも、店は暗いです」
ティルが言った。
「検品した荷が届かないと、店に灯は戻りません。荷は、大橋の関所で止められてます」
みんなが、黙った。
バルドさんが、低くうなった。
「関所を通れるのは、教会の通行証を持ってる者だけだ。関所を閉じられた今、うちの荷馬車は一台も通れねえ」
教会の通行証。
それを持っている人を、私は一人だけ知っていた。
王都に屋敷を持ち、教会の御用を務め、関所の兵に顔の利く人。
閉店の夜、私が五千円のお釣りを返さなかった人。
◇
夜明け前に、私はシフト表を書いた。
灯守りの家の床に、店から持ってきた裏紙を広げた。横に、大締めまでの八日分の日付。縦に、仕事の名前。
一番上の行に、書いた。
『棚卸の指揮』
その横に、名前を書いた。
『ティル』
ティルが、私の手元をのぞき込んだ。字は、もう全部読めた。
「店長」
「灯を数えるのは、灯守りの仕事でしょう」
私は言った。
「どの村に、何人の数え手を送るか。どの丘から、どの丘へ合図を送るか。ティルが決めて」
ティルは、何も言わなかった。
ただ、灯簿の表紙を、ぎゅっと胸に押しつけた。
二行目。
『通訳と教育』
『ラディカ』
「数え手に、二人一組の数え方を教えて。読み上げる人と、見比べる人。数え直す二人。全部の村に、同じやり方を」
ラディカは、涙の跡が残った顔で、うなずいた。
三行目。
『便』
『バルド』
「村々に数え手を運んで。それから大締めの夜に関所が開いたときのために、ミルデの倉で荷を積んで待っていてください」
「関所が開かなかったら」
「開くようにします」
バルドさんは、私の顔を長いこと見ていた。それから、ふんと鼻を鳴らした。
四行目。
『炊飯』
私は、三輪さんの戸板を振り返った。
三輪さんは、目を閉じたまま言った。
「谷の女衆と、ホロの女衆。釜は六つ。水の量り方は、全員が覚えてる」
「三輪さんの名前は」
「書くな」
三輪さんは、薄く目を開けた。
「俺がいなくても回るようにしたのが、俺の仕事だ。弟子の名前を書いとけ」
私は、谷の工場の女衆の頭の名前と、ホロの女衆の頭の名前を書いた。
それから、一番下の行に、目を落とした。
この前のシフト表では、端から端まで「小野寺」で埋まっていた行。
今度は、一つだけ書いた。
『王都へ』
『小野寺』
◇
夜が明けた。
灯守りの家の窓から、灰色の光が差し込んできた。
私は、鞄にノートを入れた。
それから、ドロアを開けた。
五千円札の仕切りには、二枚入っていた。そのうちの一枚が、閉店の夜に私が自分の財布から入れた五千円札だった。
鷺沼さんに、返さなければいけないお釣りだった。
私はそれを抜き取って二つに折り、懐にしまった。
一万円札は、ドロアに戻した。あの夜、店が受け取った売上だ。
ラディカが、荷馬車の手配を済ませて戻ってきた。ミルデまでは、ケトくんが送ってくれる。そこから王都までは、王都行きの乗合の荷馬車を探すしかない。
「一人で行くんですか」
ラディカが聞いた。
「うん」
「店長」
ラディカは、少し迷ってから言った。
「店長が一人で行くのは、穴埋めじゃないですよね」
私は、ラディカの顔を見た。
「違うよ」
答えてから、自分でもう一度確かめた。
違う。
これは、私が返し忘れたお釣りだった。私の違算だった。私が数えて、私が返す。誰かのぶんを、黙って埋めに行くのではない。
「これは、私の分」
ラディカは、少しだけ笑った。
「行ってらっしゃい、店長」
ケトくんの荷馬車が、丘の下で待っていた。
私は、ノートを入れた鞄を提げ、五千円札を懐に入れて灯守りの家の戸口を出た。
丘を下る荷馬車の上で、私は一度だけ振り返った。
丘の上の戸口で、ティルが手を振っていた。指先に、小さな灯をともしたまま。
大締めまで、あと七夜。




