第十七章 ドロア
締めないと、眠れない。
二十年、そうだった。
零時に精算キーを押して、ドロアの中身を数えて、ノートに一行書く。それが終わらないと、どんなに疲れていても目が冴えたままだった。
この世界に来てからも、一晩も欠かさなかった。
店が暗くなった夜も、その次の夜も。
レジは、動かなかった。精算キーを押しても、プリンターは鳴らなかった。
それでも私は、眠れなかった。
◇
三輪さんが目を開けたのは、店が消灯した翌日の昼だった。
グラシアさんが、ホロ村から杖をついてやってきた。バックルームの床に横たわる三輪さんの背中に、両手をかざした。
ふう、と細く長く息を吐く。
米を冷ましたときとは、逆の息だった。冷たくなった三輪さんの背中に、少しずつ温もりが戻っていく。黒く変色していた作業着の下の肌に、血の色が差してくる。
「夜喰いに熱を吸われたんだよ」
グラシアさんは、額に汗を浮かべながら言った。
「命までは持っていかれなかった。この爺さん、しぶといね」
三輪さんの瞼が、震えた。
ゆっくりと、目が開いた。灰色だった顔に、ほんの少しだけ色が戻っていた。
「……店長」
かすれた声だった。
「はい」
「ティルは」
「無事です。三輪さんが、かばってくれたから」
三輪さんは、小さく息を吐いた。それから、もう一度目を閉じた。
「……なら、いい」
それきり、また眠った。
グラシアさんは、三輪さんの額に手を当てたまま言った。
「当分は、起き上がれないよ。釜の前に立つなんて、もってのほかだ」
◇
店に、灯を戻そうとした。
グラシアさんが持ってきてくれた卵を、空の棚に並べた。ホロ村の人が分けてくれた麦の粉の袋も。フィナさんの羊毛の小袋も。
レジの前に、私が立った。
自動ドアは、開いたままだった。
レジに人。棚に商品。扉が開いている。
天井の蛍光灯は、一本もつかなかった。
「どうして」
私は、棚の卵を見つめた。
ティルが、隣に来た。灯簿の表紙を、まだ胸に抱えていた。
「店長。それ、商品じゃないです」
「え」
「伝票が、ないです」
ティルは、棚の卵を指さした。
「店長が、最初に教えてくれました。荷が届いたら、伝票と見比べて数える。二人で数えて、印を押す。そうして初めて、店の品になるって」
検品。
納品された品を、伝票と照らし合わせて確かめること。確かめて、受け取りの印を押して、初めてその品は店の在庫になる。システムの上の理論在庫に、数が載る。
検品していない品は、店の棚に並んでいても、店の商品ではない。
ただの、卵だ。
「伝票がないから、検品もできない。検品していないから、商品にならない」
私は、つぶやいた。
「商品にならないから、灯がつかない」
この店の灯をもう一度ともすには、店の仕組みを通って、店の伝票と一緒に届いた荷が要る。ミルデの倉から、定時便で。
その定時便は、大橋の関所で止められていた。
◇
ホロ村は、二十五の灯のうち、十六を失っていた。
ケトくんが知らせて回った夜、灯油の残っていた家に、村の人たちが身を寄せ合った。それでも、九つの家にしか灯は残らなかった。
闇に呑まれた人は、いなかった。
それだけが、救いだった。
その日の夕方、村の人たちは残った灯油を全部、一つの家に集めた。
丘の上の、古い石の家だった。
灯守りの家。ティルの家だ。
祖母が三十年、毎晩村の灯を数えた家。窓が四方に開いていて、どの方角の灯も見渡せる。屋根の上に、昔は大きな灯台のような火をともしていたという。
「ここなら、一つの灯で、たくさんの人が守れます」
ティルが言った。
その夜、灯守りの家には、四十人近い人が集まった。ドルムさん。フィナさんと男の子。グラシアさん。三輪さんは、戸板に乗せて運んだ。
炉に、残った灯油を少しずつ注いだ。
窓の外で、闇が家を取り囲んでいた。
私は、炉のそばで膝を抱えていた。
膝の上に、ドロアを載せていた。
店から運んできた、レジの現金の引き出しだ。レジが動かなくても、中の現金は店の預かり金だった。置いてくるわけにはいかなかった。
◇
ラディカが着いたのは、二日目の昼だった。
ミルデから、バルドさんのギルドの荷馬車に乗ってきた。御者台にはバルドさんが座っていた。荷台には、ラディカと二号店で雇った二人の店員と、痩せた子どもとその母親が乗っていた。
ラディカは、荷台から降りるなり、私に駆け寄ってきた。
「店長」
顔が、泥と煤で汚れていた。目の下の影が、前よりずっと濃かった。
「二号店、消えました。棚が空になって、二号機の画面が真っ暗になって」
「知ってる」
私は、ラディカの肩を抱いた。
「画面で、見てた」
ラディカは、抱えていた布の包みを差し出した。
ほどくと、中から金属の箱が出てきた。
二号機のドロアだった。
「灯が消える前に、抜きました。二号機は重くて運べなかったけど、お金だけは。店の預かり金だから」
ラディカは、少しだけ笑った。
「店長に、教わったので」
私は、その箱を受け取った。重かった。
「店員さんたちと、あの子は」
「教会の前の広場まで、走りました。広場には、大きなかがり火があるので。一晩、そこで過ごしました」
ラディカの後ろで、痩せた子どもが母親の服の裾を握っていた。母親も一緒に逃げてきたのだという。
「全員、無事です」
ラディカの声が、少し震えた。
「全員、数えました」
◇
その夜も、灯守りの家で過ごした。
人々が眠りについたあと、私は炉のそばで、ドロアを膝に載せた。
零時だった。
壁に時計はなかった。でも、分かった。二十年、毎晩この時間に精算キーを押してきた体が、覚えていた。
ティルが、隣に座った。
何も言わずに、右手の人差し指を立てた。
指先に、豆粒ほどの火がともった。灯簿はもう燃やしてしまった。表紙だけが、彼女の膝の上にあった。小さな灯は、ドロアの中をぎりぎり照らせるだけの明るさだった。
私は、ドロアの蓋を開けた。
紙幣の仕切り。日本円の一万円札。五千円札。千円札。この世界では使えない紙幣が、閉店の夜のまま眠っていた。
それから、硬貨の仕切り。日本円の硬貨と、この世界の銅貨と銀貨。紐で束ねた紐金。
一つずつ、数えた。
数えて、どうなるわけでもなかった。理論値を出すレジは、動かない。合っているかどうかを確かめる相手は、どこにもいない。
それでも、数えた。
数え終わって、私はいつもの癖で、トレーに指をかけた。
紙幣と硬貨を入れる仕切りの、トレー。ドロアの本体に、はめ込まれている。精算のとき、中身を数えやすいように、トレーごと持ち上げることがある。
日本の店では、月に一度、トレーを外してドロアの底を拭いていた。硬貨の汚れや、紙幣の繊維が溜まるからだ。
この世界に来てから、百日。
一度も、外していなかった。
私は、トレーを持ち上げた。
◇
トレーの下の、ドロアの底。
ティルの指先の小さな灯が、そこを照らした。
紙が一枚、貼りつくように横たわっていた。
二つ折りになって、隅のほうに押し込まれている。トレーの縁とドロアの壁の、細い隙間に挟まっていたのが、底まで滑り落ちたのだろう。
私は、それを指先でつまみ上げた。
広げた。
一万円札だった。
ティルが、息をのんだ。
私は、札を灯の下にかざした。
角が、少しだけ折れていた。端に、黒い指の跡が薄くついていた。機械油の色だった。閉店の夜、カウンターの前に立っていた灰色の作業ジャンパーの、袖口と同じ色。
あの夜の、札だった。
鷺沼さんが、缶コーヒー一本を買うために出した札。
私が、電話を肩に挟みながら受け取った札。
受話器が肩からずり落ちかけて、首をかしげた拍子に、札を握った指先がドロアの縁に引っかかった気がした。
気がしただけだと、思っていた。
札は、トレーの縁の隙間に滑り込んでいた。私は、自分が五千円札の仕切りに押し込んだつもりの札が、本当は何だったのかを確かめなかった。五千円札の仕切りに一枚あったから、それだと思い込んだ。
最初から、そこにあった五千円札だったのに。
「おい。一万だぞ」
鷺沼さんの声が、耳の奥で鳴った。
あの人は、正しかった。
◇
計算は、簡単だった。
鷺沼さんは、一万円を出した。私は、五千円を受け取ったつもりで、四千八百七十円の釣りを渡した。
本当は、九千八百七十円を渡さなければいけなかった。
五千円、足りなかった。
精算でマイナス五千円が出たのは、一万円札がトレーの下に隠れていたからだ。札を数えに入れれば、ドロアの中身は、むしろ五千円多かったことになる。
プラスの違算。
誰かに返し忘れたお釣り。
私は、鷺沼さんに、五千円のお釣りを返していなかった。
そしてその場で、自分の財布から五千円を出してドロアに入れた。
合った。
終わり。
私は、確かめなかった。探さなかった。客の申し出を記録にだけ残して、原因を不明と書いて自分のお金で消した。
証拠ごと。
鷺沼さんは、嘘つきの客のまま、閉店の夜の店を出ていった。
私は彼を嘘つきにしたまま、百日間この世界で店を開け続けた。
二十六年前の夜、私の母を泥棒にしたオーナーと、何が違うのだろう。
あの人は、誰も数え直さなかった。母のせいにして、それで終わりにした。
私は、数え直さなかった。お客さんのせいにも、誰のせいにもしなかった。ただ、自分で埋めて、それで終わりにした。
誰のせいにもしなかったから、正しいのだと思っていた。
でも、原因を探さなかったのは、同じだった。
誰かが疑われる前に埋める。それは、誰かを守るためだと思っていた。
本当は、違算から目をそらすためだった。
二十年。
◇
「店長」
ラディカの声がした。
いつの間にか、彼女が炉のそばに来ていた。眠っていなかったのだ。私の手の中の一万円札を、見ていた。
「それ、閉店の夜の」
「うん」
「鷺沼さんの」
「うん」
ラディカは、私の隣に膝をついた。
それから、自分の腰に提げていた小さな布袋を、両手で外した。
給金の袋だった。
私が毎週渡していた、ラディカの取り分。
「店長。わたしも、言わなきゃいけないことがあります」
ラディカは、袋の口を開けて、逆さまにした。
炉の前の床に、銅貨が二枚だけ、ころりと転がった。
「二号店の準備のときから、ずっと。数が合わない日がありました。四枚だったり、九枚だったり。どこで間違えたのか、分かりませんでした」
ラディカの声が、震えはじめた。
「店長に言ったら、店長は黙って自分のお金を足すと思いました。店長の袋は、もうぺしゃんこだったから。だから、わたしが足しました。自分の給金から。毎晩」
「ラディカ」
「書き付けは、一度も合わなかったことがないねって、店長が言ってくれたとき」
ラディカの目から、涙がこぼれた。
「うれしかったです。でも、すごく、怖かった」
彼女は、床の二枚の銅貨を見下ろしていた。
「店長がそうしてたから。わたしも、そうするのが正しいんだと思いました」
◇
炉の火が、小さく爆ぜた。
私は、ラディカの顔を見られなかった。
店長がそうしてたから。
私が、教えたのだ。
言葉で教えたことは一度もない。それでも毎晩、彼女の目の前で自分の財布から足して精算キーを押した。閉店の夜、ラディカは聞いた。違算って、みんなで探すものじゃないんですか。私は、答えにならない答えしか返さなかった。
答えなかったことが、答えになっていた。
穴埋めは、人から人へ移る。
教えなくても、見ていれば移る。
そして、埋められた穴の下で、原因は死ぬ。誰も探さないから、同じズレが、また生まれる。ラディカの二号店で、四枚が九枚になったように。
教会の三百年と、私の二十年。
同じ病気だった。
合わない数を、誰かが黙って埋める。埋めたことは、どこにも書かない。原因は探さない。繰り越して、繰り越して、何もなかったことにする。その下に、消えた灯が積み上がっていく。
私は、一万円札を膝の上に置いた。
それから、ラディカの手を取った。冷たい手だった。私と同じ、穴埋めをしてきた手だった。
「ごめん」
それしか、言えなかった。
「ごめんね、ラディカ」
ラディカは、首を横に振った。何度も振った。
◇
ティルが、黙って私の反対側に座った。
指先の灯を、消さずにいてくれた。
炉の火と、ティルの小さな灯の間で、私はしばらく動けなかった。
膝の上に、一万円札があった。
その横に、ドロアがあった。
ドロアの横に、私の鞄があった。鞄の中に、ノートが入っていた。
表紙の角が丸くすり切れた、厚い大学ノート。二十年分の違算。日付と金額と、分かった原因。分からなかったときは、不明。そして、自分の財布から入れた金額。
最初の一頁だけは、ほかと字が違う。
十三歳の私が、鉛筆で書いた頁。
誰にも見せたことがなかった。
私は、鞄からノートを取り出した。
窓の外は、まだ夜だった。大締めまで、あと八夜。
炉の前で眠っていた人たちが、一人また一人と身じろぎしていた。ドルムさんが、薄目を開けてこちらを見ていた。三輪さんの戸板のそばで、グラシアさんが起き上がっていた。バルドさんが、壁にもたれたまま腕を組んでいた。
私は、ノートを炉の前の床に置いた。
手のひらで、表紙を押さえた。
「みんなに、見てほしいものがあります」




