第十六章 販売期限
売れば、灯は保つ。
手代の指が、おにぎりの包みに触れた。
私は、そのおにぎりを見ていた。灰色がかった谷米。焼いた川魚。あぶった岩苔。三輪さんの工場で、昨日の夕方に握られたものだ。
見た目は、何も変わらない。
匂いも、たぶん変わらない。一分前と今とで、このおにぎりの中身が何か変わったわけではない。
それでも、ラベルの数字は過ぎていた。
コンビニの商品には、二つの期限がある。
一つは、消費期限。この日時までなら安全に食べられる、という期限だ。
もう一つが、販売期限。店が棚に並べておいていい期限。消費期限より、数時間前に設定されている。お客さんが買って家に持ち帰り、食べるまでの時間を見込んで、その分だけ早く棚から下ろすのだ。
販売期限を過ぎた商品は、棚から下ろす。レジで廃棄の登録をする。売上ではなく、損として記録する。
廃棄登録という。
日本の店では、深夜に何十個もの弁当やおにぎりを、一つずつスキャナーに通して廃棄登録した。まだ食べられるのに。誰かのお腹を満たせたのに。もったいない、と何度も思った。
それでも、やった。
販売期限は、店がお客さんと交わした約束だからだ。この時刻までに買ったものなら、安心して食べられます、という約束。
期限を過ぎたものを、何も言わずに売れば。
それは、店が嘘をつくことになる。
◇
「寄越せ」
手代が、おにぎりを掴んだ。
「客人様のお買い上げだ。早くしろ」
彼は、それをカウンターに置いた。
天井の光は、夕暮れの色のままだった。棚にあるのは、このおにぎり一個だけ。これが売れれば、棚は空になる。
いや。
売れなくても、廃棄すれば、棚は空になる。
どちらにしても、空になる。
でも売れば少なくとも今この瞬間は、レジが動いて灯が揺らがずに済む。棚が空になるのは、手代が店を出たあとだ。その数秒か、数分。その間に何かが起きるかもしれない。
起きないかもしれない。
私は、スキャナーを握った。
手代が、銀貨をカウンターに放った。
「早く打て」
私は、おにぎりを手に取った。
ラベルが、目の前にあった。
ティルの字。その下の、私の字。
『十四時十八分』
谷米のおにぎりを初めて棚に並べた朝のことを、思い出した。ティルに、期限の意味を説明した朝。
いつまでなら安全に食べられるか、を書くの。それを過ぎたら、棚から下ろす。
もったいない、とティルは言った。
もったいなくても、下ろす。それを決めておかないと、お客さんを守れない。
私が、そう言ったのだ。
◇
教会は、三百年、そうやってきた。
合わない数字を、合っていることにして。消えた灯を、ともっていることにして。三万百十二と書けば、神様は朝をくれるかもしれない。くれなくても、その夜はやり過ごせる。
次の夜も、やり過ごせる。
次の次の夜も。
そうして、三百年分の夜が積み上がった。
私は、二十年、そうやってきた。
合わない現金を、合っていることにして。財布から足して、精算キーを押して。その夜はやり過ごせる。次の夜も。
このおにぎりを売れば、今夜はやり過ごせるかもしれない。
今夜だけは。
私は、スキャナーの画面を見た。
会計の画面の下に、小さなボタンが並んでいる。客層キーの列。その隣に、一つだけ色の違うボタンがあった。
廃棄。
私は、おにぎりのバーコードを読んだ。
それから、そのボタンを押した。
ピッ。
いつもと同じ音だった。
画面に、文字が出た。
『廃棄登録 谷米の塩むすび 川魚 一点』
「何を」
手代が、目を見開いた。
「申し訳ございません」
私は、おにぎりをカウンターの下の廃棄の箱に入れた。
「こちらの商品は、販売期限を過ぎております。お売りすることはできません」
その声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。
棚は、空になった。
◇
最初に消えたのは、冷蔵ケースだった。
ガラスの扉の奥の照明が、一番端から一つずつ落ちていった。モーターの低いうなりが、ふっと途切れる。三十一年間、一度も消えたことのない音だった。
次に、天井の蛍光灯。
入口から奥へ、一列ずつ。
ぱちん。
ぱちん。
ぱちん。
白い光が、波が引くように奥へ退いていく。売場の床が、暗がりに沈んでいく。棚の黒い隙間が、闇と区別がつかなくなる。
レジの画面が、ゆっくりと暗くなった。
最後に残ったのは、カウンターの上の一本だけだった。
その一本が、二度三度と瞬いた。
そして、消えた。
この店に来て、百日目だった。
この店が、初めて暗くなった。
◇
外の白い四角が、消えていた。
自動ドアのガラスの向こうは、ただの闇だった。日は、ちょうど沈みきったところだった。
その闇が、動いた。
森の縁から、黒いものがせり上がってくる。地面を這い、空気を這い、波のように押し寄せてくる。
夜喰いだった。
これまで、光の境界で止まっていたもの。最初の夜にティルを追いかけて、白い四角に触れた瞬間に煙のようにちぎれたもの。
もう、止めるものは何もなかった。
自動ドアのガラスが、黒く塗りつぶされた。
それから、開いたままの扉の隙間から、闇が流れ込んできた。
手代が、悲鳴を上げた。
懐中電灯の白い光を振り回しながら、店の奥へ逃げる。光が当たったところだけ、闇がじゅっと音を立てて引く。でも、光の届かないところから、すぐに次の闇が流れ込む。
手代は、裏口の扉に体当たりして、外へ飛び出していった。懐中電灯の光が、森の中で小さく揺れて、遠ざかっていった。
「ティル!」
三輪さんの声。
振り向くと、ティルが棚の陰で立ちすくんでいた。指先に、小さな火をともしている。豆粒ほどの、風が吹けば消えそうな灯。
その灯に向かって、闇が押し寄せていた。
三輪さんが、ティルに飛びかかった。
小さな体を抱きかかえて、床に伏せる。自分の背中で、ティルを覆う。
闇が、三輪さんの背中に覆いかぶさった。
◇
「三輪さん!」
私は、カウンターを飛び越えた。
三輪さんの背中が、黒いものに呑まれていた。作業着の布地の上を、闇が這い回っている。三輪さんの手が、床の上で痙攣するように開いたり閉じたりしていた。
その下で、ティルが叫んでいた。
「灯を、灯を」
ティルは、三輪さんの腕の下から、自分の指先を突き出していた。豆粒ほどの火。それを、三輪さんの背中の闇に押し当てる。
じゅっ、と小さな音がした。
闇が、指先の周りだけ、ほんの少しだけ引いた。
でも、すぐに戻ってくる。
小さすぎた。
ティルの灯は、百の棚に数字を浮かべることができる。でも、夜喰いを追い払うには、小さすぎた。
「ティル、もっと」
「できません。これ以上、大きくならないんです」
ティルの声が、裏返っていた。
そのとき、ティルが自分の腰に手を伸ばした。
革の袋。その中から、紐で綴じた紙の束を引き出した。
灯簿だった。
「ティル」
私が何か言う前に、ティルは灯簿の一頁目を引きちぎった。
祖母の、細くて丁寧な字の頁だった。
ティルは、その頁を指先の火に近づけた。
紙が、燃え上がった。
豆粒ほどだった火が、ぱっと手のひらほどに広がった。橙色の炎。三輪さんの背中の闇が、炎に触れたところから、煙のように散っていく。
「店長、引いて」
ティルが叫んだ。
私は、三輪さんの両脇に腕を差し込んだ。重かった。全身の力で、床の上を引きずる。
ティルが、次の頁を引きちぎった。燃やした。三十年前の、ある冬の夜の頁。四十二、と書いてあったかもしれない。
その次の頁。四十一。
その次。
◇
バックルームの奥には、ウォークインと呼ばれる冷蔵の小部屋がある。
飲み物の冷蔵ケースの裏側だ。店員が中に入って、ケースの奥から飲み物を補充するための、細長い部屋。壁は厚い断熱材で覆われていて、扉は分厚い。
窓は、ない。
私とティルは、三輪さんをその中へ引きずり込んだ。
扉を閉めた。
中は、真っ暗だった。もう冷気はなかった。モーターが止まって、ただの狭い箱になっていた。
ティルが、灯簿の頁をもう一枚燃やした。
小さな橙色の光が、狭い部屋の中を照らした。
三輪さんが、床に横たわっていた。
顔が、灰色だった。目は閉じている。胸が、浅く上下していた。作業着の背中が、焦げたように黒く変色していた。触れると、氷のように冷たかった。
「三輪さん」
私は、三輪さんの手を握った。
火ぶくれの跡が、指の節に白く残っていた。
握り返してこなかった。
息は、していた。細く、細く。
扉の向こうで、何かが這う音がした。断熱材の壁の向こうを、闇が撫でていく。分厚い扉の隙間から、黒い糸のようなものが、少しずつ染み込んでこようとしていた。
ティルが、燃える頁を扉の隙間に近づけた。
黒い糸が、じゅっと音を立てて引いた。
◇
長い夜だった。
ティルは、灯簿を一頁ずつ燃やし続けた。
一頁が燃え尽きるまで、数を数えるくらいの時間。燃え尽きたら、次の頁。扉の隙間から闇が染みてくるたびに、炎を近づける。
私は、三輪さんの手を握ったまま、その炎を見ていた。
祖母の字の頁が、燃えていく。
細くて丁寧な字で、毎晩の数が並んでいた頁。四十二。四十二。四十一。四十。冬になると減り、春になると少し戻る。三十年分の夜。
途中で、字が変わった。
幼い、大きな字。ティルが数えはじめた頁だ。
ティルの手が、一瞬だけ止まった。
それから、その頁も引きちぎって、火に近づけた。
私は、何も言えなかった。
読む人が一人いれば、それは帳簿になる。
この世界に来て五日目の夜、私はティルにそう言った。灯簿を最後まで読んだ人は初めてです、と言ったティルに。
その帳簿が、燃えていた。
私とティルと三輪さんを、闇から守るために。
◇
ウォークインの扉の隙間から、時折、外の様子が見えた。
炎の光が弱まったとき、闇の向こうに、遠い灯が見えた気がした。ホロ村の方角だった。
一つ、ともっていた。
それが、ふっと消えた。
隣の灯も。その隣も。
「ケトくんが、知らせに行ったのに」
私がつぶやくと、ティルが首を振った。
「灯油が、ないんです。今日、店で買えなかったから」
この店が、ホロ村の灯油を売っていた。名簿から外されても、歩いて買いに来られた。
今日、棚は空だった。
ホロ村の人たちは、昨夜の残りの灯油で、今夜をしのごうとしていた。それが、尽きた。
遠くで、また一つ、灯が消えた。
ティルが、それを数えていた。
声には出さなかった。でも、唇が動いていた。一つ、消えるたびに。
灯守りは、灯の数を数える。
ともっている灯も。消えていく灯も。
◇
夜明けは、来た。
扉の隙間から、灰色の光が差し込んできた。ウォークインの中の闇が、少しずつ薄くなっていく。扉の向こうで這い回っていた気配が、引いていった。
ティルの手の中に、灯簿の最後の一頁が残っていた。
表紙だった。
紐で綴じた、厚い紙の表紙。『灯簿』と、祖母の字で書かれている。
ティルは、それを燃やさなかった。
胸に抱いて、壁にもたれて、目を閉じた。
三輪さんの息は、まだ続いていた。
私は、ウォークインの扉を開けた。
◇
売場は、灰色の光の中に沈んでいた。
天井の蛍光灯は、一本もついていない。冷蔵ケースのガラスの奥は、暗い。棚は、空だった。床に、手代が落としていった銀貨が一枚、転がっていた。
自動ドアは、開いたままだった。
外は、朝だった。灰色の空。森の木々。二つの月が、薄く消えかけていた。
私は、レジの前に立った。
画面は、真っ黒だった。
スキャナーを持ち上げた。ボタンを押した。何も起きなかった。
精算キーを押した。
プリンターは、鳴らなかった。
この世界に来て百日。毎晩、零時に精算キーを押してきた。毎晩、プリンターが鳴って、精算レポートが出てきた。神様の言葉が、細長いレシートに印字されてきた。
今朝は、何も出てこなかった。
壁の時計だけが、動いていた。電池で動く、売場の時計。九時四十一分に夜明けが来るように、私が最初の朝に合わせた時計だ。
針は、十時二十一分を指していた。
「四十分」
背後で、声がした。
ティルが、バックルームの戸口に立っていた。灯簿の表紙を、胸に抱いていた。
「夜が、四十分延びました」
彼女は、灰色の空を見ていた。
「昨日の夜明けは、九時四十一分でした。今朝は、十時二十一分」
数えていたのだ。
一晩中、灯簿を燃やしながら。消えていく灯を数えながら。夜の長さも、数えていた。
灯守りは、数える。
帳簿がなくなっても。
私は、レジの前の床に、座り込んだ。
膝に力が入らなかった。
動かないレジの画面に、灰色の朝の光が映っていた。




