第十五章 欠品
開店と同時に、棚が消えはじめた。
九時四十一分。開いたままの自動ドアから、男たちがなだれ込んできた。
十人。二十人。見たことのない顔ばかりだった。粗末な麻の服に、真新しい革の袋を提げている。袋の中で、硬貨がじゃらじゃらと鳴っていた。
先頭の男が、空の籠を二つ抱えて、おにぎりの棚の前に立った。
並んでいる谷米のおにぎりを、上から順に籠に落としていく。一つ、二つではない。腕で棚を払うようにして、まとめて。
「お客様」
私はレジの中から声をかけた。
男は振り向きもしなかった。棚が空になると、隣のパンの棚へ移った。後ろの男たちも、それぞれの棚に散っていく。干し肉の棚。灯油の小瓶の棚。菓子の棚。
あっという間に、レジの前に列ができた。
籠いっぱいの品を、カウンターに載せる。私は一つずつスキャナーを通す。男は、教会の刻印のある銀貨を、数えもせずにカウンターに置く。
銀貨の表に、昇る太陽を半分に切った紋章が打たれていた。
灯税で集められた銀貨だった。村の人たちが、灯をともすために払った銀貨。それが今、灯の家の棚を空にするために使われていた。
「お釣りです」
男は、釣り銭を受け取らずに背を向けた。
次の男。次の男。
三輪さんが、バックルームの戸口で固まっていた。
「店長。これ、全部……」
「客人様の、お買い上げです」
私は、スキャナーを握る手に力を込めた。
◇
コンビニには、購入制限という決まりがある。
台風の前や、地震のあと。水や電池や食べ物を、一人がまとめて買い占めないように、一人あたりの数を決める。お一人様三点まで、というふうに。
一人が全部を持っていけば、次に来た人の分がなくなる。
棚は、みんなのものだからだ。
私は、カウンターの上に紙を一枚貼った。ティルに習ったこの国の字で、ゆっくりと書いた。
『お一人様 各品三点まで』
次の男が、籠を置いた。おにぎりが十五個入っていた。
「申し訳ございません。お一人様、三点までとさせていただいております」
私は、三つだけを籠から出して、残りを脇によけた。
その瞬間だった。
天井の蛍光灯が、激しく瞬いた。
ちかちかと、白と黄色を行き来する。冷蔵ケースのモーターが、うなり声を途切れさせた。店の外の白い四角が、ぐにゃりと縮んだ。
まだ昼だった。それでも、森の縁の地面で、黒いものがざわりと起き上がった。
「店長!」
三輪さんの声。
私は、脇によけたおにぎりを、籠に戻した。
「……失礼いたしました。お会計、いたします」
光が、戻った。
男は、鼻で笑った。
「客人様がおっしゃってた。この店は、客を断れねえって」
彼は、十五個分の銀貨をカウンターに放った。
私は、カウンターに貼った紙を、自分の手で剥がした。
日本の店で、同じ紙を貼ったことがある。大きな台風が来る前の晩だった。水とパンと乾電池を、お一人様三点まで。文句を言う人もいた。でも閉店間際に来たお年寄りは、棚に残っていた最後の水を一本だけ手に取って、ありがとうと言ってくれた。その声を、私は今でも覚えている。
あの紙は、最後の一人のために貼るものだった。
この世界では、その一枚が貼れない。最後の一人のための棚が、守れない。
売るのを断れば、灯が消える。
買い占めを止めれば、店が死ぬ。
止めなければ、棚が死ぬ。
◇
十時半には、本店の棚の半分が空になっていた。
私は、ストアコンピュータの画面を開いた。
この店のレジは、二台で一つだ。一号機と二号機は、同じ店の売上として、一つのコンピュータに記録される。電気も線もないこの世界でも、それは変わらなかった。王都の二号店で二号機が打った売上が、本店の画面に流れてくる。
毎晩、私はそれで二号店の精算を確かめていた。
画面の右側。二号機の売上の欄。
数字が、跳ね上がっていた。
一分ごとに。十秒ごとに。
『二号機 売上点数 一二四〇』
『二号機 売上点数 一四八八』
二号店の棚は、本店より小さい。並んでいる品も少ない。
二号店も、同じことになっていた。
「ラディカ」
私は、画面に向かってつぶやいた。
届くはずのない声だった。
◇
昼前に、ティルが店に入ってきた。
あの日、バックルームを出ていったきりだった。
彼女は、空っぽの棚を見て、立ち止まった。それから、黙ってエプロンをつけた。店の予備の、少し大きいエプロンだった。
「店長。棚、前に出します」
ティルは、まばらに残った商品を、一つずつ手前の列に揃えはじめた。
奥がほとんど空になった棚の、一番前に。
それだけでも、棚の正面に商品の顔が並んだ。
天井の光が、ほんの少しだけ持ち直した。
フェイスアップ。奥がスカスカの棚を前に詰めて、満タンに見せる。鷺沼さんが笑った技だった。
今は、それしかできなかった。
男たちが、また入ってきた。ティルが揃えたばかりの品を掴んで、レジに来た。
私は、スキャナーを通した。
光が、また一段沈んだ。
ティルは、黙って次の棚へ移った。
◇
昼を過ぎて、本店の棚は、ほとんど空になった。
おにぎりの棚。空。
パンの棚。空。
灯油の棚。空。
菓子の棚に、ガムが二つ。日用品の棚に、歯ブラシが三本。
空っぽの棚は、黒い隙間をさらしていた。閉店の夜、発注を止めた棚と同じだった。あの夜、私はその隙間を、奥の商品を手前に出して埋めていた。
今は、奥にも何もなかった。
天井の光が、少しずつ弱くなっていた。
瞬くのではない。じわじわと、白が黄色に沈んでいく。棚の商品が減るたびに、光の四角が、店の外で一歩ずつ縮んでいた。
レジに人。棚に商品。扉が開いている。
二つ目が、崩れかけていた。
「三輪さん。工場は」
「女衆が、朝から炊き通しだ。だが、昨日の夕方の分は全部、夜明けにここへ運んだ。次の釜が上がるのは昼過ぎだ。取ってくる」
三輪さんは、手ぬぐいを頭に巻きながら店を飛び出していった。
入れ違いに、フィナさんが入ってきた。小さな男の子の手を引いていた。
男の子は、まっすぐおにぎりの棚に走っていった。それから、空っぽの棚の前で立ち止まった。
「白い三角は」
男の子が、フィナさんを振り返った。
フィナさんは、棚を見て、それから私を見た。私は、首を横に振るしかなかった。
「……ごめんなさい。今日は、もうないんです」
男の子は、泣かなかった。ただ、空の棚の前から動かなかった。フィナさんが、その肩をそっと抱いて、店を出ていった。
チャンスロス。
欲しかった人が、黙って帰る。帳簿には何も残らない。
でも、男の子の背中は、私の目にずっと残った。
壁の時計を見た。十三時五十分。
ミルデからの定時便は、十四時に着く。前後十五分。
十四時。
十四時五分。
十四時十分。
時刻表の上で、便が来るはずの枠が、刻一刻と過ぎていった。
タイムウィンドウ、という。
日本の店では、配送のトラックが着く時刻を、前後十五分ほどの枠で決めていた。枠の中に着けば、定時。枠を外れれば、遅延。枠を大きく外れたら、どこかで何かが起きている。事故か、渋滞か、積み込みの間違いか。
十四時十五分。
枠が、閉じた。
便は、来なかった。
◇
便が来なかった理由は、日が沈む前に分かった。
荷馬車ではなく、ケトくんが一人で走ってきたのだ。
馬も荷台もなかった。泥だらけの足で、店の前の光の中に転がり込んできた。
「店長……大橋が」
ケトくんは、肩で息をしていた。
「ミルデの大橋の関所が、閉められました。教会の兵が、店の荷馬車を一台も通さないって。理由を聞いたら、客人様のお達しだって」
「名簿から外れた村には、運んでいないのに」
「名簿の話じゃないって言われました。教会の灯油を店が勝手に売っている疑いがあるとか、何とか。調べが終わるまで、通さないって」
私は、カウンターの縁をつかんだ。
教会の灯油は、売っていない。名簿から外れた村に運んだ灯油も、ミルデの小さな油屋から、私の金で買ったものだ。
でも、それを証明する伝票は、ない。
店の伝票は使わない。店の印も押さない。私は、そう言ってあの灯油を運んだのだ。
自分で、証拠を消していた。
「王都の門も、閉まってるそうです」
ケトくんの声が、遠くに聞こえた。
「王都行きの便の御者が、ミルデまで引き返してきて言ってました。二号店に荷を届けようとしたら、門の前で兵に止められたって」
ケトくんの後ろから、三輪さんが戻ってきた。
手ぶらだった。
「工場の戸口で、買われた」
三輪さんの声は、低くかすれていた。
「炊き上がった釜ごとだ。客人の使いが、銀貨を積んで待ってやがった。女衆は、売るしかなかった。売ってくれと言われて断る店は、店じゃねえって、あいつら笑ってたそうだ」
三輪さんは、拳を握りしめていた。釜の熱で焼けた手の甲が、白くなっていた。
ケトくんが、顔を上げた。
「ホロ村に、知らせてきます。今夜は家の灯を絶やすなって」
彼は、もう一度光の外へ走り出していった。ホロ村までなら、日没に間に合う。
◇
画面の右側で、二号機の数字が止まった。
『二号機 在庫 なし』
それから、数秒後。
『二号機 応答なし』
私は、画面を見つめたまま、動けなかった。
二号機の売上の欄が、灰色に変わっていた。
応答なし。
王都の下町の、つぶれた雑貨屋。ガラスのない戸から、石畳の上に落ちていた白い光の四角。
棚が空になって、灯が消えた。
ラディカは、どうしただろう。雇った二人の店員は。最初の夜に光の中に踏み込んできた、痩せた子どもは。
画面は、何も答えなかった。
二号店の開店の夕方、戸口でしゃがんで「いらっしゃいませ」と言ったラディカの背中が、浮かんだ。
彼女は、まだ二号店のカウンターにいたはずだ。棚が空になっていくのを、一人で見ていたはずだ。
私がここで見ているのと、同じものを。
「店長」
三輪さんが、私の肩に手を置いた。
「今は、この店だ」
その声で、私は我に返った。
◇
十四時十七分。
本店の棚に、商品は一つもなくなっていた。
ガムも歯ブラシも、最後の男が買っていった。男は、銀貨を置いて、釣りも受け取らずに出ていった。それきり、買い占めの男たちは来なくなった。
店の中には、私と三輪さんと、ティルだけが残った。
天井の光は、夕暮れの色になっていた。白い四角は、自動ドアのすぐ外まで縮んでいた。その向こうで、森の縁の影が、ゆらゆらと立ち上がりはじめていた。
日没は、十四時十九分。
あと二分。
「店長」
ティルが、私を呼んだ。
彼女は、おにぎりの棚の一番奥に、腕を差し込んでいた。
「ここに、一つ」
引き出された手の中に、谷米のおにぎりが一つあった。
棚の一番奥。仕切り板の陰に、転がり込んでいたのだ。男たちが腕で棚を払ったとき、奥へ押し込まれたのだろう。
ティルは、それを棚の一番前に置いた。
正面を、ぴしりと揃えた。
天井の光が、ふっと持ち直した。
ほんの少しだけ。白い四角が、自動ドアの外で、一歩ぶん広がった。
おにぎり一個。
この店に残った、最後の商品だった。
レジに人。棚に商品。扉が開いている。
一個でも、棚に商品はある。
私は、息を吐いた。
そのとき、自動ドアが開いた。
金の縁取りの服。鷺沼さんの手代だった。
懐中電灯の白い光を手に提げて、まっすぐおにぎりの棚へ歩いていく。
最後の一個に、手が伸びた。
ゆっくりと。
懐中電灯の光が、手代の指先を白く照らしていた。指が、棚の縁を越える。おにぎりの包みの、角に近づく。
ティルが、棚の横で息を止めていた。三輪さんが、カウンターの端を握りしめていた。
売れば、棚は空になる。棚が空になれば、灯は消える。
断れば、灯は揺らぐ。
どちらでも、同じだった。
手代の指が、おにぎりの包みに触れる直前。
私は、その包みに貼られたラベルを見た。
ティルがこの国の字で書いた品名。その下に、私が日本語で書き添えた小さな字。
製造日。
それから、販売期限。
『十四時十八分』
壁の時計は、十四時十九分を指していた。
販売期限を、一分過ぎていた。




