第十四章 死に筋
鷺沼さんは、灯油の小瓶を一本だけ買った。
カウンターに置かれたのは、金貨だった。銅貨二枚の品に、金貨一枚。
「釣りはいらねえ、とは言わねえよ」
鷺沼さんは、口の端を持ち上げた。
「数えて返せ。お前の得意なやつで」
私は、黙ってドロアを開けた。金貨一枚は、銀貨十枚。銀貨十枚は、銅貨百枚。そこから、銅貨二枚を引く。
銀貨九枚と、銅貨八枚。
二号店のドロアには、そんなに銀貨はなかった。開店したばかりなのだ。私は自分の布袋を出しかけて、手を止めた。
「ラディカ。本店から預かってきた釣り銭袋、出して」
ラディカが、バックルームから革の袋を持ってきた。開店の両替用に、本店から紐金を束で運んできていた。
私は、銀貨を九枚、一枚ずつカウンターに並べた。それから、銅貨を八枚。
「銀貨九枚と、銅貨八枚のお返しです。お確かめください」
鷺沼さんは、カウンターの上の硬貨を見下ろした。
数えなかった。
手のひらで、乱暴に掻き集めて、外套の内ポケットに突っ込んだ。
「いい手つきだ。三年間、毎晩見てた」
それから、灯油の瓶を指でつまみ上げた。
「今日は、客として一つ教えに来てやった」
◇
「死に筋って言葉、知ってるか」
鷺沼さんは、灯油の瓶を光にかざしながら言った。
知っていた。
コンビニの棚は、限られている。並べられる商品の数は決まっている。だから、売れないものは棚から外す。売れないものを、死に筋という。
売れるものは、売れ筋。
店長は、毎週の売上を見て、死に筋を探す。三週続けて動かない商品、一日に一個も出ない商品。それを棚から下ろして、新しい商品や、売れ筋を増やすのに場所を空ける。死に筋カット、という。
棚は、生き物だ。死に筋を放っておくと、棚全体が死ぬ。
「今朝、大司教に進言した」
鷺沼さんは、灯油の瓶を置いた。
「灯税の払いが細い村は、死に筋だ。教会の名簿から外せ。外した村には、教会の灯油を配るな。灯の家の便も通わせるな。通わせたら、ミルデの大橋の関所を閉じろ」
ラディカの手が、カウンターの端で止まった。
「死に筋を切らねえ店は、潰れる。お前が一番よく知ってるだろ」
鷺沼さんは、そう言って笑った。
「近いうちに、布告が出る。楽しみにしとけ」
◇
布告は、本当に出た。
二号店が開いてから、ひと月がたった朝だった。その間、鷺沼さんは一度も姿を見せなかった。手代が毎朝、祭壇の裏口で荷を受け取るだけだった。私は、あの夜の言葉を忘れかけていた。
ミルデの出張所の壁に、大きな羊皮紙が貼り出された。教会の紋章と、大司教の印。ティルが、それを一字ずつ読み上げてくれた。
灯税の払いが三期続けて規定に満たない村、三十を名簿より除く。
除かれた村に、教会の灯油を配らない。
暁教会御用達の店は、除かれた村に荷を運んではならない。これを破った場合は御用達を解き、王都の二号店を閉じる。ミルデ大橋の関所において、店の荷を通さない。
その下に、三十の村の名前が並んでいた。
ティルの声が、途中で止まった。
彼女は、羊皮紙の一点を見つめていた。
「……ホロ村」
三十の村の、二十八番目だった。
◇
バックルームに、全員が集まった。
三輪さんと、ラディカと、ティル。王都からはバルドさんも来てくれた。机の上に、共同配送の時刻表を広げた。
七十二の村。北回りと南回り。東回りと西回り。
その中の三十に、印をつけた。
「関所を閉じられたら、王都への便が止まる」
バルドさんが、低い声で言った。
「王都の便が止まれば、教会の三千個も届かねえ。届かなきゃ、御用達の取り決めを破ったことになる。二号店も閉じられる」
「それだけじゃない」
ラディカが、時刻表を指でなぞった。
「ミルデの倉の荷は、どの便も大橋を渡って出ています。関所を閉じられたら、残りの四十二の村にも荷が届きません」
三十の村を守れば、七十二の村全部が止まる。
三十の村を切れば、四十二の村は守れる。
計算は、簡単だった。
簡単すぎて、吐き気がした。
「切るしか、ねえな」
三輪さんが、腕を組んだまま言った。
誰も、何も言わなかった。
私は、ボールペンを取った。
時刻表の上で、三十の村の名前に、一本ずつ線を引いていった。西回りの十。東回りの十一。南回りの七つ。北回りの二つ。
一本引くたびに、伝票の灯数の欄が頭に浮かんだ。十九。九。十四。毎日、御者さんが持ち帰ってくれた数字。村の人が、毎晩数えてくれた数字。
二十九本目で、ペンが止まった。
ホロ村。
この店から一番近い村だった。最初の朝、森の向こうから歩いてきた人たちの村。ドルムさんとフィナさんの村。グラシアさんの村。
ティルの村。
ホロ村の便は、北回りの最初の停車地だった。店から荷馬車で、ほんの少し。歩いても来られる距離だ。
それでも、名簿から外れた村に荷を運べば、取り決めを破ったことになる。
私は、ペンを動かした。
ホロ村の上に、線が一本引かれた。
◇
「店長も」
背後で、声がした。
ティルだった。
彼女は、机の端に立っていた。両手を、体の横で握りしめていた。
「店長も、数字で村を切るんですか」
私は、振り返れなかった。
「切るんじゃない。外すだけ。便を止めるだけで、村がなくなるわけじゃない。ホロ村の人は、歩いて店に来られる。灯油も、店で買える」
「ほかの二十九の村は?」
答えられなかった。
東回りの十一の村は、店から歩いて丸一日かかる。南回りの七つは、谷を越える。
「教会の帳簿に、ホロ村はもう載っていません」
ティルの声が、震えていた。
「おばあちゃんは、三十年、ホロ村の灯を数えました。わたしも、毎晩数えてます。ホロ村は、ちゃんとあるんです。二十五の灯が、毎晩ともってるんです」
彼女は、腰の革袋から灯簿を出した。
「でも、教会の帳簿には、ないことになった。灯が六十あったことになってたときと、同じです。数字が合わないところは、帳簿から消せばいい。教会は、そうやって三百年やってきたんですよね」
ティルは、灯簿を胸に抱いた。
「店長は、違うと思ってました」
それだけ言って、彼女はバックルームを出ていった。
自動ドアのチャイムが、一度鳴った。
私は、線を引いたばかりの時刻表を見下ろしていた。
三十本の線。
死に筋カット。
棚を守るために、動かない商品を外す。私は、日本の店で何百回もそれをやってきた。外した商品のことを、二度と思い出したことはなかった。
商品は、外されても泣かない。
◇
その夜、私は眠れなかった。
精算を終えて、ノートを開いた。最後の頁に、今日の日付を書いた。
その下に、何を書けばいいのか分からなかった。
違算は、出ていなかった。ドロアの中身は、ぴたりと合っていた。
合っているのに、何かが足りなかった。
私は、ノートを閉じた。
それから、自分の布袋を開けた。
中には、銅貨が六枚と、銀貨が一枚。それだけだった。
私は、制服のポケットを探った。
腕時計が出てきた。
日本から持ってきた、安い腕時計だ。電池で動く、銀色の文字盤。この世界では、時刻は店の壁の時計で足りていた。腕時計は、もう何十日も、ポケットの中で時を刻んでいるだけだった。
ボールペンが三本。一本だけ、手元に残した。
それから、閉店の夜に財布に入っていた、日本円の小銭。
翌朝、私は荷馬車に乗ってミルデへ行った。
町の古物商は、腕時計を手に取って、長いこと眺めていた。秒針が動くたびに、目を丸くした。
「これは、何の魔道具だ」
「時を刻む道具です。電池が切れるまでは」
古物商は、銀貨を十二枚出した。二本のボールペンは、一本につき銀貨一枚。日本円の硬貨は、珍しい細工物として銅貨を少し。
銀貨十四枚と、銅貨が少し。
そのお金で、私はギルドに属していない荷馬車を三台雇った。
◇
教会の灯油は、使えない。
私は、ミルデの町の油屋を回って、灯油を買い集めた。鷺沼さんの荷が通っていない、小さな油屋だった。値は高かった。それでも、買えるだけ買った。
荷馬車の御者には、本当のことを話した。
「名簿から外れた村に、灯油を運びます。灯の家の便ではありません。私が個人で雇った荷馬車です。店の伝票は使いません。店の印も押しません」
御者の一人が、眉をひそめた。
「見つかったら、どうなる」
「私が、責めを負います」
御者たちは、顔を見合わせた。それから、一人がうなずいた。
「御者に責なし、ってやつか。噂は聞いてる」
三台の荷馬車は、夜明けにミルデを出た。東回りの十一の村のうち、一番遠い三つの村へ。
一日目は、三つの村に灯油が届いた。
二日目も、三つ。
その夜、戻ってきた御者の一人が、私に紙切れを一枚渡した。
「村の年寄りに、頼まれた」
茶色い、厚い村の紙だった。半分に折られていて、折り目にまたがって、村の木の印が押してある。
中に、数字が一つだけ書いてあった。
灯数、七。
その下に、たどたどしい字で、もう一行。ティルに読んでもらうまでもなかった。店の伝票と同じ書き方を、真似ていたから。
『昨夜』
名簿から外された村だった。伝票はもう届かない。数えても、誰も受け取らない。
それでも数えて印を押して、寄越してきた。
私は、その紙切れを、自分の帳面に挟んだ。店の帳簿には、載せられなかった。
三日目には、銀貨が尽きた。
私は、自分の取り分を、全部そこに回した。店長としての週ごとの取り分。それが入るたびに、灯油に換えて、荷馬車に積んだ。
自分の財布で、世界の穴を埋めていた。
閉店の夜に、ドロアに五千円を入れたのと、同じ手つきで。
◇
六日目の夜だった。
本店のバックルームで、私は油屋の書き付けを数えていた。どの村に、何樽運んだか。誰にも見せない帳面に、細かく書きつけていた。
背後で、床がきしんだ。
三輪さんが、戸口に立っていた。
手に、谷の工場から持ってきた米の袋を抱えていた。夜遅くに戻ってきたのだろう。
三輪さんは、私の手元の帳面を見た。
油屋の書き付け。荷馬車の雇い賃。三十の村の名前のうち、灯油を届けた村に小さな印。
三輪さんは、何も聞かなかった。
全部、分かったのだと思う。
彼は、米の袋を床に下ろした。それから、私の向かいの椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。
長いこと、黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「店長。それ、帳簿に載らねえぞ」
閉店の夜と、同じ言葉だった。
あの夜、私は答えた。載せないために、書いてるんです。そう言って、少しだけ笑った。
今夜は、笑えなかった。
「……分かってます」
「分かってて、やってるのか」
「切った村を、放っておけません」
「放っておけねえのは、分かる」
三輪さんは、膝の上で両手を組んだ。火ぶくれの跡が、指の節に白く残っていた。
「だがな、店長。工場で一番まずいのは、ラインの外で誰かがこっそり手を足すことだ。数字が合っちまうからな。どこが足りねえのか、誰にも見えなくなる」
私は、帳面から目を上げられなかった。
「教会がやってることと、何が違う」
三輪さんの声は、責めてはいなかった。
それが、いちばん痛かった。
◇
窓の外で、夜が深くなっていた。
精算のあと、プリンターは一行だけ印字していた。
【永夜まで 三十一夜】
三十の村の灯は、いくつ消えたのだろう。私が届けた灯油で、いくつ持ちこたえたのだろう。
数えていない。
誰も、数えていない。
そのとき、自動ドアのチャイムが鳴った。
こんな夜更けに、客が来るはずはなかった。
入ってきたのは、金の縁取りの服を着た若い男だった。鷺沼さんの手代だった。手に、白い光の筋を放つ筒を握っていた。閉店の夜、鷺沼さんがこの店から持ち出した懐中電灯だった。その光だけを頼りに、闇の中を歩いてきたのだろう。服の裾が、泥で汚れていた。
手代は、カウンターの前で立ち止まった。
私を見て、それからバックルームの戸口の三輪さんを見た。
「客人様からの、伝言です」
手代は、一枚の紙を差し出した。教会の紋章の封蝋。
「明日の開店から、灯の家の本店と二号店。二つの店の棚にあるもの、全部」
手代は、そこで一度言葉を切った。
「客人様が、お買い上げになります」




