第十三章 人時売上高
シフト表が、私の名前で埋まった。
王都から戻った翌朝、バックルームの壁に新しい紙を貼った。
横に日付。縦に本店のレジとミルデの倉。二号店のレジと、定時便の見回り。マス目の一つ一つに、誰がいつ働くかを書き込んでいく。
シフト表を作るのは、店長の大事な仕事だ。
守らなければいけないことが、いくつもある。新人だけで店を回させない。夜は必ず二人以上にする。同じ人を何日も続けて長く働かせない。休みの日は、ちゃんと休ませる。
人が倒れれば、店も倒れる。
私はそれを知っていた。
知っていて、マス目を埋めていった。三輪さんの名前。ラディカの名前。セルカさんの名前。ミルデで育てた若者たちの名前。
埋まらないマス目が、残った。
夜明け前の倉の見回り。二号店の夜の精算。本店とミルデと王都をつなぐ荷馬車の見張り。それから、三つの場所から届く数字を、全部突き合わせる仕事。
私は、空いたマス目に、自分の名前を書いた。
一つ書くと、次の空白が目に入った。そこにも書いた。
気がつくと、シフト表の一番下の行は、端から端まで「小野寺」で埋まっていた。
◇
二号店の正式な開店は、十日後と決まった。
御用達の儀で許しは出たが、王都で店を開くには、教会の役所にいくつもの書き付けを出さなければならなかった。ラディカが役所を回り、私は数字を回った。
大締めまで、六十夜を切った。
その数字が、頭から離れなかった。
何をすればいいのか、まだ分からなかった。分からないまま、目の前の仕事だけが増えていった。
人時売上高という数字がある。
店の一日の売上を、その日に働いた全員の時間の合計で割ったものだ。一人が一時間働いて、いくら売り上げたか。
この数字が高いほど、少ない人数で効率よく売っていることになる。日本の店長は、毎月この数字を本部に報告していた。人を増やせば売上は伸びるが、人時売上高は下がる。人を減らせば上がるが、店が回らなくなる。
その釣り合いを取るのが、店長の腕だった。
三つの場所の数字を、毎晩計算した。本店。ミルデの倉。二号店の準備。
人時売上高は、日を追って上がっていった。
当然だった。
私は、自分の働いた時間を、どこにも書いていなかった。
日本の店でも、そうだった。店長は管理職だから、時間で給料は出ない。何時間働いても、シフト表の店長の欄は空白のままだった。誰も数えない時間。どこにも載らない労働。
その時間が、数字を押し上げていた。
二号店の準備の数字だけは、私を安心させてくれた。
数日おきに、ラディカが届けてくる書き付けと残りのお金。それを数えると、一度もずれたことがなかった。棚の板が何枚。釘が何袋。日当が何人分。残りの銅貨が何枚。ぴたりと合う。
「ラディカの書き付けは、一度も合わなかったことがないね」
ある晩、私がそう言うと、ラディカは少しだけ笑った。
「店長に教わったので」
その笑い方が、いつもより少し硬かった気がした。
でも私は、すぐに次の帳面を開いていた。合っている数字の前で、立ち止まる理由はなかった。
◇
五日目の朝、ミルデの倉の帳面を見ていて、私は同じ行を三回読んでいることに気づいた。
字が、頭に入ってこない。
目を閉じて、開けた。紙の上の数字が、少しだけ揺れて見えた。
「店長」
ティルの声がした。
彼女は、倉の入口に立っていた。肩に、伝票の束を抱えている。ミルデへ向かう便で、乗ってきたのだろう。
「いつ寝ましたか」
「さっき。荷馬車の上で」
「どのくらい」
「……一時間くらい」
ティルは、何も言わずに私の前に来た。伝票の束を机に置いて、私の手元の帳面をのぞき込んだ。
「ここ、数字が一つずれてます」
指で示された行を、私は見直した。
ずれていた。南回りの三番目の村の灯数を、四番目の村の欄に書いていた。
いつもなら、絶対にしない間違いだった。
「……ありがとう」
私は、ペンで線を引いて直した。
ティルは、しばらく私の手元を見ていた。
それから、言った。
「店長。わたしに、レジをやらせてください」
◇
私は、ペンを置いた。
「本店のレジに、わたしが立ちます。そうしたら、三輪さんがミルデの倉を見られます。三輪さんがミルデにいれば、店長は二号店に行けます」
ティルの声は、落ち着いていた。何度も頭の中で練習してきたのだと分かった。
「わたし、もう数字が読めます。銅貨も銀貨も、数えられます。紐金の束ね方も覚えました。フェイスアップも、店長より早いです」
「知ってる」
「じゃあ」
「でも、お金は駄目」
私は言った。
自分でも、声が硬くなっているのが分かった。
「お金を扱うと、合わないことがある。どんなに気をつけても、ある。そのとき、最初に疑われるのはレジに立っていた人。ティルが、疑われる」
「疑われても、いいです」
「よくない」
私は、首を振った。
「疑われたら、あなたが傷つく。私は、それを見たくない」
ティルは、黙った。
倉の奥で、町の若者たちが荷を数える声がしていた。一つ、二つ、三つ。二人一組で、読み上げて、見比べて。
ティルが、口を開いた。
「店長は、わたしを疑ってるんですか」
「違う」
「じゃあ、どうしてわたしは、お金に触っちゃいけないんですか」
「ティルを守りたいから」
「守るって、何から」
私は、答えようとした。
答えは、喉の奥でつかえた。
二十六年前の夜。母が、店のバックルームで泣いていた。オーナーの声が、壁越しに聞こえた。お前しかいないんだよ、レジにいたのは。
十三歳の私は、その声を聞いていた。
ティルが、私の顔を見ていた。
「店長」
彼女は、ゆっくりと言った。
「わたしは、疑われないことより、信じてもらうことが欲しいです」
その言葉が、倉の空気の中にしばらく残っていた。
信じてもらうこと。
私は、ティルの目を見られなかった。机の上の帳面に視線を落とした。さっき、ティルが見つけてくれた間違いの上に、私が引いた一本の線があった。
「……考えさせて」
それだけ言うのが、精一杯だった。
ティルは、うなずいた。
それから、伝票の束を私の手元に置き直して、倉を出ていった。
彼女の背中が、入口の光の中で小さくなっていくのを、私は黙って見ていた。
◇
七日目に、御者が三人辞めた。
東回りの便を走らせていた三人だった。バルドさんが、ギルドの小屋で頭を抱えていた。
「客人の手代だ」
バルドさんは、吐き捨てるように言った。
「一人に金貨一枚。うちの稼ぎの半年分だ。王都の教会の荷を運ぶ仕事に、まとめて引き抜きやがった」
金貨一枚。
鷺沼さんが、店のカウンターに置いていった金貨の袋を思い出した。前金だと言っていた。
あの袋と同じ金貨が、私の店の御者を引き抜くのに使われている。
「東回りの便は、明日の分から穴が開く」
バルドさんは、壁の時刻表を睨んでいた。
「ほかの便の御者を回せば、今度はそっちに穴が開く。新しいのを育てるには、半月はかかる」
東回りの十八の村。
明日、荷が届かなければ、灯油が切れる村が出る。灯が消える。
「私が走ります」
言葉が、勝手に出ていた。
バルドさんが、顔を上げた。
「店長が? 手綱を握ったことがあるのか」
「ありません。でも、道は時刻表で全部覚えています。どの村で何を下ろすかも」
「馬は道を覚えてねえぞ」
「覚えてる人に、教わります」
翌朝、九時四十一分。
私は、東回りの荷馬車の御者台に座っていた。隣には、南回りの便を休みにしてもらったケトくんが座っていた。
「手綱は、こう持ちます。強く引くと馬が止まります。弱く緩めると歩きます」
ケトくんは、真剣な顔で教えてくれた。
「店長、怖くないですか」
「怖い」
正直に言った。
「でも、明日、灯油が届かない村があるほうが怖い」
ケトくんは、少し笑った。
「店長らしいです」
東回りの道は、ぬかるみが多かった。二つ目の村の手前で、車輪が泥にはまった。ケトくんと二人で、荷を半分下ろして車を押した。
三つ目の村では、伝票の数を村の人と数えた。灯数の欄に、村の人が数字を書いた。割印を押した。
四つ目の村では、村長らしい老人が、荷馬車を見るなり地面に座り込んだ。
「来ないかと思った」
老人は、空の灯油の瓶を抱えていた。昨夜、最後の一滴で灯をともしたのだという。
「今夜の分が、なかった。便が来なけりゃ、今夜でこの村は終わりだと思っとった」
私は、灯油の小樽を下ろした。老人のしわだらけの手が、樽の縁を何度も撫でていた。
手綱を握る手の痛みが、少しだけ遠くなった。
五つ目の村で、日が傾きはじめた。
最後の村を出たのは、十三時四十分だった。
帰り道、森の影が長く伸びていた。馬が、何かを嫌がるように首を振った。ケトくんが手綱を取り替えて、馬の首を撫でた。
店の白い光が見えたのは、十四時十六分だった。
日没の、三分前。
荷馬車が光の四角の中に滑り込んだ瞬間、背後の森の縁で、影がざわりと立ち上がった。
私は、御者台の上で、しばらく動けなかった。
手綱を握っていた手のひらが、赤く擦り切れていた。
ケトくんが、黙って自分の水筒を差し出してくれた。私はそれを受け取って、一口飲んだ。水は、ぬるくて、少しだけ革の味がした。
◇
その夜、本店のバックルームで、三輪さんが私の手のひらに軟膏を塗った。
自分の火ぶくれに塗っていたのと、同じ軟膏だった。
「店長」
三輪さんは、軟膏の蓋を閉めながら言った。
「工場でな、ラインを止めねえために、主任が自分で釜の前に立つことがある」
「……はい」
「一日なら、いい。二日も、まあいい。だが三日目からはな、主任が釜の前に立ってることがラインの一部になっちまう」
三輪さんは、私の目を見た。
「主任がいなきゃ回らねえラインは、主任が倒れた日に止まる。それは、ラインじゃねえ。主任の体を燃やして動いてる釜だ」
私は、何も言えなかった。
「シフト表、見たぞ」
三輪さんは、壁の紙を顎で指した。
一番下の行。端から端まで、「小野寺」。
「あれは、表じゃねえ。店長の体の、使い道の一覧だ」
三輪さんは、それだけ言って、バックルームを出ていった。
私は、擦り切れた手のひらを膝の上に載せたまま、シフト表を見上げていた。
立ち上がって、一番下の行の「小野寺」を一つ、指でこすって消した。
明後日の、夜明け前の倉の見回り。
消したマス目は、白く空いた。
その白さを、私は長いこと見ていた。誰の名前を書けばいいのか、分からなかった。三輪さんは本店のレジに立っている。ラディカは王都にいる。セルカさんは昼の倉で手一杯だ。
ティルの顔が浮かんだ。
私はボールペンを取って、白いマス目に、もう一度自分の名前を書いた。
その夜の精算のあと、プリンターが一行だけ印字した。
【永夜まで 七十夜】
◇
二号店が開いたのは、それから二日後の夕方だった。
開店の挨拶は、ラディカがした。
王都の下町の住人たちが、戸口の前に集まっていた。最初の夜に光の中に踏み込んできた痩せた子どもが、母親の手を引いて一番前にいた。
「いらっしゃいませ」
ラディカの声が、石畳の上に響いた。
人々が、白い光の中へ入ってきた。谷米のおにぎりを手に取る人。灯油の小瓶を見つめる人。宅配の受付の前で、遠くの村に住む家族の名前を告げる人。
私は、店の奥で、売上を数えていた。
数えながら、ラディカの横顔を見ていた。
彼女は笑っていた。でも、目の下に、薄い影があった。私と同じ影だった。
ラディカの給金の袋のことを、私はまだ知らなかった。
日が沈んで、二号店の白い光が、王都の下町に四角く落ちた。
戸口の鈴が鳴った。
石畳を踏む、つやのある革靴の音。
金糸の外套の裾が、戸口をくぐった。
ラディカの声が、一瞬だけ途切れた。
鷺沼さんは、店の中を見回した。棚を見て、天井の白い光を見て、最後に私を見た。
それから、カウンターの前で立ち止まって言った。
「客として来た」




