第十二章 違算
生まれて初めて、表彰というものを受けた。
満月の夜だった。
王都の暁の祭壇は、白い石でできた円い広間だった。天井は高く、壁に沿って何百ものランプが並んでいる。床の真ん中には、昇る太陽を半分に切った形の紋章が、金で嵌め込まれていた。
その紋章の上に、私は立たされていた。
着ているのは、店の制服だった。
ティルとラディカが、どうしてもそれで出ろと言ったのだ。教会の人たちが貸してくれた白い礼服は、バックルームに畳んで置いてきた。青い縞のシャツに、胸に店のロゴの入ったエプロン。名札。
広間を埋めた人たちが、私を見ていた。
金や紫の服を着た貴族たち。黒い長衣の司祭たち。広間の後ろのほうには、バルドさんとケトくんとオスカさんが、窮屈そうに並んでいた。ドルムさんとフィナさんの姿も見えた。三輪さんは、店のレジに残った。
そして最前列に、金糸の外套。
鷺沼さんは、腕を組んで、口の端を持ち上げていた。
◇
大司教オルドは、思っていたより小柄な人だった。
白い長衣に、金の帯。年は六十を少し過ぎたくらいだろうか。頬がこけて、目の下に濃い影があった。司祭というより、何十年も帳場に座り続けた番頭のような顔だった。
右手の中指の先が、黒く染まっていた。
インクの染みだ。毎日、何かを書き続けている人の指だった。
「灯の家の主、リツ・オノデラ」
オルドの声は、広間によく通った。祭壇の中も店と同じように、言葉が通じた。教会の祭壇には、そういう力があるのだと、あとでティルが教えてくれた。
「そなたの店は、北の村々に灯を戻した。七十二の村に荷を運び、灯油を届け、闇に落ちかけた家々を救った」
広間が、ざわめいた。
「暁教会は、これを認める。今宵より、そなたの店を暁教会御用達とする。王都の二号店の営みも、これを許す」
侍祭が、銀の盆に載せた木の板を運んできた。
焼き印で、教会の紋章と、文字が刻まれていた。ティルが小声で読んでくれた。暁教会御用達。
オルドが、それを私に手渡した。
板は、思ったより重かった。
広間に、拍手が起こった。
最初はぱらぱらと、それから波のように。後ろのほうで、バルドさんが手のひらを打ち鳴らしていた。ケトくんが、跳び上がりそうになっていた。ドルムさんは、なぜか目元を拭っていた。
ティルとラディカが、柱の陰で抱き合っていた。
私は、木の板を両手で持って、頭を下げた。
拍手の中で、一つだけ、手を叩いていない人がいた。
最前列の鷺沼さんは、組んだ腕をほどかなかった。
ただ、私を見て、笑っていた。
◇
儀式が終わって、人々が広間から出ていったあと。
オルドが、私を呼び止めた。
「主殿。少し、話がしたい」
彼は、祭壇の奥の扉を指さした。
「あなた一人で」
ティルが、私の袖をつかんだ。私は、その手をそっと外した。
「大丈夫。すぐ戻る」
扉の奥は、細い石の階段だった。オルドがランプを手に、先に下りていく。私は、そのあとについていった。
階段の下に、小さな部屋があった。
窓はない。壁には、ランプが一つだけ。
部屋の真ん中に、石の台があって、その上に一冊の本が開かれていた。
本、と呼ぶには大きすぎた。
一枚の頁が、私の腕を広げたくらいの幅がある。厚さは、私の胸の高さまで積み上がっていた。表紙は、黒ずんだ革だった。
「暁帳だ」
オルドが言った。
「三百年前から、毎夜、ここに灯の数を記して神に報告している」
彼は、開かれた頁を手のひらで示した。
細かい字が、びっしりと並んでいた。日付と、数字。日付と、数字。一行に一夜。
私は、字が読めない。
でも、数字の形だけは、この五十日で覚えていた。灯簿と伝票を、毎晩見てきたから。
一番下の行の数字を、私は指でなぞった。
ティルが伝票に書く数字と、同じ形の文字が並んでいる。
「三万、百、十二」
私が読み上げると、オルドの眉が動いた。
「読めるのか」
「数字だけは」
私は、その一つ上の行を見た。
三万百十二。
その上の行。
三万百十二。
指で、頁をめくった。オルドは止めなかった。
前の頁もその前の頁も、一番下の数字は全部同じだった。
三万百十二。三万百十二。三万百十二。
何十頁めくっても、同じ数字が、同じ筆跡で並んでいた。
◇
私は、頭の中で計算していた。
ティルが作った表。七十二の村の本当の灯は、教会の告示の四割ほど。
暁帳の数字が、王国じゅうの村の告示を足したものだとしたら。
三万百十二の、四割。
一万二千、とすこし。
足りない。
一万八千ほど、足りない。
毎晩、神に報告されている灯の数は三万。実際にともっている灯は、一万二千ほど。その差、一万八千。
レジの理論値と、ドロアの中の実際の現金。
その差を、私は二十年、毎晩見てきた。
指が、勝手に震えていた。
「大司教様」
私は言った。
「これは、違算です」
オルドが、首をかしげた。
「いさん?」
この世界には、その言葉がなかった。
「あるはずの数と、実際にある数が、合わないことです。私の国の店では、毎晩、それを確かめます。理論値と実数。システムの上で、これだけあるはずだという数と、実際に一枚ずつ数えた数」
私は、暁帳の頁を指さした。
「これは、理論値です。三百年前、灯守りがいた頃に数えた数。それをそのまま、毎晩、書き写している」
オルドは、何も言わなかった。
「実数は、この四割ほどです。私の店の伝票と、灯守りの家の娘の灯簿で、数えました」
部屋の中に、ランプの火が揺れる音だけがした。
やがて、オルドが口を開いた。
「……知っている」
その声は、広間で聞いたものとはまるで違った。低く、かすれて、疲れていた。
「知っているよ、主殿。三十年前、私がこの帳面を任されたときから、ずっと」
◇
オルドは、石の台の縁に手をついて、話しはじめた。
三百年前、教会は灯守りを廃した。毎晩、村々の灯を数えて回る灯守りに払う金が惜しかったのだ。代わりに、村から灯税を集める。灯の数は、その年の灯税の帳面から写す。
最初の年は、それでよかった。
二年目も、三年目も。
でも、灯は少しずつ減っていった。村が一つ、闇に呑まれる。灯税を払えない家が、灯を消す。教会の帳面には、それが載らない。誰も数えに行かないから。
「暁帳に偽りの数を記すと、その偽りの分だけ、夜が延びる」
オルドは、ランプの火を見つめながら言った。
「三百年前の約束だ。人は毎夜、灯の数を正しく報告する。神は、その数に見合った朝を返す。報告が実際より多ければ、その差は繰り越される。帳簿の上に、合わない数が積み上がっていく」
繰越違算。
閉店の夜、精算レポートの最後に印字された文字が、頭の中に浮かんだ。
繰越違算あり。締めを要請する。
日本の店でも、原因の分からない違算を、翌日に持ち越すことがある。繰越という。でも、翌日も原因が分からなければ、また繰り越す。繰り越すたびに、次の日の締めが重くなる。いつか、誰かが締めなければならない。
「年に一度、冬至の夜に、大締めがある」
オルドが言った。
「その年の暁帳を閉じて、神に差し出す夜だ。そこで繰越が消えなければ、来る年の夜はさらに延びる。今の延び方なら、次の大締めのあと二十夜ほどで、夜は二十四時間に届く」
「二十四時間」
「朝が来なくなる。永夜だ」
オルドの指先が、石の台の上で小さく震えていた。インクに染まった中指が。
「なぜ、本当の数を報告しないんですか」
私は聞いた。
オルドは、長いこと黙っていた。
「本当の数を記せば、三百年の偽りを認めることになる。教会は、灯を守ると言って灯税を集めてきた。その灯が、四割ほどしか残っていないと知れたら」
彼は、ゆっくりと首を振った。
「民は、教会を信じなくなる。信じなくなれば、灯税は集まらない。灯税が集まらなければ、教会は灯油を配れない。灯油が配られなければ、残った灯も消える」
それは、言い訳だった。
でも、半分は本当だった。
「それに」
オルドは、私を見た。
「本当の数を記しても、闇に呑まれた村は戻らない。失われた灯は、失われたままだ。夜が延びるのは止まるかもしれない。だが、短くはならない。誰も救われない」
◇
「だから、あなたの店が要るのです」
オルドの声が、少しだけ強くなった。
「主殿の店の灯は、暁帳に載っていない。帳簿の外の灯だ。だから、偽りの数に縛られない。一つの店で、何百もの村に灯を配れる」
彼は、石の台の下から、一枚の羊皮紙を取り出した。
「店の灯を、この祭壇に結んでほしい」
羊皮紙には、細かい字が並んでいた。一番下に、署名と印を押す欄がある。
「結ぶ?」
「暁の祭壇の灯として、帳簿に記す。閉まらない店の灯を、繰越の担保として神に差し出すのだ。そうすれば、神は大締めのたびに、担保があるとして繰越を先へ送ってくださる。何年でも。何百年でも」
担保。
借金が返せないときに、代わりに差し出すもの。
「繰越は消えない。だが、永夜は来ない。誰も責められず、誰も裁かれず、世界は今のまま続く」
オルドは、羊皮紙を私のほうへ押しやった。
「あなたの店が、世界を救うのです」
私は、羊皮紙を見下ろした。
読めない字が並んでいた。でも、何が書いてあるかは分かった。
合わない数を、誰かが黙って埋める。
埋めたことは、どこにも書かない。原因は探さない。繰り越して、繰り越して、何もなかったことにする。
私が、毎晩やってきたことだった。
二十年間。財布から五千円を出してドロアに入れ、ノートに一行書いて精算キーを押す。合った。終わり。
その「合った」の下に、何が埋まっているのかを、私は一度も掘り返さなかった。
この世界の教会は、それを三百年やってきた。
私は、羊皮紙から手を離した。
「お断りします」
声が、思ったより静かだった。
オルドの目が、わずかに見開かれた。
「なぜだ」
「それは、締めじゃないからです」
私は言った。
自分に言い聞かせるように。
「合わない数を別のもので埋めて、合ったことにするのは締めじゃありません。それは、穴埋めです。穴埋めをすると、原因が分からなくなる。原因が分からないと、同じ違算がまた出る」
オルドは、何も言わなかった。
ランプの火が、彼の顔の影を揺らしていた。
やがて、彼は羊皮紙を丸めて、石の台の下に戻した。
「……大締めは、六十夜後だ」
それだけ言って、彼は階段を上っていった。
◇
祭壇の外の廊下に出ると、柱にもたれて鷺沼さんが立っていた。
「断ったか」
彼は、私の顔を見るなり言った。
「やっぱりな」
「……聞いていたんですか」
「聞かなくても分かる。お前の顔に書いてある」
鷺沼さんは、柱から背を離した。
「なあ店長。笑えるだろ。この世界の神様もお偉方も、帳簿の穴を自腹で埋めて、何もなかった顔をしてる。三百年もだぞ」
彼は、喉の奥で笑った。
「お前と、同じじゃねえか」
私は、何も言い返せなかった。
鷺沼さんは、外套の裾を翻して、廊下の向こうへ歩いていった。足音が遠ざかって、消えた。
廊下の端で、ティルとラディカが待っていた。
ティルが駆け寄ってきた。
「店長。何があったんですか」
私は、答えられなかった。
◇
その夜、私たちは二号店に泊まった。
零時。
ラディカが二号機の精算キーを押すと、プリンターが鳴った。いつもの精算レポートが出てくる。売上。客数。違算なし。
そのあとも、紙は止まらなかった。
ジジジジ、と細長いレシートが伸びる。閉店の夜と、同じ音だった。
最後の行に、文字が並んでいた。
【本夜の違算 マイナス一万八千二百四十灯 永夜まで 八十夜】
ラディカが、息をのんだ。
ティルが、レシートの端を両手で押さえた。数字が読めた。彼女は、唇を噛んでいた。
一万八千二百四十。
私が祭壇の下で、頭の中で弾いた数と、ほとんど同じだった。
神様は、知っていたのだ。
三百年前から、毎晩。教会が報告する三万百十二と、本当にともっている灯の数が、合っていないことを。
知っていて、毎晩、帳簿に書きつけていた。
繰越違算あり。締めを要請する。
閉店の夜、あのレシートが私に向けて言ったのは、私の店の五千円のことだけではなかったのかもしれない。
私は、レシートを見下ろしたまま、動けなかった。
八十夜。
窓のない二号店の天井で、二号機の白い光が、小さく瞬いた気がした。




