第十一章 チャンスロス
週三千個の予約を、私は受けた。
受けるしかなかった。
断れば、灯が揺れる。それだけではない。王都の教会が欲しがっている三千個は、王都の人たちの口に入る。教会の炊き出しや、祭壇の勤めの合間の食事になる。断れば、その人たちが食べるはずだった分が、どこにも存在しないことになる。
チャンスロス。
収穫祭の前、ラディカに説明した言葉を、私は自分の頭の中で繰り返した。
お客さんが欲しかったのに、棚になくて売れなかった分。売り損ない。
廃棄ロスは、帳簿に残る。捨てた数を数えて、登録する。目に見える損だ。
チャンスロスは、帳簿に残らない。欲しかった人が黙って帰れば、それで終わりだ。誰も数えない。どこにも書かれない。
だから、店長はチャンスロスを一番怖がる。
見えない損は、気づいたときには取り返せないほど大きくなっているから。
◇
三輪さんの工場は、谷にもう一つ増えた。
南の谷の村で、谷米を作っている人たちが、自分たちで釜を据えたいと言ってきたのだ。三輪さんは三日間谷に泊まり込んで、水の量り方を教えた。
「浸ける前と後で、重さを量れ。毎回だ」
谷の女衆は、三輪さんの言葉を、歌のように繰り返して覚えたという。
ミルデの倉は、王都行きの仕分け場をもう一つ作った。バルドさんのギルドは、王都への便を毎日一本出すことにした。ミルデから王都までは、荷馬車で丸一日。夜明けに出て、日暮れにぎりぎり着く。
途中の宿場に、灯を持った見張りを置いた。
それでも、問題が一つ残った。
「王都に着いた三千個を、どこで受け取るか」
私が言うと、ラディカが首をかしげた。
「教会に、そのまま届ければいいんじゃないですか」
「届けて、それで終わりならね」
私は、鷺沼さんが置いていった予約書を広げた。
ティルが読み上げてくれた中身は、こうだった。週三千個。毎日、夜明けの勤めの前に、祭壇の裏口へ。受け取りは、客人サギヌマの手代が行う。
「受け取るのが、鷺沼さんの手代なんだよ。検品も、受領の印も、全部向こう」
「……あ」
ラディカは、すぐに分かったようだった。
「数が合わないって言われたら、こっちは何も言えない」
「そう」
届けた側と受け取った側が、同じ紙を見て、同じ数を確かめる。それができなければ、納品伝票はただの紙切れになる。
「王都に、店を作る」
私は言った。
「二号店。荷はいったんそこで受け取って、検品して、そこから祭壇に届ける。受領の印は、教会の人に押してもらう。手代じゃなくて」
「二号店」
ラディカが、その言葉を口の中で転がした。
「でも、店長。二号店って、灯はどうするんですか。ここの店の灯は、この建物から出てるんですよね」
それが、一番の問題だった。
◇
答えは、レジだった。
この店には、レジが二台ある。
一台目は、私がいつも立っている、入口に近いほう。二台目は、その奥。日本では、夕方の混む時間と、朝の通勤の時間にだけ開ける台だった。二号機と呼んでいた。
異世界に来てから、二号機は一度も使っていなかった。
「あれ、外せるか」
三輪さんが言った。
「外せます。電源と通信の線を抜けば、本体は持ち運べます」
日本の店で、レジの入れ替えに立ち会ったことがある。工事の人が線を抜いて、台車に載せて運んでいった。
でも、この世界には電気がない。この店のレジは、電気なしで動いている。線を抜いたら、二号機はただの箱になるかもしれない。
なるかもしれない。
ならないかもしれない。
「試すしかないね」
その夜、精算を終えてから、私は二号機の裏の線を一本ずつ抜いた。
画面は、点いたままだった。
台車に載せて、バックルームの奥まで運んだ。それでも、点いたままだった。
最後に、自動ドアの外まで運んだ。敷居を越える瞬間、私は息を止めた。
画面が、ふっと暗くなった。
「……消えた」
ラディカの声が、かすれた。
私は、二号機を店の中に戻した。画面がまた点いた。
外に出すと、消える。中に入れると、点く。
「店の中じゃないと、動かないんだ」
私はつぶやいた。
それから、もう一つのことを試した。
外に出した二号機の前に、ラディカに立ってもらった。その足元に、売場から持ってきたおにぎりを三つ並べた。木箱を一つ置いて、その上に。
最後に空き地に木の枠を立てて、戸板を一枚開けたまま立てかけた。
扉の代わりだ。
レジに人。棚に商品。扉が開いている。
二号機の画面が、ぼうっと点いた。
それと同時に、ラディカの頭の上の空気が、白く光った。
店の照明と同じ、白い光。ほんの小さな、畳一枚ぶんほどの四角だった。でも確かに、闇の中にそこだけ白い四角が浮かんでいた。
森の縁の夜喰いが、ざわりと後ずさった。
「……店だ」
三輪さんが、低い声で言った。
「レジと棚と扉があれば、そこが店なんだ」
ラディカは、二号機の前で、両手を胸の前で握りしめていた。白い光が、彼女の顔を照らしていた。
◇
王都セルナは、石の壁に囲まれた町だった。
ミルデから荷馬車で丸一日。最初に二号機を運んだのは、私とラディカとバルドさんだった。二号機は、毛布でくるんで荷台に縛りつけた。店の外に出た二号機は、ただの重い箱だった。
王都の門をくぐったのは、日暮れの直前だった。
大通りには、灯がともっていた。石造りの家々の窓に、ランプの火。教会の尖塔の上には、大きなかがり火。
でも、大通りを一本外れると、暗かった。
裏通りの家々には、灯が一つもない窓がいくつもあった。路地の奥で、影がゆらりと動いた気がした。
「王都の中でも、灯のない家があるんですね」
ラディカが小声で言った。
バルドさんが、低くうなった。
「灯税が払えねえ家は、灯をともせねえ。ともしたら、払わなきゃならねえからな」
二号店の場所は、下町の門の近くの、つぶれた雑貨屋だった。
バルドさんが、ギルドの伝手で借りてくれた。間口は狭いが、奥が深い。棚を三列置ける。
その夜、私たちは店の中で二号機を据えた。棚を組み、ミルデから運んできた荷を並べ、戸を開けた。
ラディカが、二号機の前に立った。
画面が点いた。
天井が、白く光った。
店ほどの明るさではなかった。でも、つぶれた雑貨屋の埃っぽい天井が、白い光で満たされた。開けた戸から、光の四角が石畳の上に落ちた。
路地の奥の影が、すうっと引いていった。
戸の外で、足音が止まった。
裏通りの家から、子どもが一人、こちらをのぞいていた。痩せた子だった。手に、火の消えたランプを提げていた。
ラディカが、戸口まで歩いていって、しゃがんだ。
「いらっしゃいませ」
子どもは、きょとんとした顔で、光の中に一歩踏み込んだ。
◇
翌朝、前の日の日暮れにミルデから着いた荷を、教会へ運んだ。
おにぎりが四百三十個。祭壇の裏口に運ぶと、金の縁取りの服を着た男が待っていた。鷺沼さんの手代だった。
「そこに置いていけ。数はこっちで見る」
手代は、箱を開けもせずに顎をしゃくった。
ラディカが、一歩前に出た。
「検品をお願いします。二人一組で、こちらと教会の方で一緒に数えます」
「客人様の荷だぞ。誰が数える必要がある」
「客人様の荷だから、数えます」
ラディカは、祭壇の奥から出てきた若い侍祭を呼び止めた。事情を話すと、侍祭は戸惑いながらも箱の前にしゃがんだ。
ラディカが読み上げる。侍祭が伝票と見比べる。四百三十。合っている。
侍祭が、伝票の境目に教会の印を押した。半分の円が、二枚の紙にまたがった。
手代は、舌打ちをした。
「旦那に言いつけるぞ」
「どうぞ」
ラディカは、店の控えをきちんと畳んで、懐にしまった。
◇
二号店の開店準備は、ラディカに任せた。
棚の配置、雇う人の教育、仕入れの段取り。ミルデの倉で十二人を育てた彼女なら、できると思った。
ただし、お金は私が握った。
準備に使うお金は、毎朝、私が必要な分だけ数えて渡す。夜、使った分の書き付けと、残ったお金を返してもらう。それを私が数えて、帳面と合わせる。
「店長、わたし、お金の管理もできますよ」
ラディカは言った。
「分かってる。でも、これは私の仕事だから」
ラディカは、少しだけ寂しそうな顔をした。
それから、うなずいた。
「分かりました」
私は、本店とミルデと二号店を、行ったり来たりした。本店のレジは三輪さんが、ミルデの倉はセルカさんが、二号店の準備はラディカが見てくれた。私は、そのどれにも毎晩の精算の数字を届けさせて、全部を自分で突き合わせた。
眠る時間は、荷馬車の上だけになった。
◇
これは、ずっとあとになってラディカ本人から聞いた話だ。彼女の言葉のまま書いておく。
その夜、わたしは二号店のカウンターの中で銅貨を三回数え直した。
足りない。
書き付けに書いた使い道を、一つずつ指でたどる。棚の板を十二枚。釘を一袋。戸の蝶番を二つ。雇った二人への日当。
全部合っている。
なのに、手元の銅貨が、書き付けより四枚少ない。
わたしは、もう一度数えた。四枚少ない。どこで落としたのか、どこで払い間違えたのか、思い出せない。
明日の朝、これを店長に返す。店長は数える。四枚少ないことに気づく。
そうしたら、店長は何て言うだろう。
たぶん、何も言わない。
黙って、自分の布袋から四枚出して、帳面に一行書く。それで終わりにする。わたしを責めたりは、絶対にしない。
それが、一番いやだった。
店長の布袋は、ミルデの倉で見たとき、もうぺしゃんこだった。あそこから、さらに四枚。
わたしは、自分の給金の袋を出した。
店長が毎週渡してくれる、わたしの取り分。この世界に来てから、ほとんど使っていない。
そこから、銅貨を四枚出した。
手元の銅貨に、足した。数えた。書き付けと、ぴたりと合った。
合った。
わたしは、しばらくカウンターに両手をついて立っていた。
ガラスのない戸の外で、王都の夜が静かだった。二号機の白い光が、石畳の上に四角く落ちていた。
店長は、いつもこうしていたんだ。
合わないときは黙って足して合わせて、何もなかったことにする。
分かってしまった。どうして店長がそうするのか。
合わないと言うのは、怖い。誰かのせいにするのも、自分のせいにされるのも、怖い。黙って足せば、誰も傷つかない。
わたしは、給金の袋の口を固く縛った。
明日、店長には言わない。
◇
二号店の準備が整ったのは、四日後だった。
その朝、本店に戻った私を、ティルが待っていた。
ティルは、バックルームの机いっぱいに、紙を広げていた。
「リツさん。これを見てください」
紙には、村の名前がずらりと並んでいた。七十二。その一つ一つの横に、数字が二つ書いてある。
「左の数字は、この四日間の伝票の灯数です。毎日の灯数を足して、四で割りました」
ティルの指が、紙の上をなぞった。
「右の数字は、ミルデの出張所の壁に貼ってある、教会の告示です。灯税の額を決めるための、村ごとの灯の数」
私は、紙をのぞき込んだ。
ホロ村。左が二十五。右が六十。
その下の村。左が十四。右が三十八。
その下。左が九。右が二十五。
どの村も、右の数字のほうがずっと大きい。
「全部足しました」
ティルは、紙の一番下を指さした。
二つの合計が、並んで書いてあった。
左の合計を右の合計で割ると、四割ほどだった。
「七十二の村の本当の灯は、教会の数字の、四割しかありません」
ティルの声は、静かだった。
でも、紙を押さえている指先が、白くなっていた。
「おばあちゃんが毎晩数えてた灯簿。ホロ村の灯は、三十年かけて、四十二から二十三まで減りました。でも教会の数字は、ずっと六十のままなんです。おばあちゃんが子どもの頃から、ずっと」
私は、何も言えなかった。
減った灯は、どこにも書かれていない。
消えた村の灯は、教会の帳簿の上では、まだともっていることになっている。
チャンスロスと同じだ。
失われたのに、誰も数えない。どこにも記されない。だから、誰も気づかない。気づいたときには、取り返せないほど大きくなっている。
ティルが、顔を上げた。
その目は、まっすぐに私を見ていた。
「店長」
初めて、彼女は私をそう呼んだ。
リツさん、ではなく。
「教会の数字は、どこから来てるんですか」




